【映画】「ぼくたちの哲学教室」感想・レビュー・解説

これはメチャクチャ良かった。マジで、特に子育てしている人は観た方がいい映画だと思う。もし僕の子供時代に、こんな先生(に限らないけど、大人)が周りにいたら、少しは社会に希望が持てていたかもしれない。

まずは、このドキュメンタリー映画の舞台となる街と学校の説明をしておこう。

北アイルランドのベルファスト市アードイン地区にあるホーリークロス男子小学校が物語の舞台である。この学校に通う子供たちを映し出しているのだが、そこには中心となる人物がいる。生徒ではなく、ケヴィン・マカリーヴィーという校長先生である。「

彼はこの学校で、「哲学」の授業を子どもたちに行っているのだ。

「哲学」と聞くと、小学生には難しいのではないかと感じるかもしれない。しかし、ケヴィン校長が行っている「哲学」は、「色んなことについて自分なりに考えてみよう」という感じだ。映画の中では、「他人に怒りをぶつけてもよいか?」「男子も泣いてもいいか?」「友達とはどういう存在か?」など、小学生の生活の中でも身近だろう話題について、生徒たちに考えさせる。

ケヴィン校長は映画の中で、「哲学」について様々に語っている。いくつか抜き出してみよう。

【同じものを見ても、人によって受け取り方が違う。それが哲学の面白さだ】

【哲学の良いところは、なかなか正解にたどり着かないところだ】

【哲学とは”問う”姿勢のことを指す】

そして彼は、たとえ相手が親であっても「問い」をぶつけ、自分なりの意見を深めていくように、子どもたちに常に教え込んでいく。

ケヴィン校長が小学校で哲学の授業を行うのには、北アイルランドやアードイン地区の難しい問題が背景にある。ここはかつて、プロテスタントとカトリックの間で武力闘争をも辞さない激しい戦闘が行われた場所であり、その問題が現在も解決に至っていないのだ。街には「接続領域(インターフェース)」と呼ばれる(「平和の壁」という名前もあるようだ)、レンガと鉄格子による長い壁が存在している。恐らくそれによって、プロテスタントとカトリックの居住区域を強制的に分けているのだろう。現代に置いても、ベルリンの壁のようなものが街中に厳然と存在しているという事実には驚かされた。

プロテスタントとカトリックによる対立による緊張感は、街の外観からも理解できる。街中の至る所に壁画のようなものがあり、そこには、それぞれの立場の主張が刻み込まれている。印象的だったのは、「PILL WILL KILL」と書かれた大きな看板が道路脇に設置されていたことだ。字幕では、「その一錠が命取り」と訳されていた。プロテスタントなのかカトリックなのか分からないが、「中絶に反対する思想」があるはずで、恐らくそういう思想を持つ側が設置した看板だろう。

他にも、「ドラッグディーラー うちの子に近づくな」というメッセージの壁画もあった。その壁画を映し出しながら、映画では、ホーリークロス男子小学校の卒業生だろう人物が亡くなったという話に触れられる。具体的には説明されなかったが、恐らくドラッグ中毒死(あるいは、ドラッグ中毒に起因する自殺)だろうと思う。その後全校生徒を集めた場で、ケヴィン校長は、「数えてみたら、ここの卒業生で突然亡くなったのは20名いる」と話していた。これも、自殺やドラッグ中毒などで命を落とした人の数だろう。

このように、街の治安はよろしくない。公式HPには、

【密集する労働者階級の住宅街に北アイルランドの宗派闘争の傷跡が残るこの地域は混沌とした衰退地区であり、リパブリカンとユニオニスト(注1)の政治的対立により、地域の発展が遅れている。犯罪や薬物乱用が盛んなこの街の絶望感は、ヨーロッパで最も高い青年や少年の自殺率に反映されている。】

と書かれていた。

そのような街で生きていかなければならないからこそ、ケヴィン校長は子どもたちに、「自分の頭で考える力」を身に着けさせようとしているのだ。

授業では、かつてこの地で起こった激しい対立・戦闘の様子を写真や映像で見せながら議論することもあった。学校のすぐそばで起こった出来事を捉えた写真を見せながら、この地でかつてこのようなことが起こったのだ、と伝えている。また、映画の撮影期間中、なんとこの男子小学校の正門に爆破装置が置かれるという事件が発生した。リパブリカン分派の発行と判明したのだそうだ。極め付きは、2001年に姉妹校であるホーリークロス女子小学校で起こった出来事には驚かされた。通学途中の女子児童を、地元のロイヤリストたちが脅迫するというイカれた事件である。映画の中では、女子児童が親に付き添われながら泣きながら投稿する当時の映像が映し出されていた。

このような街で生きていくのは容易ではない。具体的に描かれる機会は少ないが、子どもたちも学校外の場で様々な苦労を強いられているだろうと思う。そしてだからこそ、「思索する力」で生き延びられるようにしようと、ケヴィン校長は考えているのである。

映画の中で、僕が一番印象的だったのは、こんな授業である。

ケヴィン校長は、画用紙のようなものを持って生徒の前に座っている。まずそこに、「大文字のMの半分」のような、三角形の底辺だけ無いみたいな図形を描く。そして生徒に、「これは何に見えるか?」と聞く。子どもたちは、「三角形」「2本線」「サメ」「矢印」など色んな答えが出る。その後、「大文字のM」のような形、さらにそれに丸を加えた形など、少しずつ足していきながら、その度毎に「これは何に見える?」と聞いていく。最終的にその絵は「自転車」になるのだが、最初の段階からそうなることは予測できないし、途中経過の時点でも、なかなか「自転車」という答えは難しいだろう。

さて、この授業の中でケヴィン校長は、先程引用した「同じものを見ても、人によって受け取り方が違う。それが哲学の面白さだ」という言葉を発する。これは、その主張だけ聞けば「まあそうだよね」と思える内容ではあるが、それを「実感する」となるとなかなか難しい。自分が見ているものと他人が見ているものを、普段意識的に比較することなどないからだ。しかしケヴィン校長はそれを、非常にシンプルで分かりやすい形で提示して見せる。お見事だと感じた。

さらに校長はこんな風に伝える。

【人の意見に耳を傾けることで、自分の意見が変わる。
大事なのは、「絶対の意見」などないということだ】

こういうことは本当に、子供の頃に教えておくことは大事だなと思う。大人の中にも、この事実をまるきり失念しているとしか感じられないタイプの人もいるからだ。

ケヴィン校長はとにかく、生徒たちの意見を否定しないし、自分の意見を押し付けない。この話術がべらぼうに上手いと感じた。全体的にケヴィン校長は、「この人は本当のことを言っているんだ」と感じさせる話術に物凄く長けていると感じた。

学校内で喧嘩した子どもたちと話をする時も、とにかく辛抱強く子どもたちに「問い」を投げかけ続ける。「その時にどんなことを感じていたんだ?」「◯◯くんはこう言っているけど、君はどう思う?」「じゃあこれからどうするのがいいと思う?」など、とにかく「問い」を投げ続けることに専念している。もちろん時には、「君には失望した」「昨日の授業では実に見事な質問をしていたのに、それで今日は喧嘩か」など、「問い」ではないことも投げかけるのだが、そのバランスも含めて、話し方がメチャクチャ上手い。

例えば、大人が(あるいは上司・先輩など立場が上の人が)、「じゃあこれからどうするのがいいと思う?」みたいに言う時、そこにはそこはかとなく「こんな風にするって言えよ」みたいな強制めいた雰囲気が読み取れてしまうことがある。そして、特に子供はそういうことに敏感だから、大人がどうして欲しいのかを汲み取って、「◯◯に謝る」みたいな、望まれているだろう答えを返すみたいなこともあるはずだ。

しかしケヴィン校長からは、そういう雰囲気をまったく感じない。本当に、「純粋にこの問いに答えてもらいたい」という雰囲気が滲み出ていると僕には感じられた。だから子供たちも、素直に返答できるのだろう。このように、とにかく「発した言葉を言葉通りに受け取っても良いのだ」と感じさせる能力にべらぼうに長けていると言っていいだろう。

映画の中ではもう1人、よく焦点が当たる大人がいる。ジャンというその女性は、公式HPによると、「パストラルケア・リーダー」だそうだ。「パストラルケア」を調べると、ようするに「心のケア」みたいなことのようだ。彼女もまた、ケヴィン校長と同じく、子どもたちと積極的に対話をし、校長と同じように「発した言葉を言葉通りに受け取っても良い」と感じさせる人物である。

彼女に特に焦点が当たる場面が2つある。どちらも、心に不安を抱えた子どもたちと1対1で対話する場面だ。

まずは、突然精神的に不安定になって情緒不安定になってしまった子供と対話する。話を聞いてみるとその子は、3ヶ月ほど前からそういう状態が続いているが、誰にも話せず黙っていたという。ジャンは根気強く彼と話を続けていく。糖尿病と診断されたことで不安定になっていること、友達がいないこと、妹のことを自慢に思っていることなどを聞き出していく。

そんな彼との会話の終わり際に、彼女が発した言葉が、何気ないものではあるがとても印象的だった。それが、「どんなに小さなことでも言葉にする価値がある」というものだ。これもまた、彼女が本心からそう思っていることが伝わるような雰囲気で発せられる。とても良い言葉だと思う。

もう1人は、少し前から悪夢を見るようになって不安定になっている、という子供。ジャンは彼とも、ユーモアを交えながら(『ジョーズ』を見た後、トイレに行くのが怖かった、みたいな話など)、少年の不安に寄り添っていく。そして、最後にこんな言い方をするのだ。

【話してくれて良かった。
これから教室に戻ってみんなと勉強する?
じゃあ今からママと話して、休み時間にどうなったか話すからね】

短い言葉の中に、色んなものが詰まっていると思う。「話してくれて良かった」と伝えることで、自分が悩んでいたことを口に出しても大丈夫だったんだと思えるし、「~勉強する?」と押しつけではない聞き方をしてくれることで教室に戻りやすくなる。さらに、これからどうするつもりでいるのかを明確に伝えることで、少年が余計な不安を抱かずに済むようにしている。お見事な対応だったなと思う。

この学校のようなことを、実際に行うのは、とても難しいだろう。マニュアルでどうにか対応できるようなものではないからだ。しかし日本でも、面白い取り組みをしている小学校がある。以前観た『こどもかいぎ』『夢見る小学校』で描かれていたような取り組みだ。日本でも、やろうとさえ思えば出来ることだとは思う。

このような対話を経て大人になった方が、争いや対立とは縁遠い社会が生まれる可能性が高まるだろう。とても良い取り組みだと思うし、メチャクチャ苦労は多いだろうが、このような教育を続けてほしいものだと感じた。

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