【本】カズオ・イシグロ「わたしを離さないで」

考えるべきことが多すぎる。
でも、できればそれを考えたくはない。
怖い、とさえ思う。
光があれば影がある、というのは当然のことだろうと思う。それは、真理ですらある。しかしそれがどんなに正しくても、いや違うかもしれないな、それが正しすぎるが故に、僕らはその影を見なかったことにしようと考えてしまう。
実際、世の中は、知りたくもないことで溢れている。
僕らは日々、ブラウン管の向こうに、新聞の向こうに、あらゆる世界を見る。僕らは、情報という細い糸で、世界と繋がっている。
でもやっぱりそれは、ブラウン管の向こうの世界だし、新聞の向こうの世界である。僕らと地続きの、まったく同じ世界の出来事であると実感できることは少ない。
世界のどこかでは、今も戦争が行われている。というか、行われているはずだ。正直、正確なところは知らない。
だけれどもそれが、僕らが実際に赴くことの出来る場所、僕らが住んでいるのと同じ世界で行われているなんて、僕にはやっぱり信じられない。
僕らは、自分の生活の周辺以外の世界を、どこか遠くのこととして考えてしまう。例えばそれは、山の頂上から下の景色を見下ろすようなもので、その景色の中に自分の住んでいる場所があっても、どこか別の世界に感じられることだろう。そうやって僕らは、わかる範囲の世界しか知ろうとしない。
悪いことだとは決して思わない。確かに僕らは日々、忙しすぎると思う。常に何かに追われている。そうやって言い訳して、他のいろんなことを遮断しようとしている。
ただ、立ち止まることなんて絶対できない。出来るわけがない。誰だって、明るい方を目指して走っている。少しでも遅れれば、そこには闇が迫っていると信じている。後ろは振り向けない。振り向いたら最後、囚われてしまうかもしれないから。だから、走り続けるしかない。
そうやって僕らは、影を見ないように見ないようにして生きている。
ただ、僕らは一方で、影の中に生きている人もいるということを知っている。出来れば知らないフリをしたいけれども、でもどうしようもなく知っている。
その世界は、どうしようもなく怖い。想像するだけで怖い。すべてが違っていて、すべてが壊れているように見える。何もかもすべて。
そんな世界の中で生きている人のことを考えると、怖くなる。自分ももしかしたら、そうなってしまうかもしれないのだろうか、と。
例えばこんな話がよくテレビ番組などでされる。何かしら犯罪が起きるとする。凶悪な犯罪だ。犯人は捕まり、事件は一応解決を見る。
しかし、マスコミは収まらない。捕まった犯人の過去を暴きたて、大々的に報道する。一体何故だろうか?
一般の人々はこう考えている。あんな凶悪な犯罪をしでかした犯人なんだから、普通の人とはどこか違うはずだ。過去に何かあったとか、生まれつき何かがおかしいとか。そうであってほしい。というか、そうでないと困る。だって、あんなに凶悪な犯罪を犯した人間が、僕らと変わらないごく普通な人だったとしたら、僕にだってあんな犯罪を犯す可能性が残されてるってことになるじゃないか…。
マスコミは、一般の人のこうしたニーズに応えて、犯人の凶悪さを示す過去なんかを報道するのである。
同じように、影の中で生きている人は、僕らとは違うのだと思いたい。そうじゃなければ困る。誰しもがそういう感情を抱いている。
知らないでいたい、という感情は、世界を歪ませる。影を一層濃くするかもしれない。あるいは、光を弱らせるのかもしれない。歪みは、どこかで僕らの世界にも、大きく影響を与えている。
世界は不可逆である。進んでしまったものは変わらない。原爆を保有することに決まった世界は、原爆のない世界に戻ることはできない。もうそれは仕方がないのである。
そんな世界の中で、闇を背負わされる人がいる。世間の知りたくないという認識の中で、不甲斐ない人生を余儀なくされる存在がいる。だからと言って、軽々しく何かができるわけでもない。僕はできれば逃げ続けたいけど、世界が同じく逃げ続けられるかは、誰にもわからない。
何が正しくて何が間違っているか。世界にそれを決めることはできない。人間にだって出来ないかもしれない。誰もそれを決められない。進んでしまった世界を元に戻すことは誰にもできない。
ならば、その世界の中で、どうにか足掻いてみるしかない。どんなに無駄でも、どんなに微力でも、元に戻らないことは分かっていても、何かが変わるかもしれない。そうやって、何かを期待しながら、静かに時を過ごすしかない。
外からは絶望にしか見えない世界も、その中に入ってみれば、案外絶望だけではないということもあるだろう。貧困にあえぐ国には絶望しかないように思えるが、案外子ども達の笑顔は輝いていたりする。豊かな国の子ども達なんかよりも遥かに輝いていることもある。
しかしそれは、外の世界を知らないが故の輝きであるということも、また間違いのないことだ。知ることで、絶望に包まれてしまうこともある。だったら、知らないでいたい。知らせたくない。
世界は大きく歪んでいる。その歪んでいる部分を直視しようとしない姿勢が、また世界を歪ませる。僕らはその歪みきった世界の中で、静かに生きていくしかない。自分のいる場所が影ではないと信じながら。

そう、僕らが生きているこの場所も、実は影かもしれない。絶望に包まれているのに、それに気づいていないだけなのかもしれない。だったら僕は、知らないままでいたい。知って絶望に包まれるよりも、知らずに生きていたい。
どうか、これ以上世界が壊れませんように。
そろそろ内容に入ろうと思います。
でも、正直いって、僕は本作の内容をほとんど書こうとは思いません。
例えばミステリの場合、何を書いてもネタバレになる、みたいな作品がありますが、まあそれに近い気もします。実際は、ネタバレがどうとかいう話ではないのだけれども、本作に関する予備知識を一切ない状態で読むのがいいと僕は思います。解説氏も同じことを書いていましたし、僕が本作を読む前に見たあるネットの書評でも、同じことが書いてありました。それらに追従するわけではありませんが、内容に深く踏み込むことはしないようにしようと思います。
というわけで内容については、本作の帯に書かれた文章をそのまま書いて終わりにしようと思います。
『謎の全寮制施設に生まれ育った若者たちの痛切なる青春の日々と数奇な運命を感動的に描くブッカー賞作家の最新長編』
僕は本作を読んで、雰囲気の似ているなという作品を三つ思い浮かべました。
天童荒太の「永遠の仔」
森博嗣の「スカイ・クロラ」
そして、どの作品というわけではないのですが、村上春樹の作品。「ノルウェイの森」に近いでしょうか。
全編、ある女性の独白という形式を取った作品なのだけど、その語りがなんというか熱心で、うーんうまく表現できないけど、忠実とでもいうのか、感情のブレなどを見せないままに、最後まで同じテンポで語られる感じがいいなと思いました。そういえば今思い出したけど、この全編独白という形式が、蓮見圭一の「水曜の朝、午前三時」に似ているな、という感じがしました。そう考えると、小説の雰囲気自体も似ているような気がしてきました。
とにかく解説氏も書いているように、丁寧に作りこまれた作品で、その丁寧さには本当に驚きました。
その丁寧さは、分かりづらいものを分かりづらいままに理解させようという部分での丁寧さの表れ、という感じがしました。
どういうことかというと、例えばドラマのあるシーンを想像してください。あるカップルがいるとして、喧嘩になります。こういう場合、喧嘩の理由というのは、ものすごくわかりやすいものに設定されていますね。浮気したとか、そういうことですね。
でも現実世界のことを考えてみた時に、結果はわかりやすくても、その原因がわかりやすいというのは稀だと僕は思うのです。
例えば自分のことを考えてみてもそうです。僕は仕事場で、一時期かなりイライラしていた時期があります。まあそれは今でもイライラするのですけど、以前よりはましだと思います。
何故イライラするのかといえば、周りのスタッフの仕事に関することであって、とにかく些細なことなのだけどいろいろ積み重なって、である日そのイライラが募って本人にあれこれ言う、ということが多かったです。
しかし、その口を出すきっかけになる出来事自体は、実は大したことではないことが多いです。僕としては、その行為だけであなたにこんなことを言っているのではないのだ、というアピールをしているつもりですが、向こうとしては、何でこんなことぐらいでこんなに言われなきゃいけないんだ、という感じかもしれません。向こうとしては、原因はひどく分かりにくいものに映ることでしょう。
本作では、あらゆることが起こり、あらゆるものが過ぎていくのですが、その原因がはっきりすることの方が少ないと思います。しかし著者は、その分かりにくさを、丁寧な筆致でうまく描き上げて、分かりにくいし時には全然わからないけど、でも納得できないこともない、という、非常に微妙なバランスの元へと読者を導いていきます。そういう丁寧さは、僕が思いつく限り村上春樹の作品の中にしか見られないものであって、正直すごいな、と思いました。
実際、僕がこの物語の主要な登場人物だったら、と考えます。この作品を読んだ多くの人が同じことを考えることでしょう。その想像は、現実感を伴いません。もちろんです。現実感など喪失させるような世界なのですから。
しかし、その現実感のなさを振り切って想像を広げたときに、僕という存在がどうなるのか、やはりはっきりはわからない、というのが正直なところです。本作で描かれる世界は、あまりにも繊細で、でもあまりにも鈍感で、わかってないフリをしたり、わかっているフリをしたり、嘘をやりすごしたり、嘘をついたり、そうやって何とか生きていくことのできる世界です。すべてが虚構で、でもその虚構を現実として生きることを強いられる生き方は、僕には想像できませんでした。著者がこの物語を紡ぎ上げるのに要した想像力のすごさに、圧倒されました。
著者について、少し書いておきましょう。名前を見ればわかるように、日本人です。確か僕が何かで読んだところによると、帰化しているようなので、厳密には日本人ではないのでしょうけど。
1954年長崎生まれ。5歳の時に海洋学者の父の仕事の関係でイギリスに渡る。大学で文学や創作を勉強したが、当初はミュージシャンを目指していた。しかしやがて執筆活動を始める。
1982年のデビュー作「遠い山なみの光」で王立文学協会賞を受賞、1986年の「浮世の画家」でウィットブレッド賞を受賞、そして1989年の「日の名残り」では、イギリス文学の最高峰であるブッカー賞を受賞しているという経歴である。イギリスの賞については正確には知らないけれども、デビューからこうして次々に賞を受賞しているというのは、恐るべきことだと思う。
最後に、本作についての海外での評判を書いて、感想を終えようと思う。
本作は、発売後すぐに<タイム>誌のオールタイムベスト100に選ばれた。これは、1923年から2005年に発売された作品を対象にしたもので、刊行した年に選ばれるというのは、驚くべき快挙なのだそうだ。
また、<ニューヨークタイムズ>を初めとする各誌で、2005年のベストブックに選ばれ、また、若者に読ませたい成人図書に与えられるアレックス賞を受賞。他にも、ブッカー賞を初めとするいくつもの主要な賞の最終候補に残るなど、2005年に発売された英語圏の小説で、もっとも話題になった一冊、だそうである。
すごい作家のすごい作品である。恐らく、歴史に残る作家だし、歴史に残る作品だろう。日本人が、世界でこれだけ活躍しているのを見るのは、すごく嬉しい。これからも、是非とも頑張って欲しいものだ。
じわじわと押し寄せてくる何かが強烈な印象を残す作品です。時間があれば、何度でも読み返したくなる作品でしょう。是非とも読んでみて欲しいなと思います。

サポートいただけると励みになります!