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3.そもそも表現てなんだってんだ

 (『1.君に俳優を志すのをやめさせたい』の連作ですが単独でも完結しています)
 役者になりたい人にどうして役者を選んだのか、と聞いても皆、ぼんやりしています。一番大事な事がすっぽり抜け落ちています。ここを通らずに「表現」の道を選んでもすぐに迷子になります。表現? 役者と関係ないじゃない!? いえいえ、大有りです。

 ゴッホのように、自分だけが見た景色を多くの人に伝え、それが多くの人を励ますとなれば、最高です。表現の理想です。けれど、ほとんどの景色はその人だけに消費されています。長電話が好きな知人のテレビカメラマンのおじさん(ピュアおじさん1、主にドキュメンタリーや旅番組を撮影)が「ゴッホが見たように、俺ももう少しで見れるかもしれないんだ」と秘密裏に自分のためだけに努力していたのが心に残ります。何をやっていたかは教えてくれませんでしたが。

 表現までの過程をあらためて考えてみたいと思います。特に、演技について、そのとてつもなく大切な工程を忘れられがちだからです。
私が勝手に5つに仕切って整理してみたいと思います。

1、 あなただけが見る景色、あなただけのセンサーで受け取る信号。
2、 それを表出したい欲求
3、 表現方法の選択
4、 表現技術の鍛錬
5、 表現の場を設ける

 このどれが抜けても、多くの誰かに届く事はかないません。(後に触れますが、2、3、5について、他の誰かが担う事が可能)俳優業を目指す人の中で1が意識できている人はどれくらいいるのでしょう。1から詳しく見て行きます。

 当たり前なのに当たり前になってないので言いますが、何も表現しない人の中にもその人しか見えない美しく興味深い景色を見ています。人に会う事も少なく、話す事も特にないまま、だれかにとってはのっぺりした世界でも驚くほど鮮やかな景色を見ていたりします。ふと、表情やしぐさや話し方からそういう世界の見え方の断片に触れると、じーん、と来ます。
 パート事務をしていたコンサルタント会社に初老おじさんパート(ピュアおじさん2)がいました。テキトーな仕事と、業務中によく寝る事で有名でした。どうでもいいですが、身長150センチくらいで私より小さいおっさんです。ある時、上司から出張先のお土産の不細工な顔の形の菓子をもらった時でした。小さいおっさんは両手でそっと菓子を持ち上げて「かわいい」と愛おしそうに言いました。会って2回目でしたが「何か作ってます?」と聞いてしまいました。「ああ、曲を作ってます」とすぐに言いました。ドラマでしたら、そこから恋でも始まりそうな、我ながら、いい感じの言葉の交換です。現実は小さいおっさんと名もなきパートのおばさんが、こういうやりとりをしてます。特に「いいとこついてきたね」という感じもありません。「いい天気ですね」「晴れですね」くらいのトーンです。私だけかじーんとしてました。

 何かを表現している人でなくとも、ただ、自分自身で味わってるだけの人達はたくさんいます。俺がみたこの景色を他の誰かにも見せたい、という欲求は別問題です。

 センサー(1)と表現方法の選択、技術(3、4)があっても、表出の欲求(2)がなかった、という例があります。『ひかりごけ』などの傑作で有名な武田泰淳の妻である武田百合子さんは夫の死後にエッセイを出版されました。「どんな風につけてもいい。何も書くことがなかったら、その日に買ったものと天気だけでもいい」とまで夫に言われてしぶしぶ書いた日記だそうです。文豪は妻の「おもしろさ」を残した方がいいと感じていたからだと勝手に思います。表出の欲求(2)部分を別の人が担った例ですね。彼女の目から入った視覚の電気信号が彼女自身を通って生成された表現は人の心を打ちました。こんな風に世界を映しているのか、と。ここで私の語彙力不足を披露すれば「マジ、ファンキーで、超じわじわくる」。

 どんなに素敵で、あなたたにしかないセンサーだから受け止めとめる事ができた信号も、ほとんどの人に賛成を得られるような提案も、それを外に表せる手段を持っていなければ多くの人に届きません表現手法の選択(3)です。絵画、ダンスで、文章、数式、料理、物理、演技、ボクシング、スピーチ、ブログ、プログランミング、裁縫、農業かもしれません。自分が好きで、適性があるものを選びます。

 表現方法の選択(3)を別の人が担う事は割と良くあります。親が子にそれを意図的にもそうでない場合にも選択させる時ですね。

 表現技術の鍛錬(4)について、自分の恥ずかしい思い出がよぎりました。学生の時、何もできませんが、難民キャンプに行きました。初めて会った、どうもそりが合わない同行者は英語が得意でした。一方、私は日常会話もやっとでした。そんな中、彼女が現地の男性をシェアしている部屋にすぐに連れ込んでしまうので、困っていました。彼女もまた、男性を連れ込むと私が文句を言うので困っていました。結局彼女は施設責任者に直訴し、自由を手に入れる為に施設内に個人用の立派なテントを張らせました。国連の施設で。最高責任者をなんて説得したかわかりませんが「あなたは古い人間ね」とドレッドヘアのイケてる女性アフリカ人責任者に言われました。惨敗です。(1)も(2)も(3)も(5)もあったのに4(鍛錬)が足りなかった例です。

 どんな表現も(1)がなくては何も始まりません。誰かの(1)リサイクルした表現も多いですね。(程度の問題ですが)もし、誰かの見方(1)に刺激を受けたとしても、もう一度自分の感覚で(1)から始めなくてはいけません。あ、冒頭のピュアおじさん1みたいな事ですね。

 一つ、恰好いいから、やってみたいから、人気者になりたいから、というだけの理由で初めて続けているうちに技術が身についた後、(1)を反映できるようになる事もあるかもしれません。いずれにしても(1)なくしてはだれかの心を揺さぶる事は少なそうです。

 ここで、あなただけが受け止めた信号は苦労してまで表に出す価値のあるものかという問いがあります。私の考えでは、それが、世の中に浸透していない何かであれば、内容についての判断なしで、表に出す価値が十分あると思います。同じような信号でも同じ表現手段の中になければ価値になります。同じ信号の同じ手段でも、技術的に自分の方が上だと考えるのならば価値がある可能性があります。「表現の役割」については改めて最終回に触れたいと思います。

 とにかく、(1)がないまま演技をしようとする人が多すぎて驚きます。そもそも演技を「表現」として捉えている人が少なすぎる。演技の(1)ってなんだ、って事については次の次の回でお話します。既にもう出来ている人もいるかもしれないし、人によっては思いもよらない事かもしれません。具体的なイメージを掴んでもらえればと思います。

 次回は役者の仕事内容のイメージについて、広く一般的に知れている内容がズレている気がしてならないので、それを確認し、次の次の回から(やっと)役者に必要な心の基礎体力について触れていきたいと思います。是非、懲りずに読みに来てください。

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