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「ゲームセンターあらし」のはじまり/すがやみつる著『昭和「コロコロ」マンガ爆走伝説』試し読み

\コミックス累計500万部を記録!/
「ゲームセンターあらし」の
漫画家、激動の日々!

マンガ家と出版社や編集者との関係性についても触れながら、『コミカライズ魂』のあとのひそかなマンガ体験を綴る。今だから話せる、さまざまな昭和マンガの裏エピソード満載の1冊!

【読み切りマンガ】
「ぼくのマンガ一本道」
「ゲームセンターあらしの頃」収録!

この記事では2024年9月20日刊行のすがやみつる著『昭和「コロコロ」マンガ爆走伝説』より本文の一部分を公開いたします。




『ゲームセンターあらし』の
きっかけは秋葉原


「テレビゲームのマンガを描きませんか?」と声をかけられたのは、秋葉原通いのおかげでした。この頃、アマチュア無線を楽しんでいた私は、無線機やアンテナの改造用パーツや電子工作の部品を買うために、仕事の合間を縫っては秋葉原に通っていました。

1976年9月、その秋葉原に姿を見せたのが、NECから発売されたばかりのマイコンキットTK–80のショールーム「Bit INN」でした。TK–80は、大判のプリント基板の上に、CPUやメモリーのチップや電卓のようなキーボードを半田付けしてつくるマイコンのキットです。個人で持てるコンピューターということで注目を浴びていて、私も興味津々でBit INNに通いました。

光電管を使った射撃ゲームがあったり、鉄道模型をマイコンでコントロールしたり─なんてデモが見られましたが、真空管からトランジスターで育ったアナログ世代のため、デジタル回路がまるで理解できません。

コンピューターの前にデジタル回路を学ぼうと、LSIや発光ダイオードを買ってきて、論理回路を組み立てていました。マンガの仕事も忙しいのに、マイコンのことが気になって気になってたまらず、原稿が1本終わると秋葉原に行くような状態でした。

この頃、講談社では「テレビマガジン」や「月刊少年マガジン」、小学館では「小学三年生」や「小学五年生」で連載をしていました。当然、編集者と打ち合わせをする機会も多くなりますが、講談社の編集者には東高円寺まで来てもらい、小学館には自分から編集部に出向いていました。

何でこんな差をつけたかというと、小学館が秋葉原に近かったから。ただそれだけです。「コロコロコミック」でSFマンガを描いたときも、打ち合わせは小学館に出向きました。もちろん秋葉原経由で。

秋葉原で買った電子部品やマイコン雑誌が詰まったビニール袋を持って学年誌の編集部に行くと、文科系の編集者は、どうしても怪訝けげんな目で見ます。「コロコロ」の担当もしてくれた「小学三年生」の編集者には、理解不能のマンガ家と思われたのか、「宇宙人」と呼ばれるようになりました。

こちらも、他のマンガ家とはちがうところを印象づけようと、「マンガ家多しといえども、回路図が読めるマンガ家は、ぼくくらいですよ~」などと言って、編集者をけむに巻いていましたので、宇宙人あつかいされるのは、むしろ大歓迎でした。

これは、ある意味、他のマンガ家とは一味ちがうことを印象づける戦略でもありました。学年誌や児童誌でコミカライズの仕事ばかりしていると、便利屋で終わってしまう危惧があります。このあたりで他のマンガ家とちがうところを編集者に印象づけておいて、何かオリジナルマンガでヒットを出さなければ、30歳までにサラリーマンの生涯賃金を稼げません。そうなると第二の人生が厳しくなってしまう不安があります。

そんなことも考えてはいましたが、マイクロコンピューターへの興味が、70パーセントくらいは占めていたようにも思います。でも、秋葉原で買った電子部品を持って小学館に行く戦略は、まんまと当たりました。前述のとおり「テレビゲームマンガ」の依頼につながったからです。

「コロコロ」の編集会議でテレビゲームマンガの企画が出て、「誰に依頼しようか」という話になったとき、すぐに「すがやみつる」の名前が出たといいます。理由は、もちろん「エレクトロニクスに強そうだから」。

少し前に「コロコロ」に描いたSFマンガの人気が取れなかったことから、すがやみつるの起用に反対する編集者もいたようです。しかし、他に適任のマンガ家が思いつかなかったとのことで、めでたく私に白羽の矢が立ったのでした。

ところが、その依頼は特急中の特急でした。
「タイトルは『ゲームセンターあらし』と決まっているから、このタイトルのイメージで主人公をもらいたい。今日が表紙の校了なので、とりあえず主人公の顔のカットだけ、何通りか描いてほしい」とのこと。しかも「1時間ほどで着くように学生バイトのお使いさんを向かわせるから、カットを渡してほしい」というのです。

さらに「前に描いてもらったSFマンガの主人公みたいなハンサムな少年でなく、もっとワンパクでいたずらっ子の小学生にしてほしい」と念押しされました。半年ほど前に描いた『イースター島の謎』や『インカの亡霊』が不人気だったのは、「きれいな主人公だったから」と分析されていたようです。「わかりました」と返事をして電話を切ると、私はすぐに原稿用紙に向かいました。

それまでギャグマンガで不細工な主人公を描いたことはありましたが、ストーリーマンガでは、ほぼ二枚目系の主人公ばかりでした。
そんななかで、つい先日まで描いていた『ダイナマイトどんどん』の主人公は、映画で菅原文太が演じていた役柄を意識して、見た目は二枚目系でも性格はハチャメチャな猪突猛進型。ちょっと悪ふざけが過ぎた作品でしたが、その分、楽しんで描くことができた作品でした。ペンタッチも劇画を意識して線に強弱をつけ、わざとガサついた感じを意識していました。

——あんなタッチでいけばいいのかな……なんてことを考えながら部屋のなかを見まわすと(「コロコロ」からの電話を受けたのは仕事場にしていたアパートの1室でした)、書棚に立てかけてあった数冊のコミックスが目に入りました。

本当に偶然ですが、そこにあったのは『釘師サブやん』と『包丁人味平』のコミックスでした。いずれも原作・牛次郎、マンガ・ビッグ錠の黄金コンビによる作品です。

『釘師サブやん』の主人公・茜三郎(通称・サブやん)は、髪は天然パーマ、鼻は丸くあぐらをかいていて、頬はソバカスだらけ。「日本のストーリーマンガ史上初の不細工系主人公」ともいえるユニークなキャラクターで、「週刊少年マガジン」で初めて目にしたとき(1971年)は、「こんなんで人気が出るの?」と首をかしげたものでした。

しかし、パチンコの釘師である主人公とパチプロたちの秘術を尽くした凄絶な戦いを描いたマンガは、実に面白く、結局、コミックスまでそろえることに。

同じ牛次郎&ビッグ錠両氏による『包丁人味平』(「週刊少年ジャンプ」1973年~)も、面白さでは『サブやん』以上。とくに「これぞマンガ!」と唸ったのは、味平の父が、身を捌いて骨だけになった鯛を水槽で泳がせるシーン。鯛は、自分が捌かれたことにも気づかずに泳いでいるというのですが、この発想と設定には、もう感服の一言。以後、このマンガもコミックスを買いつづけることになりました。

結局、『ゲームセンターあらし』は、ストーリーの設定でも『釘師サブやん』と『包丁人味平』をテキストに、ゲームマンガならではのアレンジを加えていくのですが、それはもう少し先のこと。まずは、キャラクターの顔づくりに『サブやん』と『味平」を参考にすることに心をくだいていました。

このとき『あらし』の候補として、5通りほどの顔をつくりましたが、いずれもソバカスだらけで、鼻は丸かったり、上を向いていたり、鼻の穴が見えるブタっ鼻だったり、団子っ鼻だったり。髪は長かったり、短かったり、天然パーマだったり。そのうちの二人の顔からは出っ歯がニョキリ。

さらにゲームセンターにたむろする少年ということで、ちょっと不良がかったイメージを出すため(当時のゲームセンターは不良少年の溜まり場だった)、ベースボールキャップならぬアポロキャップをかぶせてみたりも。

5通りのキャラクターをペンで描き、そのうちの1キャラクターだけに、水彩絵の具で色をつけました。もちろん作者のイチオシとしてです。
まもなくバイトの学生が到着し、描いたばかりのキャラクターのカットを渡しました。

この時点で決まっていたのは『ゲームセンターあらし』というタイトルだけ。キャラクターも未定で、5カットの候補から編集部が選ぶことになっています。

実に急で雑な作業ですが、私は、さほど気にしていませんでした。というのもマンガの題材が、近頃、喫茶店にもテーブル筐体が置かれはじめた「テレビゲーム」で、それも「テーブルテニス」や「ブロック崩し」というシンプルなもの。人気にはなっているものの、どうせ一過性のブームに過ぎないだろうと考えていたからです。

「1回こっきりの読み切りで、二度と描くことはないだろう。だから、ささっと描いて、ささっと終わりにすればいい」くらいの考えでした。まさか、連載になり、テレビアニメにもなって、5年もつづき、漫画賞までいただく私の代表作になろうとは、夢にも思っていなかったのです。

あらしのキャラは第2候補に決定


翌日、「コロコロ」編集部の平山隆さんが、地下鉄丸の内線に乗って東高円寺までやってきました。会ったのは東高円寺駅近くの喫茶店です。
平山さんは、昨日、校了にした「コロコロ」の表紙レイアウトを持参していました。

表紙レイアウトはモノクロコピーでした。レイアウト用紙は、デザイナーさんが鉛筆でトレーシングペーパーにロゴやマンガのキャラクターを配置し、色指定をしたもので、原物は印刷会社に入稿されています。そのため平山さんはコピーを持ってきてくれたわけですが、当時はカラーコピーなどありません。必然的にコピーはモノクロになるわけです。

「『ゲームセンターあらし』の顔は、これにしたから」と平山さんが、テーブルにひろげたコピーの右下を指さしました。表紙レイアウトの右下隅に『ゲームセンターあらし』のタイトルとともに「あらし」の絵がありました。

『ゲームセンターあらし』第1回表紙カット。作者は左を推したが、編集部は右を採用。

しかし、その絵は、私がイチオシしたものではありません。平山さんによれば、「編集で協議した結果、これが一番いいということになってね。色は、着色してあったのを参考に、デザイナーさんに指定でつけてもらった」とのこと。まあ、しかたありません。

「ストーリーは、どうしましょう?」
と質問すると、平山さんは財布から1万円札を1枚取り出して、ひらひらさせながら、「ストーリーの相談をする前に、歌舞伎町に行ってゲームセンターを取材しましょう。この1万円札を100円玉に両替するから、使い切るまで帰っちゃダメってことで」と言うのです。

「アシスタントも呼んでいいですか?」と訊ねるとOKとのことで、常勤のアシスタント3人を呼び、そろって地下鉄丸の内線で新宿に向かいました。

この頃、テレビゲームは急速に普及し、喫茶店にもゲームができるテーブル筐体が置かれていました。とはいえ、ゲーム機がたくさん置かれている場所といえば、やはり盛り場のゲームセンターです。私もときどきゲームセンターでゲームを楽しんでいましたが、当時のゲームセンターといえば、治安の悪い盛り場の一角にあるのが当たり前。私がゲームを楽しんだ場所も、中野のブロードウェイか新宿の歌舞伎町でした。

途中の銀行で1万円札を100円硬貨100個に両替し、私たちは意気揚々と歌舞伎町のゲームセンターに乗り込みました。といってもテレビゲームの種類は少なく、前にも紹介した「テニス」や「ブロック崩し」くらいしかありません。

この時点で私は、どちらのゲームもかなりプレイしていました。アメリカ生まれの「ポン」がベースになった「テニス」は、内容がシンプルで、さほど面白くありません。

その点、これもアメリカのアタリ社が開発した「ブロック崩し」(原タイトルは「ブレイクアウト」)は、かなり進化していました。積みかさなったブロックに穴を開け、その裏にボールを入れると、ブロックと壁のあいだで連続してブロックを崩す「ブレイクアウト」が起こるのです。これが快感でした。パドルはボールの当たる位置によって反射角度を変えるので、この機能を使ってボールを狙った位置に飛ばす練習もしたものです。

実は、高得点が出る「ブレイクアウト」やボールの反射角度を変える「わざ」は、アマチュア無線仲間の山田くん(通称・山ちゃん。マンガ『ラジコン探偵団』のキャラクターとしても登場)という大学生に、東高円寺の喫茶店で教えてもらっていました。

おかげで歌舞伎町のゲームセンターでは、100円硬貨がまるで減りません。アシスタント3名はテレビゲーム初心者でしたが、連続してプレイするあいだに熟達し、1プレイが長時間つづくので、やはり100円玉が減りません。そこでピンボールやコイン落とし、果てはスマートボールまでやって、なんとか100個の100円硬貨を使い果たしました。

アシスタントを先に帰し、私と平山さんは近くの喫茶店に入ってストーリーの打ち合わせを開始。ここで私は、昨日から考えつづけていた設定とストーリーを一気に話しました。

主人公の名前は「石野あらし」。近所に住む作家の石津嵐さん(本名)の名前をもじったものです。石津さんの名前をそのまま使うと、「俺に断りがなかったじゃないか。一杯おごれ」なんて石津さんから言われるに決まっていたので、少し変えました。その数年前に活躍したイシノアラシという競走馬の名前も、チラリと脳裡をかすめたような気もします。

ゲームセンターに出入りするプレイヤーのあらしは、天才少年の大文字さとると「ブロック崩し」で戦いますが、敗れてしまいます。そこであらしは、ゲームセンターのマネージャーの支援も受けて特訓。必殺技を見つけ出し、みごと逆転勝利するという絵に描いたような少年マンガの展開です。

ライバルのさとるは、はじめはプレイヤーとして登場しますが、途中からはゲームをつくったり改造したりするプログラマーの役割も果たします。
この〈あらし対さとる〉の関係は、『釘師サブやん』の主人公サブやんをプログラマーに、「ゴト師」と呼ばれるパチンカーをプレイヤー(「ゲーマー」という言葉は、まだありませんでした)に置き換えたもの。つまり、『釘師サブやん』の主人公とライバルの関係を逆転させたものだったわけです。

ストーリーの展開は王道的なものなので、とくに問題はありませんでした。ただし、これで打ち合わせが終わったわけではありません。平山さんは、最後に痛烈な一言を浴びせてきました。

「すがやさん。このあらしという主人公には、最後のクライマックスで、敵にとどめを刺すときに、かならず逆立ちをさせてください!」
「ええっ? 逆立ち……ですか?」

お読みいただきありがとうございました。
続きはぜひ本書でお楽しみください!



\ 2024年9月20日発売!/
すがやみつる 著
『昭和「コロコロ」マンガ爆走伝説』

〈目次〉

第1章 アシスタント発
   ~編集者経由~コミカライズ作家行き
第2章 少年マンガは遠かった
第3章 ホビーマンガに開眼
第4章 『ゲームセンターあらし』ブレイク前夜
第5章 ラジコンカー入門書の印税でパソコンを買う
第6章 『ゲームセンターあらし』絶頂へ
第7章 さらば『ゲームセンターあらし』

電子書籍は、Amazon Kindle版が
9月20日より順次配信されます

すがやみつる
日本マンガ学会、日本推理作家協会会員。1950年、静岡県富士市生まれ。マンガ家アシスタント、編集プロ勤務などを経て1971年から石森プロに所属し、同年、『仮面ライダー』(原作・石ノ森章太郎)でマンガ家デビュー。

『仮面ライダー』シリーズや『人造人間キカイダー』『がんばれ!!ロボコン』など多数のコミカライズ作品を手がけた後、児童マンガ家として独立。79年より「コロコロコミック」に連載した『ゲームセンターあらし』がアニメになるなどしてヒット。83年、同作と『こんにちはマイコン』の2作で小学館漫画賞を受賞。84年より大人向け学習マンガを多く手がけ、『一番わかりやすい株入門』(講談社)がベストセラーになる。

85年よりパソコン通信を開始し、普及への貢献が認められ、87年に第1回ネットワーカー大賞(アスキー主宰)を受賞。94年、『漆黒の独立航空隊』で娯楽小説作家として再デビュー。以後、60冊以上の小説を刊行。2005年、早稲田大学人間科学部eスクールに入学し教育工学を専攻。11年、早稲田大学大学院人間科学研究科修士課程を修了。11 ~ 12年、早稲田大学人間科学部eスクールで教育コーチ職に就き、学生の卒論指導などを担当。11~14年、財務省、総務省で統計学研修講師。

12年、京都精華大学マンガ学部非常勤講師。13 ~ 21年、京都精華大学マンガ学部および国際研究センターにて教授。22 ~ 23年、ヒューマンアカデミー・ヨーロッパにてフランス人学生にマンガ制作を指導。2024年より、日本マンガ学会会長。近著に、『マンガ家と学ぶ著作権実務入門』(樹村房)、『超スピードテク満載 クリエイターのためのネットで簡単&得する確定申告』(ビジネス社)、『ゲームセンターあらし 炎のベストセレクション』(小学館)、『こんにちはPython』(日経BP)、『コミカライズ魂』(河出書房新社)がある。
 
・すがやみつるWebサイト https://www.m-sugaya.jp/
・すがやみつる「X(旧ツイッター)」アカウント msugaya

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