【映画】「聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア」感想・レビュー・解説

この映画、ストーリーだけ抜き出したら、ちょっと成立しないような気がする。それこそ、山田悠介の小説に出てくるみたいな、無茶苦茶な設定で物語が進んでいく。映画を観ながら、疑問符だらけなんだけど、この映画が凄いのは、その疑問にことごとく答えないこと。それはもう、徹底している。そして、疑問に答えないことで生み出される不穏さが、なんとかこの映画を成立させているような気がする。

それぐらい、正直、意味不明ではある。

ただ、ちょっと思うことはある。詳しいことは知らないが、なんとなく僕の中で、欧米人にとって「鹿」というモチーフは何かありそうな気がする。それこそ、キリスト教的な何かが。もしかしたらこの映画のストーリー部分も、キリスト教とか聖書とかに関わる何かがあるのかもしれない。もしそうだとすれば、それを知っているかどうかによって、受け取り方が大きく変わるのだろう。

ストーリーは、最初から落ち着かない。主人公は、心臓外科医として働くスティーブンであり、彼には、眼科医である妻・アナと、長女・キム、長男・ボブという家族がいる。
スティーブンは時々、マーティンという青年と会っている。彼が誰なのか、最初の最初は分からないのだが、割とすぐに判明する。彼は、かつてスティーブンが執刀医を務めた手術で死亡した患者の息子だ。今は母親と二人で暮らしている。マーティンは、ちょくちょくスティーブンの元を訪れる。目的は不明だが、スティーブンには負い目もあり、無下には断れない。それで、妻に告げずにマーティンの家にも行ってしまう。マーティンの母親がスティーブンを誘惑してくる。
ある日の朝、ボブがベッドから起きてこなかった。学校に遅れるぞと呼びに行ったスティーブンだったが、ボブは足の感覚がなくて立ち上がれないと訴える…。
というような話です。

どう考えても、マーティンの出現とボブが立てなくなることの間に関係があるはずなんだけど、その理由は当初分からない。しかし、これから変な日本語を書くが、分かった後も分からないのだ。いつか分かるのかと思ったが、結局分からなかった。

この映画の不穏さは、設定だけではない。登場人物たちの心情も謎めいている。観客から見ている限り、「子供が立てなくなった」ということに心底動揺しているのはスティーブンだけに思えるのだ。立てなくなった本人でさえ、さほどのダメージを感じない。母親のアナも、心配はしているし、どうにかしなくてはと思っているのだけど、とはいえ状況を受け入れているように見える。状況を受け入れられないでいるのは、どうもスティーブンだけに見えるのだ。

状況も心情も不明なまま、物語は進んでいく。葛藤があるように見えるのはスティーブンだけで、他の面々は目の前の状況を許容しているように見える。その異様なアンバランスさ。彼ら一家は、それしかないのだという解決策に向かって追い詰められていくわけなのだけど、そこに至る過程も、その解決策も、すべてがもうハチャメチャで、僕には正直うまくは捉えられませんでした。


と、ここまで書いたところで、「聖なる鹿殺し」についてネットで調べてみました。とりあえず分かったことは、この映画が、ギリシャ神話のエウリピデスの悲劇『アウリスのイピゲネイア』にインスピレーションを得ているらしい、ということです。あとは、いくつかサイトを見てみましたけど、ズバッとこうだ、と書いている考察はありませんでしたが、僕が映画を見ていて気づかなかった部分をとりあげていて、なるほどなと感じました。その一つがポテトを食べるシーン。冒頭とラストで対比するように描かれているこの場面は、確かに何か意味ありげだな、と思いました。

物語は良く分かりませんでしたが、マーティンの演技は、まさに「怪演」という感じで、凄みを感じました。得体の知れない感じをフルパワーで出しているような感じで、この作品の不穏さの象徴としての存在感を充分に見せつけていたと思いました。

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