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担当編集が明かすエマニュエル・トッドの素顔と、「トッド本」の歩き方

歴史人口学者、家族人類学者、社会学者、地政学者、さまざまな顔を持つエマニュエル・トッドは1976年、弱冠25歳で著した『最後の転落』でソ連の崩壊を15年ほど前に“予言”。その後も米国発の金融危機(リーマン・ショック)やアラブの春、さらにはトランプ勝利を“的中”させ、ロシアのウクライナ侵攻で混迷を極める現在の世界情勢についても、透徹した視点で独自の発言を続けている。

近年もその活動は旺盛で、2022年には大著『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』の日本語版(堀茂樹訳、文藝春秋)が刊行され、『第三次世界大戦はもう始まっている』(大野舞訳、文春新書)では、ロシアのウクライナ侵攻について、欧米メディアが語らない「実相」を提示している。

最新刊『トッド人類史入門――西洋の没落』(エマニュエル・トッド、片山杜秀、佐藤優著、文春新書)は、この現代最高の知性の一人であるトッドの知的世界の入口となる、格好の入門書だ。そこで今回は、トッドと長年の交流がある担当編集者・西泰志が、「トッド本の歩き方」と、今年5月で72歳になるトッドの素顔を解説する。

2022年、『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』が日本でも刊行されました。国や地域ごとの家族構造や人口動態に着目した「トッド人類史」の決定版であり、自身も「これはある意味、私の自伝だよ」というほどの代表作です。

トッドさんも来日して、さまざまなインタビューを受けてもらいましたが、月刊誌『文藝春秋』で希代の読書家である佐藤優さんと片山杜秀さんとの鼎談を行ったときのこと。佐藤さんから「この本は素晴らしいけれど、独力で読みこなせる人はあまりいないと思う」とご指摘をいただきました。その上で「『21世紀の人文書の古典』と言えるような大事な本なので、この本とトッドさんの学問への『橋渡し』になるような入門書があった方がいいと思う」とご提案いただき、片山さんのご賛同とご協力もいただいて、トッドさんの深遠な知的世界の入り口となるような、入門書決定版を作ることになりました。きっかけとなった鼎談もこの本『トッド人類史入門 西洋の没落』に収録されています。

トッドさんは天才だ! と感じた瞬間のこと

トッドさんとの最初の出会いは、2000年にさかのぼります。歴史人口学者の速水融さん(著書に『歴史人口学で見た日本』『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』など)との対談に同席したことがきっかけでした。トッドさんは、パリで生まれ、ソルボンヌ大学、パリ政治学院で学んだ後、父オリヴィエ・トッドさん(『レクスプレス』や『ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』で活躍した文芸記者)の友人で、仏アナール派の代表的歴史家であるエマニュエル・ル=ロワ・ラデュリさん(著書に『気候の歴史』など)の薦めで、英ケンブリッジ大学に留学しました。多くの「英米世界にうとい反米フランス知識人」と「英米世界を熟知するトッドさん」のちがいは、ここに端を発しています。トッドさんは若かりしころ、速水さんの講義を聴いたことがありました。トッドさんにとって「精神的な父親」だったル=ロワ・ラデュリさんが、速水さんと無二の親友だったからです。そしてトッドさんと速水さんも、世代こそ離れていますが、互いに研究や思索を高め合う、いわば同志といっていい関係でした。トッドさんは、「日本の『家族』について詳細な分析が可能だったのは、『日本の歴史人口学の父』といえる存在で、私の友人でもあった速水融氏のおかげです。速水氏は残念ながら2019年に亡くなりましたが、彼が創始した学派のおかげで、徳川日本に関して良質なデータが揃っているのです」(『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』)と述べていて、来日の度に速水さんのもとを訪ねていました。私自身にとっては、20年以上も前の駆け出しのころに、こんなお二人の対談に同席できたこと自体が「ふつうはあり得ない幸運」でした。

2000年代後半から、トッドさんの『文明の接近』『デモクラシー以後』『世界の多様性』(藤原書店)といった本の編集を担当することになり、本格的なお付き合いがスタートします。正直に言いますと、当初は、「『家族構造』で政治や経済や社会の動きを説明する」というトッドさんの分析方法に対して、「確かに多くの現象がこれで説明できるとしても、こんな方法を本当に信じていいのか?」と半信半疑で、理解して受け入れるのに時間がかかりました。しかし、『世界の多様性』を読んだ時、「この人は天才だ!」と確信しました。これまでの歴史観をひっくり返す、こんな本を32、33歳で書いているのですから。


「学者らしくない」ことと、誠実であること


すでにトッドさんの作品の読者であればおわかりですが、ここではトッドさんの魅力をいくつかお伝えできたらと思います。

まず第一に強調しておきたいのは、トッドさんの研究や発言のもととなる「材料」は、ほぼすべて公開情報であり、いわゆるコンフィデンシャルな情報は含まれていない、ということ。それなのに、ソ連崩壊、リーマンショック、トランプ大統領の誕生などを「予言」できたのは、今起きていることの表面的な事象やジャーナリズムの論調に流されることなく、常に「出生率」や「教育水準」や「家族構造」といった「社会の底流の動き」に注目しているからです(これこそが仏アナール派の手法で、トッドさんは「私はアナール派の末裔」だと常に自己規定しています)。だからこそ、誰も思いつかなかった角度から、いま起きている事象に、的確かつ刺激的な分析、そして気づきを示してくれるのです。

「学者らしくない」ところも、トッドさんの魅力です。ジャーナリズムの論調を鵜呑みにせずに、必要とあらば、世の中の論争に果敢に介入する「ジャーナリスティックなセンス」は、父オリヴィエ・トッドや祖父ポール・ニザン(サルトルの友人、哲学者、小説家、ジャーナリスト)から受け継いだものだと思います。学者は、往々にして「理論体系の構築」とか「過去の発言との一貫性」にこだわりがちですが、トッドさんは、その点でも学者らしくありません。「ときに『知の巨人』などと称せられるトッドが、自著の中で、過去に主張した自らの学説をしばしば批判的に再検討したり、率直に取り下げたりしていることは、もっと注目されるべきだろう。彼は、『知』以上に『知的誠実さ』を大切にしている」(『文藝春秋』2023年4月号「巻頭随筆」)と、訳者の堀茂樹さんが述べている通りです(ちなみに、徹底的に考え抜かれた堀さんの名訳によって、『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』は、読み通すには精読が必要でも、地道に読めば必ず理解できる本に仕上がっています)。


忖度しない、だから「危険人物」とみなされる


そして、トッドさんは、熟考の末にたどり着いた分析や考え方が、「誰か」にとって大変都合の悪いものであっても、けっして忖度しません。こうした「忖度なし」もトッドさんの魅力で、その最たるものが、ロシアのウクライナ侵攻に関しての発言でしょう。

これについては『第三次世界大戦はもう始まっている』(文春新書、2022年6月刊)をぜひお読みいただきたいのですが、いま欧米のメディアが垂れながしている論調とはまったく別の視座がそこにあります。しかも、時間が経てば経つほど、この本の正しさが証明されていくようで(最初の発言は戦争開始の約1カ月後の2022年3月22日に収録)、まさに「事態は本書の予言通り」に進んでいます。

侵攻開始当初、「ウクライナはすぐに軍事的に敗北するが、西側の経済制裁でロシア経済は破綻する」と言われていたけれど、いずれもそうにはなりませんでした。そしてトッドさんは「第三次世界大戦が始まった」と、侵攻直後から見通していました。過去の世界大戦ほどの血は流れていないとしても、ウクライナだけでなく、アメリカとNATO、武器を供与している西側すべてがこの戦争の当事者であり、「中国に支援されたロシアと西側世界とのグローバルな経済衝突」となることで、ロシアだけでなくアメリカも、この戦争から容易には手を引けず、私たちはすでに「終わりの見えない戦争」「どちらか一方が敗北するまで続く戦争」のただ中にいるのだ、と。

これらの指摘は、西側のエリート層や主要メディアにとっては、実に都合の悪い、受け入れがたいものです。

そのため、トッドさんはフランスで、ある意味孤立することが多く(かつては多くを敵に回して「ユーロ導入」や「私はシャルリデモ」に反対しました)、「反逆的な危険人物」とみなされています。実際、『第三次世界大戦はもう始まっている』は、母国フランスでは刊行されていません。来日した際に「同じ内容をフランスで同時期に発表していたら、私は社会的に抹殺されていた」「私にとって日本は、一種の安全地帯、いわば"盾”のような存在なんです」と話していて、最初は「日本の読者に対するリップサービスかな」とも思っていたのですが、今年1月の仏フィガロ紙のインタビュー(『トッド人類史入門』に収録)でも「私は日本では学者として尊重されていて、落ち着いた雰囲気の中で自由に発言、表現ができるから日本でこの本を出した」と話しているので、どうやら本当にそのような状況にあるようです。

もちろん、その「忖度なし」の視線は日本にも向けられます。
大の知日派であり、日本への愛を公言するトッドさんですが、「現在、日本が米国を中心とする西洋圏に属しているのは、第二次世界大戦で米国に敗北したことの結果であって、それ以外の何ものでもありません」「その『地位』は何かと言えば、『米国の保護領』でしかありません。現在の日本は、『独立国』としての自由や自律性を享受していないのです」と断じています。さらに「安全保障以上に、少子化こそ日本の真の危機だ」とした上で、
「少子化対策にも移民受け入れにも本腰を入れていない日本は、そもそも国力の維持すら諦めているように見える」とし、日本的な「家族」の過剰な重視が少子化を招いていると指摘し、「老人支配(創造的破壊が苦手な直系家族社会の特徴)」が強まっているこの国の行く末を憂いています。このあたりについては、『老人支配国家 日本の危機』(文春新書)に詳しく記されています。


時間は守るが、整理整頓は苦手。そして自動車の運転は…..


それから、トッドさん自身のパーソナリティーについて。
最新刊『トッド人類史入門』を読んでいただけると、トッドさんの「優れた知性」だけでなく「チャーミングな人柄」も味わっていただけると思います。

トッドさんはフランス人には珍しく、時間的規律をやや病的なまでに守ります。だから、「フランスではいつもイライラして居心地が悪いのに、日本では穏やかな気持ちでいられます」と。でも整理整頓は苦手で、「もし日本の方が、私の仕事部屋の無秩序さ、乱雑さを目にしたら、おそらく気絶してしまうでしょう(笑)」と。その点は私も自分の目で確かめました。ブルターニュの別荘に連れて行ってもらうために(「『西』という名前の君がユーラシア大陸の『東端』からやって来て『西端』を訪れるのも『乙なもの』ではないか」と誘ってもらいました)、愛車の「ルノー306」に乗せてもらったことがありますが、車内は言葉にできないほどの状態でした(笑)。運転も荒く、走っている途中で、田舎道の側溝に助手席側の片輪が落ちてしまい、本気で死ぬかと思いました(笑)。そのまま走っていたら、まるでアニメ「ルパン三世」の車のように、ポーンと飛び跳ねて、側溝から抜け出せて助かったのですが(笑)。トッドさんは「ブルターニュで君を殺しかけた(笑)」とよく話しますが、今ではとても良い思い出です。

                    ©文藝春秋

トッドさんは、「秩序」を保つことができているのは「著作の中だけ」なので「日本の方は、混沌とした私という人間のごく一面、『著作』と『時間的規律』という日本の方にも受け入れられやすいところだけを見ていることになります(笑)」と自嘲しています。

また、トッドさんならではの「日本人論」にもユーモアがちりばめられています。何度も来日しているトッドさんは、公式の場では上下関係が厳しいはずの(=直系家族の特徴)日本の会社の上司と部下が、酒の席では和やかに話しているのを見て、「日本の5時からの民主主義」と名づけています。「(同じ直系家族社会だけど)講演で冗談を言ってもドイツ人の聴衆は黙ったままなのに、日本人は笑ってくれる」として、(直系家族的な)日本人の真面目さだけでなく、日本人のユーモア感覚やリラックスした面もよく見ています。

ルース・ベネディクトの『菊と刀』が果たした役割を

佐藤優さんは、トッドさんの主著『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』について、「これはかつてルース・ベネディクトの『菊と刀』が果たしたような役割を持った本だ」と評していますが、西洋人のみならず日本人にとっても分かりにくい、「日本という国の特徴や謎」を解き明かす手がかりとなる一冊だ、ということです。

トッドさんと私は、歳は20歳以上も離れていますが、実は誕生日が同じ。そのことに気づいて、ある時、「私たちは誕生日が一緒だから、これからは互いに呼び方をフランクにしよう」と言ってみたんです。フランス語で「Vous(敬称)」ではなく「Tu(親称)」で話そう、と。すると「本当か! もちろんだ!」と笑顔で答えてくれて、一段と親しくなることができました。毎年、誕生日にはお互いにメッセージを交換しています。

『トッド人類史入門』の帯文句は「世界が違って見えてくる!」です。トッドさんと出会ったことで、私自身、まさに「世界の見方」が変わりました。みなさんにも、トッドさんの言葉に是非触れていただき、新しい視点を持っていただけたら、と思っています。


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