かつての「現代思想」を今に継承する意味――千葉雅也さんに訊く
フレッシュな切り口で新しい息吹を感じさせる新書、売れている理由を知りたい話題の新書、あるいは、この本は自分が作りたかった! と悔しさを覚え、編集部員がその創作秘話を知りたい新書。このコーナーでは、そんな新書の書き手である著者たちに、新書執筆の背景やいま考えていること、これからのことを伺っていくインタビューコーナーです。編集部員が訊きたかったことを、読者の皆さんにもお届けできればと思います。まずは、『現代思想入門』(講談社現代新書)が話題の哲学者、千葉雅也さんにご登場いただきます。
秩序から逸れる生き方を肯定する
――千葉雅也さんの『現代思想入門』(講談社現代新書)が発売から1カ月あまり、7万部突破と売れています。デリダ、ドゥルーズ、フーコー、ラカン、メイヤスーなど難解なイメージの「現代思想」が、「秩序と逸脱」という一本の太い骨格に沿って、丁寧にわかりやすく、イメージ喚起力のある言葉とともに語られる本書には、画一化が進んで自由が失われていく時代へのメッセージが随所に感じられます。改めてご自身にとって現代思想とはどのようなもののでしょうか。
千葉 現代思想とは、秩序を強化する動きへ警戒感を持つとか、全体的に固まっていこうとする運動から逃れるとか、秩序の中にも余地を見出すとか、そのように自分自身の生き方を時には挑戦的に、時には気楽にしてくれるものだったと思うんですね。
僕の場合は、性的なマイノリティとしての立場もあり、物事を固めていく主流派社会の運動から逸れる生き方をどう肯定するか、という切実な問題がありました。現代思想のスターたちは、そのための根拠として存在してくれたという思いがあるわけです。
現代思想を弁護する
千葉 歴史的に遡れば、彼らの思想は左翼運動と結びついていたわけで、背景には冷戦構造があった。だけど僕はポスト冷戦の時代に現代思想を受容したわけで、その際に自分の文脈で大きかったのは、必ずしも有用ではない芸術的なものや、セクシュアリティという過剰なものを、どう弁護するかでした。僕は、彼らの思想を「マイナー性の弁護術」として学んできたところがあります。現代思想を学ぶことには、この「弁護」という発想がある。
僕はもともと、大人が子どものやることを頭ごなしに抑圧することに対して、こう言い返してやろう、ああ言い返してやろうと考えているような子どもだったんです。自分の両親が抑圧的だったわけではなく、近所のおじさんとか、中学校の嫌な奴なんかに言いがかりをつけられたときに、何かを言い返してやろうという思いが強くあって、ひとひねりした言い返しによって、擁護されにくいことを擁護するというのをしばしば考えていた。それは真正面から正しいものを擁護するのではなく、どちらかというと悪い人を擁護する弁護士のような思いに似ていて、僕は弁護術の本質とは悪をも弁護できることだと思っています。
だからフランス現代思想が"ポストモダン"と括られて、現代思想は秩序を真面目に考えてないからダメなんだ、みたいな言いがかりがつけられたときに、僕にはフランス現代思想の弁護士になりたいという気持ちがありました。僕が大学に入った90年代後半に、80年代のニューアカを面白く思っていない人たちの存在を知ることになります。かつては、ドゥルーズとかをよく知りもしないのに、ただキーワードを振りかざしてマウンティングするような空気があったようなのですが、当時小学生だった僕は、そんな流行はリアルタイムには知らない。90年代後半には、より真面目にデリダとかレヴィナスを読もうという倫理的な方向性になっていて、僕はニューアカとはかなり異なる出発点から勉強を始めたのです。
しかし90年代末にフランス現代思想を志すということになると――これは個人的に偏った見方かもしれないですが、80年代を苦々しく思っている人たちからいろいろ抑圧を受けたんです。僕の世代は、つまりお門違いな仕返しをされた。もうドゥルーズなんて言っても仕方ない、みたいなことをニューアカに批判的な人たちからお門違いに言われたんですが、彼らはどうやら僕らの世代にもっと真面目な学問をさせたかったようなんです。でもそうやってお門違いなことを言われると、こちらはかえって、譲るものかと思うわけですね。だから僕は一貫してフランス現代思想をやってきたわけです。
フランス現代思想を学位論文の対象にすることがなんとか許されるようになってきていて、しかもその時期は、ゲイの世界においては雑誌『バディ』のような明るい同性愛イメージを打ち出す動きと重なっていました。AIDS危機以後、96年にはカクテル療法ができて状況が大きく変わる中で、僕の場合は、性的マイノリティとしてどう生きていくかという切実な問題と現代思想が深く結びつくことになります。例えばドゥルーズの「逃走線」という概念もそうです。だから僕は90年代後半からの文脈で、フランス現代思想を真剣に引き受けてきたのであって、その真剣さによって、かつての文脈を引きずったお門違いな批判をはねのけてきたという意識があるのです。
現代思想を学ぶ真面目な意義
千葉 今日、アイデンティティ・ポリティクスも含め、諸々のイシューをめぐってネット上でより白黒はっきりさせろと対立が強まる中で、マイナー性を考えるのはそんなに単純なことではないのだと、90年代後半から自覚を持って取り組んできた僕としては言いたかった。
僕はTwitter上の発言などで、いまの政治的な動きにシニカルに嫌味を言っているように思われるところがあるかもしれないけれども、自分の立場は現代思想を学び始めた当時から一貫していると自負しています。90年代後半にはゲイの権利運動の勉強会に出たり、それなりにアクティビズムにも顔を出してきた経緯があります。長期的な視野で言えば、LGBTをもっと話題にしようという手の平を返したかのような最近の世の中の動きは、資本主義の高度化による一現象なのであり、違和感を持っているわけです。
そういうことも背景にあって、この本の中では単純な二項対立ではない思考をすることの重要性を強調したんですね。あるいは、政府なり家父長制なりを批判するといっても、人々はそういった存在に抑圧されているだけでなく、人々がみずから権力を下支えしている面がある。これはフーコー的観点ですが、そういった逆説的な見方こそ、改めて真剣に考えるべきだと思うのです。
90年代末にも同じような問題意識が語られていたわけですが、その議論は古びるどころか、再び政治化の季節を迎えたいま、かえってリアリティを増しています。多くの人がネット上で政治的議論を口にするようになったからこそ、90年代に語られていた問題意識が現状に対する批評としてラディカルに機能する。近代主義的な二項対立の構造でものを言う人が増えたいま、当初からラディカルだった思考を希釈せずに、"産地直送"でお届けすることで、むしろしかるべき問題意識を涵養することができるのではないか。僕がこの本を書いた狙いはそこにあります。時代が変わるにつれ、多くの人は議論の仕立てを取り替えているわけだけれども、僕は20年前、30年前にすでに考えられていた思想の、その変らない批判性を再評価したい。
現代思想の大づかみな精神を伝えたい
――例えば、この新型コロナウイルスによってグローバルに世界が覆われる中で、活動の自粛やワクチン接種の動きなどもあり、自由というものについても再び考えざるを得ない状況がありますよね。本書の中で、いずれ自由というものの価値についても説明しなければならなくなるのではないか、という一文も印象的でした。
千葉 学生に教えている中でも、最近フーコーには手ごたえを感じています。自己監視する心の誕生を生んだ「規律訓練」の概念にせよ、人々を集団、人口として扱うような統治を捉えた「生政治」の概念にせよ、いま学生たちがリアリティをもって受け止めている感じがあります。新型コロナの問題を例にすると、自粛を訴えるのが「規律訓練」で、ワクチン接種を呼びかけるのが「生政治」ですね。
この本を書いた背景には、現代思想を弁護したいという思いと、現代思想を今日語ることの真面目な意義のほかに、もうひとつ、この現代思想の大づかみな精神を伝えたい気持ちもありました。学術の世界では、現代思想を哲学史の中にきっちり位置づけるような文献学的な研究の傾向が強くなってきています。例えば、ドゥルーズが言う「器官なき身体」とは何かについて先行研究を踏まえながら論文を書くような精緻な方向性で、それはそれで必要ではあるけれど、もっと大きなレベルでのデリダ的精神とかドゥルーズ的精神を、実践的な形で伝える必要があると思ったわけです。僕らの世代がテクスト読解を通して保有していたある種の直観を書き残したかった。というのも、こう言うと嫌味かもしれないけれど、現在の研究の状況を見ると、「本当にデリダのこと、ドゥルーズのことわかってるの?」と問いたくなるし、身体的な理解を抜きに細かいことを研究しても仕方ないだろうと思うからです。
特に今回、個人的にはドゥルーズへの思いが強くありました。ドゥルーズが考えていた、物事を横断的につないで考えましょうという「リゾーム」の概念もその一つです。僕の場合は、もともと様々なジャンルをつないで考える体質だったので、ドゥルーズに出会った当初、「リゾーム」という概念は、まさにこれだと思ったわけです。しかし、そうした横断性の肯定は、80年代バブル期の消費主義的な空気と一緒くたにされたりしたわけです。そして90年代に入ると、ニューアカによって軽薄に消費されてしまったドゥルーズ哲学を、今こそ真面目に研究しなければ、と例によってニューアカに批判的な人たちが言い始めた。
90年代から2000年代にかけて、そうして素直に現代思想を肯定できないような空気があった中で、僕はドゥルーズ哲学の複雑な解釈を考え、どんどん横につながっていくことのクリエイティビティよりも、そこにはさまれる切断性という非常に繊細な論点を学問的に考えたものを博士論文にしました(『動きすぎてはいけない』)。そこでは自分なりのドゥルーズの読み筋を出せてよかったけれども、ただ今考えてみると、そうなったのは当時、素直にドゥルーズを読むことへの抑圧があったからです。自分の身体感覚とドゥルーズのフィットがありながら、それを素直に肯定できないまま長いこときてしまった。
だけど結局のところ僕はいま、哲学、文学、美術、仕事術など、複数のジャンルを横断して考えている。これこそがまさに "ドゥルーズ的"なのであって、あるいは坂口恭平さんがやっているような横断的制作こそがドゥルーズ的なのであって、それで何が悪いんだと思うわけです。一つのジャンルにとどまらず、いろんなジャンルのものを横断的に楽しむことが自分の人生を楽にしてくれていることを実感しているし、それがドゥルーズでいいじゃないか、と改めて思っているんです。その素直なドゥルーズ読解も今回の本では伝えたかったですね。
――『デッドライン』『オーバーヒート』、と小説も意欲的に書かれていて、小説を書かれ始めてからの文体の変化も感じます。いろんなジャンルのことをつなげてやってみる、それは一つのロールモデルにもなるのではないでしょうか。
千葉 もともと僕は中学高校では美術、音楽などいろんなジャンルのことをやっていて、大学に入ってから思想を真面目にやる修業時代に入ったわけです。その過程では昔のリゾーム的な部分を抑圧することになった。それは思想を学ぶためにいったんは必要なことだったわけだけど、そこには大なり小なり、フランス現代思想に対する抑圧も関わっていたはずです。でも今は、その呪縛を徐々に徐々に解いて、昔自分が楽しんでやっていたいろんなことをやってみている。そうやって手を動かすことが大事だと思いますね。
往々にして、世間では一つのことをずっと自己抑制してやっている人の方が偉いと思われる傾向にあります。人間は他の動物と違って過剰なエネルギーを持っていて、それを有限化することによって自分自身を安定化させているという根本構造がある。だから必死に自己をコントロールしている人からすると、過剰さと戯れているような人は、自分を不安にさせる存在なんです。誰しもが、精神分析的にはこの「去勢」と言われる抑制のメカニズムを持っているので、いろんなことをマルチにやる人は、非常に深いレベルで人に拒否感を惹起する。例えばそういうことも、精神分析プラス現代思想によってメタに捉えられるようになるわけです。
3部作の構想
千葉 今回の『現代思想入門』は『勉強の哲学』(文春文庫)から始まるシリーズの2作目のようなものですね。『勉強の哲学』が"アイロニー"と"ユーモア"の二つの軸、さらに"享楽"という第三項を含めた三角形で構成される思考術の本で、僕にとっての「精神分析的論理学」のようなものだとすると、今回の本は、僕が経験してきたある種のマイノリティとしての政治的体感に基づいた「倫理の書」だと思うんですね。
やや大げさにカントになぞらえるならば、『勉強の哲学』は『純粋理性批判』で、意外に思われるかもしれないけれど、『現代思想入門』は『実践理性批判』なんです。そしていま計画している第3作目は、様々なジャンルを横断していくドゥルーズ的楽しさを遠慮せずに肯定し、それに基づいて展開した感性論・芸術論の本になるはずです。それがカントの『判断力批判』に相当するものですが、そうした3部作のような形になればと思っています。
【編集後記】
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