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本当に困った人とはだれか

自分の過去の日記が見つかるたびに恥ずかしい思いをする。たとえば、2005年6月13日の僕の日記にはこんなことが書いてある。

今朝母親と言い争った。
過去に母親にされた仕打ちを思い出し、「どうしてくれんだこの野郎!」と怒鳴り散らした。
「私が悪かったことは認める。でも責任は取れない。取りようがない」と母は言う。
確かに失われた過去の時間を取り戻すことはできない。
しかし僕に残された道は泣き寝入りすることしかないのか。
現実的に、そして合理的に考えれば過去のことは水に流して、未来に眼を向けるべきだと思うが……それが難しい。

この日記から14年近く経っているけど精神年齢は全然変わっていない。たぶん、母親が生きていたらこのようなやり取りを今でも続けていたと思う。

過去の呪縛から逃れるのは難しい。端から見れば、とても醜悪でイライラすると思う。そして、それ自体がその人の状況を悪化させる。まわりからの支援を受けづらくなるからだ。

村上春樹が、震災や大きな事件に対する人々の態度の変化をこのように語っている。

「最初に興奮があってそれから同情みたいなのに変わって、それがすぎると『まだやっているのか』というのに変わってしまう」

救われない弱者というのは、実はとても醜いのだと思う。だけど、それを支えるのが社会なんだけれど、世間はそういう人たちを認めず、「本当に困った人にこそ支援を!」と考える。

だけど、本当に困った人というのは、自分のまわりにいてほしくないタイプなんだと思う。たとえば、お金を渡してもその日のうちにパチンコに使ってしまうような……。でも、そういう弱者に対し、人々は怒りの感情をぶつける。「そいつらは弱者ではない、怠けているだけだ」と。

弱者というポジションを勝ち取るには弱者ランキングで勝ち上がるための強さがなければならない。つまり、幾多の弱者の中から選ばれた強者になる必要がある。

弱者に認定されるとその人たちはたちまち強者に変わる。弱者権力を手にして、自分たちをたしなめる人たちにも差別主義者と罵ったり、自分の間違いを弱者であるがゆえに起きたことだと主張する(それが実はそうでないにしても)。

弱者権力を適度に発動するぶんにはまだいいのだけれど、乱用するようになると、人々から徐々に敬して遠ざけられるようになる。関われば、面倒くさいことになるからだ。

そして、彼らは本当に困った人たちになってしまう。


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