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エマニュエル・トッド、磯田道史が“衝撃”を受けた「日本の歴史人口学の父」速水融とは【新刊ちょい読み】

 本書の著者、速水融氏(一九二九―二〇一九)の生涯は、常に〝学問〟と共にあった。

 そもそもが〝学者一家の出〟である。父、速水敬二(養子に出たので「速水」姓)は哲学者で、伯父、東畑精一は農業経済学者で、叔父、東畑四郎は農林事務次官を務め、叔母、喜美子は、哲学者の三木清に嫁いでいる。

 戦時中に居候していた東畑精一の家には、政治学者・蝋山政道など「昭和研究会」のメンバーが出入りし、当時一五歳だった速水氏は、伯父から「この戦争ももうすぐ終わる。犬死だけはするな」と強く言われたという。また終戦直後の一九四五年九月には、三木清の身元引受人だった伯父の指示で、豊多摩刑務所に出向き、「三木清の獄死」を確認している。

 戦時中通った都立一中(現在の日比谷高校)の同級生には、のちに経済学者となる宇沢弘文や文藝春秋社長となる田中健五がいた。慶應義塾大学卒業後に在職した日本常民文化研究所では、日本史研究者・網野善彦と机を並べ、民俗学者・宮本常一の漁村調査に同行している。

新型コロナによる大混乱を〝予言〟

 速水氏は、新型コロナウイルスが発生する直前の二〇一九年一二月四日、九〇歳で亡くなっているが、その後の事態を〝予言〟していたかのように、晩年『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ―人類とウイルスの第一次世界戦争』(藤原書店)を書き残している。一九一八年から一九二〇年に大流行した、当時の新型インフルエンザ「スペイン風邪」の日本国内での被害を明らかにした書で、致死率が低くとも感染力が強い新型感染症の流行は、「医療問題」に留まらず、「政治的経済的な大問題」になる、と警鐘を鳴らしていたのだ。

 本書第五章「明治以降の『人口』を読む 三 近代化と病気」で詳述されているように、速水氏が感染症の歴史に注目したのも、そもそも本書のテーマである〝歴史人口学的な関心〟からだった。

欧州留学で〝歴史人口学〟と出会う

 速水氏が〝歴史人口学〟と出会ったのは、一九六〇年代に留学していた欧州でのことだ(本書第一章「歴史人口学との出会い」)。

「あるときクレーベックス教授が、最近ヨーロッパでひじょうに注目されている本があるといって、フランス人のルイ・アンリという人が同僚といっしょに書いた歴史人口学に関する本を私に見せてくれた。(略)『歴史人口学』は、日本ではまったく紹介されていない分野だったが、読んでみるとたいへんな研究だということに気がついた。あまり得意ではないフランス語を辞書や、時には文法書を引きながら惹きつけられるようにして読んだ」(本書三七頁)

 ちなみに速水氏は、欧州留学の帰途、マカオに立ち寄り、カジノで二回続けて大当たりし(三五倍)、それを元に帰国後、トヨタの小型車「パブリカ」を購入。これによって、全国各地へ史料収集の旅が可能になったという。その意味でも、欧州留学なしに、速水氏の〝歴史人口学研究〟はなかったと言える。

 速水氏は、その後、国際経済史協会の大会(一九六八年)に参加した時のことについて、こう回想している。

「最初の国際会議だったのでアガりにアガって報告したことを覚えている。手は震えるし、原稿から目をそらすこともできないほどであった。報告と質問が終わったところで一人の人物がやって来た。それがフランスの有名な歴史家で、学術誌『アナール』の編集長、ル・ロワ・ラデュリだった。そして、報告が面白かったので自分の雑誌に載せないかと誘われた。『アナール』というのはヨーロッパ最高の知的学術総合雑誌で、それに論文が載るということは欧米で一人前の研究者として認められたということになる。だからひじょうにうれしく、有頂天になった。(略)会議が終わってからニューヨークへ向かい、ケンブリッジ・グループの総帥であるピーター・ラスレットと会った。(略)そこでラスレットから、六九年に開かれるケンブリッジ・グループ創立五周年の学会に招待を受けた」(本書九三頁)

エマニュエル・トッド氏との縁

 ここに登場する仏歴史家エマニュエル・ル=ロワ=ラデュリと英歴史家ピーター・ラスレットの二人と深く関係する、もう一人の〝歴史人口学の徒〟がいる。日本でも読者の多い仏歴史家のエマニュエル・トッド氏だ。トッド氏は自身の〝歴史人口学との出会い〟について、こう述べている。

「ソルボンヌ大学の学部生の頃、単位を取る必要から、たまたま『歴史人口学』という科目に登録しました。(略)とにかく、歴史人口学の授業が面白くて仕方がなかった。(略)それから、父〔オリヴィエ・トッド、一九二九年生、ジャーナリスト〕の友人であり、アナール派を代表する歴史家の一人で、私にとっては『精神的父』と言えるエマニュエル・ル=ロワ=ラデュリ〔一九二九年生〕の勧めにしたがって、イギリスに留学しました。(略)そしてケンブリッジで、偶然にも、著名な歴史人口学者のピーター・ラスレット〔一九一五―二〇〇一〕に師事することになったのです」(エマニュエル・トッド『問題は英国ではない、EUなのだ』文春新書、八二―八三頁)

 トッド氏は、四〇年に及ぶ自身の研究の集大成として、家族構造の変遷と伝播から人類史を描き直す『家族システムの起源』(藤原書店)という大著を書いているが、この書に関連して、速水氏と彼が創始した〝速水学派〟―ちなみに速水氏が〝発掘”〝収集”〝活用〟した江戸期の「宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)」は、欧州の「教区簿冊(きょうくぼさつ)」と並んで、世界的に見ても極めて稀な〝良質の歴史人口学的史料〟である―について、こう言及している。

「一国に一章を割いているのは日本についてだけです。日本について詳細な分析が可能だったのは、『日本の歴史人口学の父』であり、私の友人でもある速水融教授のおかげです。彼が創始した学派によって、徳川日本に関して良質なデータが極めて豊富に揃っているのです」(『問題は英国ではない、EUなのだ』一一四頁)

 そして二〇〇〇年に初めて対談した際には、速水氏に対する感謝を直接こう伝えている。

「速水先生に今日はお会いできて非常に感激しております。大先生を前にした学生という気分です。というのは、これまで速水先生の英語ないしフランス語で出された論文は読ませていただいておりますし、ピーター・ラスレットのもとで博士論文を書いていたときから、先生のお仕事は存じあげていました。(略)私の立てた仮説を、先生が日本の場合に応用して仕事をなさっていただいたということで、自分のいままでの研究の意味があったと、いわばご褒美をもらったような気がします。(略)私もまた学生時代から歴史人口学という分野で勉強してきました。学生時代に、さきほどおっしゃった、ルイ・アンリの本を買って読みました。これが最初の歴史人口学の重要な参考文献となった本です。私の両親はパリのINEDという国立人口学研究所のそばに住んでいまして、そういう環境にも恵まれていました。父の友人のル=ロワ=ラデュリのすすめでケンブリッジへ行って、ピーター・ラスレットのもとで勉強しました」(「対談 家族構造からみた新しい『日本』像」、エマニュエル・トッド『世界像革命』藤原書店、所収)

 トッド氏もまた、速水氏と同じく〝歴史人口学の父〟ルイ・アンリの本でこの学問の基礎を学んでいる。さらにトッド氏は、半世紀にわたる研究生活の大半をルイ・アンリが所属していた仏国立人口研究所(INED)で過ごしている。

磯田道史氏との縁

 そして、速水氏、トッド氏と同じく、この学問に若い頃に〝衝撃〟を受け、これを〝血肉化〟した、もう一人の〝歴史人口学の徒〟がいる。歴史家の磯田道史氏だ。磯田氏は、速水氏の直接の指導を受けた〝速水学派〟の最も若い世代に属するが、〝わが師と出会った決定的瞬間〟を今も生々しく覚えているという。

「速水先生との出会いがなければ、私の学問人生はありませんでした。(略)

 先生のことを知ったのは、私がまだ高校生の頃のことでした。今でも鮮明に覚えています。高校三年の三月、高校の制服を着て、地元の岡山大学の図書館を訪れました。当時、私は歴史を専攻することははっきりしていても、どの時代にするかは決めかねていて、受験を終えたところで早速、大学の図書館に向かったのです。

 ところが、入口で『高校生の利用は許可していない』と言われてしまい、落胆していると、あまりに可哀そうだと思ってくれたのでしょう。職員の方が『利用』はダメですが、『見学』ならいいですよ、と言ってくれました。それで図書館に入り、別に職員がついて来るわけでもなく、一人で書架の前に行きました。

 書架にある歴史書の題名を一つずつ見始めました。旧制第六高等学校時代から集められた岡山大学の蔵書は見事で、いろいろな学者の著作がありました。

 網野善彦や安あ良ら城き盛もり昭あきなど、すでに読んだことがある学者の本も並ぶなかで、〝異色の一冊〟が眼に飛び込んできました。『近世農村の歴史人口学的研究―信州諏訪地方の宗門改帳分析』(東洋経済新報社)という本で、著者名は『速水融』とありました。

 どうしても中身が気になりました。しかし、書架の本を開けてしまえば、『見学』ではなく『利用』となってしまいます。でも我慢できません。京都府立大学の合格は決まっていたので、『あと二十日もすれば〝大学生〟だから』と、周りをキョロキョロ見回しながら、ついつい本を開いてしまったのです。

 驚きました! 『江戸時代の庶民の暮らし』がテーマなのに、生物学の教科書でしか見たことがないような『生存曲線』(ある種の生物の生活史において、時間経過に従って個体数がどのように減ってゆくかをグラフ化したもの)が描かれていたからです。一九七三年の初版刊行から十六年近くも経っていたのにあまりに斬新で、衝撃を受けました。(略)

『なんて学者だ!』と思いました。〝数字〟が出せるということは、時間や空間が異なる社会との比較も可能になります。その圧倒的な革新性は、高校生の私にも分かりました」(「歴史人口学は『命』の学問―わが師・速水融のことども」、磯田道史『感染症の日本史』文春新書、二三九―二四一頁)

 トッド氏が日本について詳しく論じることができたのは、速水氏のおかげだが、速水氏もまた、とくにトッド氏の著作『新ヨーロッパ大全』(藤原書店)について「非常に強い衝撃」を受けたと語っていた。トッド氏と初めて対談した際、磯田氏は〝師匠〟とのやりとりを、こう伝えている。

「速水先生は当時からトッドさんの話をよくしていたので、トッドさんと議論するのに役立ちそうな史料を優先して探すようにしていました。ヨーロッパの家族システムの地域分布図が載っているトッドさんの著書『新ヨーロッパ大全』(藤原書店)を念頭において、地域が偏らないように、いろんな場所に探しに行きました」(「『直系家族病』としての少子化」、エマニュエル・トッド『老人支配国家 日本の危機』文春新書、二〇六頁)

 本書第六章「歴史人口学の『今』と『これから』」で詳述されているように、速水氏は「東北日本(早婚、低出生率、三世代同居が多い)」「中央日本(晩婚、高出生率)」「西南日本(晩婚、婚外子や離婚が多い)」といった〝日本の地域的多様性〟を見事に浮き彫りにしているが、この研究は、トッド氏の仕事からインスパイアーされたものでもあったと言える。

 このように〝歴史人口学〟は、速水氏(一九二九年生)、トッド氏(一九五一年生)、磯田氏(一九七〇年生)といった優れた学者を世代を越えて(約二〇年ずつの差で)つなぎ、洋の東西を越えて〝知的刺激の源泉〟であり続けている。

編集部


「増補版刊行にあたって―速水融・トッド・磯田道史をつなぐ学問」より

「日本の多様性」を見事に明かした名著!

磯田道史氏「速水先生と出会わなかったら、私の学者人生はなかった」(磯田道史氏)
エマニュエル・トッド氏「別格の素晴らしさ。この偉大な学者の〝技”のすべてが詰まっている」

著者の速水融氏は、慶応義塾大学、国際日本文化研究センターなどで教育・研究に携わった経済史家で、「日本における歴史人口学のパイオニア」。仏歴史人口学者のエマニュエル・トッド氏も、「日本の歴史人口学の父」と称えている。
速水氏は1960年代に欧州に留学。当時、キリスト教会の洗礼、結婚、埋葬の記録簿(「教区簿冊」)を利用して、マクロの人口研究ではなく、結婚年齢、家族構成など、ミクロの人口研究(=歴史人口学)が活発に行われていた。これを見た速水氏は、江戸期の「宗門人別改帳」を使って、同様の研究が可能だと直感し、帰国後直ちに本格的な研究を開始(ちなみに結婚年齢、生年没年、家族構成までを記録した近代以前の史料が残っているのは、世界的に見て稀なことで、こうした史料は欧州と日本にしかない)。
『近世農村の歴史人口学的研究』(1973年)では、人別帳から一軒一軒、一人一人の記録を洗い出し、信州諏訪地方で直系3世代世帯からなる近世的世帯が形成される過程を明らかにした。また、詳細な人口統計の作成を通じて、18世紀中期に始まる人口停滞が、高い死亡率ではなく、出生率の低下に原因があることを示した。
『近世濃尾地方の人口・経済・社会』(1992年)では、詳細な個人の追跡調査を通じて、徳川時代にも農村と都市の間で恒常的な人口移動があったこと、農民の出稼ぎ先の変化から徳川中期以降、経済構造に変化があったことを示唆。
また速水氏は、世界史的なスケールで日本経済史を描き、古代文明の周辺に位置する西欧と日本の歴史過程は、「封建社会」を経験する点で共通すると指摘した。
本書は、速水氏の長年にわたる仕事のエッセンスをコンパクトにまとめたもので、「歴史人口学」の最良の入門書。と同時に、「歴史人口学で見た新しい日本史」。速水氏が学士院の紀要に寄稿した論文を新たに加えた増補版。

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