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「それ、原作ではね」っていう奴。

 16本目『人魚の眠る家』。これもこないだまで映画館でやってたイメージですが、それをWOWOWが早くもやってくれたので、録画して、観たわけです。ありがたし。

さて、ストーリーは自分の子供が植物状態になっちゃったお母さん、離婚秒読みのロボット研究者の旦那。子供にたくさんの機械をつけて、動かしてどうにか「生きている」と思い続けているお母さんがどんどん孤立していくっという感じのかなりの重さ。俳優陣がしっかりしているので、よりね。

で、そもそも僕は東野圭吾が大好きで、ほぼ全部の小説を読んでいるわけです。もちろん、この作品も小説を読んでいて、「映画化されそうだなあ」って思ってたらすぐ映画化されて、じゃあ見に行くかと。まあ、映像化されてない東野圭吾作品探すほうが大変ですが。

原作を知っている状態で映画を見に行くと、まず、先の展開がわかっている。そして、ほとんどの場合テーマも変わらない。なので、小説をおっかけるように観てしまうんですね。さらには、小説とは違う部分が目につく。今回も小説である程度しっかり描かれている人物が、まるまるとカットされている。

こうなってくると、もう戻れない。「あの人物は大切なのに」って思っちゃう。でも、映画は、その人物を出さないことによって、描き方が変わってくるし、それによって生まれるプラスの効果だってある。でも、原作をよんじゃってるがゆえに、それの判断をすることが難しくなっちゃうんだよね。

映画見たあとに「それ原作読んでからのほうがよかったよ」というやつは嫌われるやつの代表ですよね。確かに、小説は文章であるがゆえに、人物の心情が事細かに描かれている。でも、映像になるとそれを顔や動きで表現するし、あえて気持ちを表現しないことによってストーリーがおもしろくなることだってある。小説にできないことを映像ではやってるんだけど、原作至上主義の人はストーリーばっかり追っかけて、音楽と画はおっかけてないよね。

それが素晴らしければ「原作を超える映画」だってちょいちょいあるわけだし。そういう作品の原作小説を読んでる原作至上主義びやつをとっ捕まえて、「それ映画のほうが良かったよ。映画見てから原作読めばよかったのにね」って言ってやりたいね。

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