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また&まだ! でなかった話

 たまたまつっこみシリーズが続いてしまいますが新聞を見ていて。(↑写真)
 また作家協会の荒井「先生」。また&まだ原作者を怒らせている! と思ったら、よく読んだら共同で書いていたその作品デビューの新人の脚本家をおこらせている、という事で、二重にびっくりしましたが。原作者の方はすでにお亡くなりになっているので、なんておっしゃられるか聞いてみたかったです。共同脚本家の方の言い分が完全ではありませんが認められたようで、ほっとします。原作も映画の内容を知らなくてもそう思ってしまうのは以前の裁判を思い出すからです。

 この「先生」は、新聞記事の中では触れられていませんでしたが15年程前は「やわらかい生活」の脚色で原作者を怒らせていました。人の考え方は年月で変わるものでないんだな、と改めて考えてしまう。
参考

 原作者を怒らせるなら、共同脚本家も怒らせるんだろうな、と容易につながります。争いの本質はとても似ているようで。少し前、作家協会の動画が炎上して、それについて前に触れましたが、荒井氏はまさにその協会の「重鎮」です。もっと包み隠さないバージョンがこのリンクにあるような事です。改めてとんでもねえこと言うなあ、と思うので引用しておきます。※は私の注釈

荒井氏は、「どこかの独裁者(※原作者)みたいで、表現の自由はどうなってしまうのか。小説と映画は別モノなのに、今は原作者の方が“上流”にある。

https://www.bunkatsushin.com/varieties/article.aspx?id=1785

 今回は訴えられたのですが15年前は「シナリオブック出版したらダメ」と言った原作者を訴える側です。独裁者って……。プーティンですよね。言う事聞かないから相手を独裁者って言う感じ。「上流」て、まるで河川が二本あるような言い方。原作なくして生まれなかったシナリオなんだから「上流」でなくてどこにあるんですか。

 担当弁護士さんの負けちゃったのはなぜ分析も見ておきましょうかね。

 弁護士は、「裁判所の判断は、①利益衡量の本質を有する権利濫用の判断において、原作者の主観的不満を量りに乗せており、②シナリオについて別モノの著作物と見ていない、③シナリオと映画の関係を理解していない」と分析。

https://www.bunkatsushin.com/varieties/article.aspx?id=1785

 ①については量りに乗せちゃいけないわけを言わないと私もこのシンポジウムの参加者も理解できないと思うし②は繰り返しますが原作なくして生まれなかったシナリオなのに何をどうして別モノになれるの、と聞きたいし。荒井氏も「別モノ」って表現してたけど、何コレ。軽い言い方。③は理解したところで判決にどれくらいかかわるか説明してくれい、と感じます。この1,2,3ステップで絶対に膝打たないですよ。私とだいたいは。

荒井氏(写真右)は、「つまらない原作を面白く、面白い原作をさらに面白い映画にしようと思っているだけなのに、原作者は脚本に赤を入れてくる。それで面白くなればいいが、監督たちも変わってきているように思う。先ほど、プロデューサーは何をしていたのかという質問が出たが、プロデューサーも監督も一回も裁判所には来なかった」

https://www.bunkatsushin.com/varieties/article.aspx?id=1785&pg=2

 まず仲間内の居酒屋じゃないんだからこんな所で「つまらない原作」って言っちゃダメ。誰も聞いてくれなくなるのに。赤を入れられるには理由があるのに。一方的にジャイアンにいじめらた、のニュアンスしか入ってない。結局、PもDも味方にできなかった事は分かった。

 今回初めて先生のウィキペデアも見ました。

「シナリオはシナリオ作家の著作物である」とのスタンスから、監督やプロデューサーが自身に無断で自作シナリオを改変したとして、『時代屋の女房』『眠らない街 新宿鮫』『KT』の公開時に、『月刊シナリオ』や『映画芸術』誌上で強い不快感を表明している。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E4%BA%95%E6%99%B4%E5%BD%A6

 あ、自分がされたら怒るんだね、と思ったんですが、この三作、全部原作モノでした。……だからね、脚色の改変でそんな怒るんだから、原作者だったらもっと腹立つの想像できないんでしょうかね。「スタンス」の聞こえは恰好いいんですけど、もっと広く市民権を得てからくり出せる言葉だと思います。これはただの「考え方」ですね。

 色々幼くてびっくりしてしまいます。  
 
 別の方でこんなのを見ても、同じような事がどこにでも起こっていると思います。芦原さんが最初じゃあないんだろうな、と思う。
 
 あの大巨匠、橋本忍先生が脚色について語った事が有名ですね。原作を「牛」に例えてそれを雨の日も風の日も毎日通って観察、急所を定めて鈍器のようなもので一撃で倒す。「原作の姿や形はどうでもいい、欲しいのは生血だけなんです」と。
 まず、この原作=「牛」と例える感触はどうでしょうか。生っぽくて質量がある感じはします。牛はヒンドゥー教では神聖な動物として扱われます。調べてみると「牛神」も存在するようですが一般的に日本で神聖な動物のイメージの動物は少し違います。あと、鈍器のようなもの殺して生血が欲しいって表現の中にやはり、自分の方が全然上、みたいな感じがわかりやすく出ています。なめとこ山の熊の主人公小十郎がとても好きなのですが、小十郎は常に熊に対して畏敬の念を持って仕方なく殺している。そして最後は熊に殺されてしまう。元々そういう覚悟だった顔で死ぬ。それとは真逆ですね。
 あとですね、恐れながら「雨の日も風の日も」って、環境や体調の事を比喩として書いておられるとしたら、世の中の全部の仕事、皆そうですし。女性なんてホルモンに振り回される事、一人極限台風の中でも出勤してるよ、と言いたい。急所定めて一撃~ってのも、一流の美容師さんから外科まで使えそうだし。私の立場では「自分の作業の過酷さ、素敵さをとにかく恰好良く表現したかった」んですね、と受け止めます。でもその表現力そのままに「牛」を生み出す人の側を描写されたらなんておっしゃったのでしょうか。
 もちろん、素晴らしい作品、その感動、偉業を否定するつもりは全くありません。でも原作に対するその姿勢は、その姿勢だから産み出せたものだとしても、称賛されないと知りながら出すべきだった、または隠すべきだったと思います。下手したら死にますから。牛産んだ人。
 脚色、実際、大変なんだと思います。でも牛を生み出す人の大変さに相応の敬意を抱いていたら、こんな表現になりそうもないな、とも思います。やっぱり胸を張ってプライドを持って「脚色家」とすればいいのではないか、と私はつい思ってしまいます。

 乱暴に分けるとこういう事です。
 (特に依頼でない、自分の中から作る)原作を作る時、その人は「生きる」為に書いている。おそらく書いてないとうまく折り合いつけて生きていけない。脚色する時、その人は「生活する」為に書いている。書いてないと飯を食えない。(※人生変えるぐらいの原作を脚色する時は前者に近い)

 おまけですが、荒井先生のキャラクターが調べるほど面白買ったのでもう少し深ぼりしました(癖)。例の協会に載っていた荒井先生の昔のブログから抜粋して終わりにします。最後の一文まで、是非。

 青島武から電話。「さよなら渓谷」ダメでした。新潮社から柳町と契約するという返事がありました。こっちの監督は瀧本智行。競争相手は是枝裕和、柳町光男。原作者吉田修一の要望は監督柳町光男、脚本荒井晴彦でやってほしいということだったらしい。「私たちは幸せになろうと思って、一緒にいるんじゃない」というセリフを今の時代の男と女にぶつけてみたかった。金が入るアテがまたなくなった。

http://www.scenario.or.jp/kouza/relay/arai0929.htm

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