【映画】「あの頃、君を追いかけた。」感想・レビュー・解説

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さて僕は、主演の齋藤飛鳥が好きなので、この映画は正直純粋に観ることは難しい。いやこれは、「つまらなかった」とか「別の主演で冷静にストーリーを堪能したかった」みたいな意味では全然なくて、個人的にはこの映画を楽しんで観ることが出来て実に満足なのだけど、でも「僕が感じた面白さ」は、齋藤飛鳥ファンではない人にはなかなか共有してもらいにくいだろうから、こんな書き出しから始めてみました。

僕は映画を観る前に、雑誌やネットで結構齋藤飛鳥のインタビューを読みました。この映画にどう臨んだのか、演技に対してどう感じたのかなど色んなことが語られているのだけど、その中で結構触れられていたのが、監督から言われたスタンスについてでした。

齋藤飛鳥は、舞台経験はあるものの、映像での演技は(確か)初、もちろん主演も初めてです。だから、どんな風にやればいいのか悩みながら撮影に臨んだと言います。最初は、「早瀬真愛」というキャラクターを良く理解して、作り込んで現場入りしなければならない、と考えていたそうですが、監督から「なるべく作り込まずに、素のままで演じて欲しい」と言われたそうです。

だからでしょう。僕が観る限り、「早瀬真愛」は、まさに齋藤飛鳥そのものだったな、と感じました。

説明の必要はないでしょうが、一応。僕がここで「齋藤飛鳥そのもの」と書いているのは、あくまでも「僕の頭の中の齋藤飛鳥のイメージそのもの」ということです。僕は握手会にもコンサートにも行ったことがなく、齋藤飛鳥のことはテレビか雑誌のインタビューぐらいでしか知りません。もちろん、直接会うことがあったところで大した差はないでしょうが、とりあえずそんな風に、テレビや雑誌から得た知識で「自分なりの齋藤飛鳥像」を作っていて、それと比べて、という話です。

素のままの齋藤飛鳥で「早瀬真愛」を演じていた、ということと、僕の「自分なりの齋藤飛鳥像」という話から、非常に印象的なセリフを抜き出してみます。

『私のこと、良く思いすぎてない?たぶん、美化してる』
『あなたが好きになったのは、想像の中の私かも』

齋藤飛鳥も、凄く言いそうなセリフですよね。僕は以前からこういう、「自分の中の自信のなさから他者の好意を素直に受けとめきれない」「自分に都合が良すぎる状況を信じたために裏切られるのが怖くて信じきれない」みたいな発言を、齋藤飛鳥のインタビューの中で見ていたので、あのシーンでの「早瀬真愛」の感覚が凄く理解できた気がしたんだけど、齋藤飛鳥という人を知らないまま映画を観ている場合どうなんだろうな、という感じはしました。そこまでのストーリー的に、「早瀬真愛」は確かに他者とあまり関わりを持とうとしてこなかったけど、それは「自信のなさ」というより「自分なりの生き方を貫いている」という風に見えていたからです。

こんなセリフが印象的でした。
「水島浩介」が「早瀬真愛」に、「何故親切な命令をしてくれるの?」と聞く場面があります。自作の数学のテストを浩介に渡して、浩介が嫌がるシーンです。

「早瀬真愛」の返答はこうでした。

『軽蔑したくないから。(浩介が、「数学のテストの点数なんかで軽蔑されるのかよ」と返すと、)私が軽蔑するのは、努力していないのに人の努力を軽んじる人よ』

こういうシーンが結構あるんですよね。もちろん、映画後半の変化からすると、最初の方のこういうシーンは実は照れ隠しで、最初から浩介のことが好きだったけどそれを素直に表に出すのが怖いという自信のなさの表れだったのかもしれないとも思う。けど、うーん、どうなんかな?

他にも、齋藤飛鳥が言いそうだなぁ、というセリフが色々ありました。例えばこんな場面。

『(数学が人生の何の役に立つんだ、という浩介の疑問を受けて)見返りを求めない努力が人生には必要なんだと思う。それに、幼稚なことばっかり言って何が人生の役に立つの?』

まあここまで苛烈なことをはっきりと口に出すことはないでしょうけど、心の中ではこんな風に思ってるだろうなぁ、という気がしました。

そんなわけで僕はこの映画をずっと、齋藤飛鳥だと思って観ていました。たぶんこれは、齋藤飛鳥自身にとってはあまり嬉しくない評価かもなぁ、と思います。いくら素でやってくれと言われたと言っても、彼女は「早瀬真愛」というキャラクターを演じているわけだから、恐らく「早瀬真愛」を齋藤飛鳥本人と観るような見られ方は好まないような気がします。でも、セリフとか表情とかから、やっぱり齋藤飛鳥感が強く滲み出ていたなと思いました。特に笑い方なんか、僕がテレビとかでよく見る齋藤飛鳥そのものという感じでした。上手く説明できないけど、息を吐き出すような笑い方じゃなくて、息を吸うような笑い方をするようなイメージがあって、映画でもそういう笑い方をしていたなと思いました。

この映画に関連するインタビューの中で、齋藤飛鳥本人も、また共演者も、「齋藤飛鳥の壁」の話をしていました。齋藤飛鳥本人は、他の共演者に対して壁を作っていたつもりはなかったらしいけど、普段の齋藤飛鳥のままでいたら、そりゃあ壁があるように見えるだろうな、と。他の共演者は、その壁が厚すぎて、この映画無理なんじゃないか、と思っていたみたいな発言をしていました。でも、映画を撮影していく中で徐々に共演者たちと打ち解けていくことが出来て、それが映画のストーリーとうまくシンクロしていって良かった、というようなことも言っていました。

そういう意味でもこの映画は、まさに齋藤飛鳥らしさ全開と言えるでしょう。映画の中でマドンナ的な立場である「早瀬真愛」は、多くの人から注目を集める存在でありながら、「昭和の道徳」と言われる古風な言動と、他人に心を開かないあり方から、特に男子は近づけないでいる存在。現実の齋藤飛鳥も、乃木坂46のメンバーと一緒にいてさえそこまで馴れ合った関係にならない、という色んなメンバーからの証言がある通り、女性であっても他者との関係を築き上げていくのに時間が掛かるタイプ。それが、映画の中の時間、そして撮影の中の時間が経過していくにつれて少しずつ変化していくという流れが垣間見れたような感じがして、とても良かったです。パンフレットによれば、齋藤飛鳥はクランクアップの時泣いたと言います。その涙には色んな理由があったと本人は書いているけど、どんな理由であれ、「感情がこみ上げてきて涙する」というのは、僕がイメージする齋藤飛鳥像では相当レアな事柄なので、この映画の撮影を通じてまた変わった部分があるのかもしれないな、と思いました。


あと余談だけど、齋藤飛鳥絡みで言えば、映画の中で「カップスター」やパソコンの「mouse」なんかが、実にさりげない感じで登場していて、齋藤飛鳥の(というか乃木坂46)のファンだったら気づけるようなちょっとしたアクセントになっています。あと、映画の中で「水島浩介」が「なんでしゅか?」と返す場面があるんだけど、あれは齋藤飛鳥のニックネームの一つである「あしゅ」と関係あるんだろうか?とか考えてしまいました。

内容に入ろうと思います。
北島康介が「なんも言えねぇ」と言った少し後、スカイツリーの工事が始まった頃、まだガラケーが主流だった頃の地方の高校が舞台。校則が厳しい学校で、「天然パーマ証明書」を提出しなければならない水島浩介は、しかし教師からの再三の催促を無視する、割と問題児。授業中後ろの壁の方を向いていろと言われたりすることもザラで、もちろん成績も良くはない。幼稚園の頃から幼馴染の小松原詩子や、クラスメイトの陽平・健人・寿音・一樹らと、受験勉強もロクにせずにふざけてばかりいる。
早瀬真愛は、学校一のマドンナで、詩子と仲がいい。脳の半分が男だと自覚している詩子とは違って、真愛は町医者の娘で学年一の成績優秀者。浩介とはまるで関わりのない存在だったし、浩介としては融通が利かない“深窓の令嬢”とはあまり関わりたくないと思っていたのだが、ある日教師から、真愛に勉強を教えてもらえと、浩介は真愛の前の席に座らされることになった。

休み時間にアホみたいな会話をしている浩介たちを「幼稚」と突き放す真愛だったが、ある日、普段忘れることのない教科書を忘れてしまったところ、浩介が自分の教科書を真愛に渡し、身代わりとして教師に怒られてくれた。恩義に感じた真愛は、勉強を全然しない浩介のために数学のテストを作成、勉強も見てあげることになるのだが…。
というような話です。

冒頭でも書いた通り、僕はこの映画を純粋には見れません。僕は「齋藤飛鳥ファン」としてこの映画を観てしまったので、一般的にこの映画がどう受け取られるのかちょっと分かりません。僕は、「早瀬真愛」と齋藤飛鳥をシンクロさせて見ることで、とても楽しめる映画でしたが、冷静な視点で見た場合、「早瀬真愛」という人物の内面の変化というのはちょっと分かりにくいんじゃないか、という気もしました。

僕がうまく掴めなかったのは、真愛がいつ浩介を好きになったのか、ということ。もちろん、「好きになった瞬間」などというのはなくて、結果的に長い時間を過ごすことになる中で少しずつ、という答えなのかもしれないけど、それでもこういう物語の場合、「ここがそのポイントです!」的な描写って割とされがちかな、と思いました。僕としては、そういうポイントがはっきり描かれることはなかったと感じたので、ある意味でそれはリアルだ、現実らしさだ、とも受け取れましたけど、一方で、真愛という人物の分からなさにも繋がったかな、と。僕は「早瀬真愛」というキャラクターの中に齋藤飛鳥という人格を入れ込んでみていたので、そんなに違和感はありませんでしたけど(齋藤飛鳥であれば、「早瀬真愛」のような振る舞いは自然だな、という意味です)、ただ、ビジュアルはともかく、「齋藤飛鳥」というキャラクターはそこまで広く浸透しているわけではないだろうから、「早瀬真愛」に齋藤飛鳥のキャラクターを重ねずに観ていた人がどう感じるのかはちょっと僕には想像出来ないな、と思いました。

齋藤飛鳥自身もインタビューの中で何度も発言していましたが、僕自身も、こういういわゆる「ザ・青春」のような時間を過ごしたことがないので、「なんか眩しいなぁ」という風にこの映画を観ていました。羨ましい気もするけど、でもそれは決して羨ましいばっかりなわけではない。この時間がずっと続くなら確かに最高なんだけど、そんなわけはないし、かつて自分の手のひらの上にあった何か、あるいは自分のすぐ傍にあった体温とかが、時間とともに「失われた」という感覚になってしまうことが、その後の長い長い人生の中でどう消化(あるいは昇華)出来るのか、イメージできないなという感覚もあります。ただ、「早瀬真愛」あるいは齋藤飛鳥のような人と、人生のごく短い期間であっても関わることが出来る、というのはやっぱり羨ましいよなぁ、という気もするし、そういうヤキモキした感じを、映画中感じていたような気がします。

最後に、この映画のオリジナルについても触れておきましょう。元々は台湾の映画で、2011年に公開されると、ほぼ無名のキャストながら社会現象をまきおこす大ヒット。台湾では10人に1人が観たと言われているそうです。香港では「カンフーハッスル」の記録を塗り替えて、中国語映画の歴代興収ナンバーワンを記録した、とか。この映画は、原作・脚本・監督を自ら務めたギデンズ・コーの実際の物語をベースにしているそうです。実話ベースなのかよ、なんか羨ましいな、という感じがしました。

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