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【本】平山瑞穂「四月、不浄の塔の下で二人は」感想・レビュー・解説

「正しさ」というのは、とても難しい。


先日、ベトナムのジャングルの奥地である親子が保護された、というニュースを見かけた。何故彼らはそんなジャングルの奥に身を隠していたのか。それは、「ベトナム戦争から逃れるため」だ。


詳しくニュースを見たわけではないので正確にはわからないが、つまり彼らにとって、「ジャングルの外でベトナム戦争が継続している」というのは「正しい事実」だったということだろう。そう信じ続けたからこそ、彼らはジャングルを離れなかった。日本では、小野田寛郎氏がよく知られているだろう。終戦を信じず、30年もフィリピンのジャングルに潜伏し続けた人だ。小野田寛郎氏にとっても、「太平洋戦争は継続している」というのは、「正しい事実」だったのだ。


それは、とても極端すぎる例かもしれない。けれども僕らも、生きている中で様々な「正しい事実」、つまり「前提」を抱えて生きているものだ。


最近はある程度薄れてきた部分もあるだろうけど、「結婚し、子どもをもうけなければ一人前ではない」という考え方は、ちょっと前であれば社会常識と言っていいものだっただろう。そこから外れる生き方を選択する人間は、きっと「異端」だったに違いない。


「会社に就職する」という考え方も、恐らく戦後に生まれたものでしょう。それまではみな、現代の「就活」とは違った形で職を見つけ、働いてきたはずだけど、現代では「就活」こそが唯一の職探しの方法、というような考え方になっている。僕はかつて、「日本人の貯蓄好きは、ある時官僚が考えた政策に影響を受けたものだ」という話を読んだことがある。


これらの「正しさ」を担保しているものは、一体なんだろうか?


僕は、「正しさ」には二種類あると思っている。


一つは「真理」だ。これは、「いつの時代、どんな条件、誰であっても同じように正しいこと」と言っていいだろう。例えば、「光の速さは秒速30万kmだ」というのは「真理」だ。あるいは、「1+1=2」というのも、「真理」と呼んでいいだろう。江戸時代だからと言って「1+1=3」になるわけがないし、風が強い日だからと言って光の速さが変わるわけでもない。


もう一つは、「“みんな”が正しいと言っていること」だ。これを何と呼んだらいいか分からないけど、「事実」と呼んでおくことにしよう。


この「事実」というのは、「正しさ」が安定しない。“みんな”が正しいと思っている、という点だけが、その「正しさ」を担保しているのだ。


世の中に存在する「正しさ」の、99.9%以上が、後者、つまり「事実」だろうと思う。しかし僕らは、あまりそういうことを意識しないで生きている。つまり、「事実正しさ」を、「真理正しさ」のように受取りたがっているのだと思う。「私が今正しいと思っていること」は、「いつの時代、どんな条件、誰であっても同じように正しい」と思いたがっている、ということだ。
これが色んな不幸を生む。あらゆる誤解、あらゆる争いが、恐らくこういうすれ違いを背景に持っているのだろう。


これが、肌の色が違うとか、使っている言葉が違うということであれば、なんとなく納得感もある。「まあ、そりゃあ違うよね、色々」と思えるだろうし、あらかじめそういう前提で相手に接することができるかもしれない。


しかし、同じような言葉を喋り、同じような外見で、同じような空気の中で生まれ育ってきた人であっても、一人ひとり「前提」は違う。でもそれは、なかなか浮き彫りにならない。僕らはみんな、まったく違う「前提」の元で生きていると思っていた方がいい。でも、そうは思いたくはないという心の動きも働く。この人なら伝わるはず、こう伝えたら分かってくれるはず。そういうことをくり返しながら、人は傷つき、諦め、次第に、分かり合えなくて当然、という境地にたどり着くことになる。

「オオカミに育てられた少女」というのが、一時期話題になった。真偽のほどは知らないが、言葉は話せず、生肉を食し、人間社会に溶け込むことが出来ずに死んでしまった、という話を聞いたことがある。その少女にとっては、オオカミとしての生活こそが「前提」だった。外見が「人間」だからと言って、わざわざ人間の社会に溶けこまなくてはいけなかっただろうか?僕にはわからない。


人間はきっと、どんな「前提」さえも受け容れられる。環境が許せば。目の前の現実をねじ曲げるほどの強烈な「前提」さえ、環境が許せば受け入れられるだろう。


本書の「エンノイア」のように。


「エンノイア」は、「免穢地」で生まれ育った少女だ。「免穢地」の外に出たことはない。彼女たちは「光の民」として、「肉の衣」の内側に囚われた「光の粒」を、ひとつ残らず本来属していた「至高天」に帰還させることを究極の目的としている。「光の民」にとって、誕生の瞬間から肉が滅びるまでの期間は、強いられた長い刑期である。その間、「肉の衣」に包まれた「光の粒」を少しでも清浄に保てるように修行と祈祷に励む。それが「光の民」の勤めである。


「エンノイア」は、そのような環境の中で17年間を過ごした。「光の民」としても自分の役目を疑ったことはない。主遣の娘として、「光の民」を率いてきたという自負のある「エンノイア」は、今この危機にどう立ち向かうべきか考えていた。


主遣の「肉の衣」が滅んだ。それは、いずれ来るべき未来として予測されていたことではある。問題は、跡継ぎである「ヌース」が、4年前に「免穢地」を出て行ったきり、戻ってこないことだ。


「エンノイア」は、「免穢地」を出て、「泥人」が住む「被造世界」へと出て行き、「ヌース」を連れて帰る決心をした。他の民たちに引き止められたが、これは自分の使命だと「エンノイア」は決意したのだ。


「被造世界」は恐ろしい場所だと聞かされていた。「泥人」という、快楽に溺れた人間たちが、「光の民」を快楽に引きずりこもうと手ぐすねを引いて待っている。「エンノイア」は、ずっとそう聞かされて育ってきた。しかし、行くしかない。


「被造世界」の「東京」という地を目指すことになった「エンノイア」は、「被造世界」の様々なものに触れ、これまで抱いたことのなかった様々な感情を知ることになる。


一方、軽部金属工業という会社で若い職人として期待されている杉本諒は、真辺綾という可愛い彼女のいる、普通の若者だ。ちょっと普通じゃないのは、オンボロの一軒家に一人で住んでいるということ。


ある日諒は、部屋の前で倒れている少女を発見した。既成品ではなさそうな真っ白な服、少女とは思えないボサボサの髪。不審に思ったものの、助けの手を差し伸べる諒だったが…。


というような話です。


これはなかなか面白い作品でした。とにかく、エンノイアがとても魅力的です。


「特殊な環境」の中で育てられてきたエンノイアは、一般社会の常識をまったく知らない。どのくらい知らないかというと、「青信号は渡っていい」ということを知らない、というレベルではない。そもそも、「横断歩道」の存在を知らない。どうやって「道路」の反対側に行けばいいのかという知識がない。


僕はこのエンノイアの有り様を読んで、ロボットの世界の「境界問題」を連想した。


「境界問題」については、僕自身の解釈が間違っているかもしれないのだけど、僕の解釈を書けばこうだ。ロボットは基本的に、「何かをインプットしてもらわなくては動けない」存在だ。このロボットを、人間社会の中で生活できるように仕立てあげるために、何を教えたらいいか、という問題が「境界問題」だ。


例えば先程の「横断歩道」の例だとこうだ。ロボットに、「道の反対側に渡る」ための方法を教えるとすれば、「横断歩道を見つけ」「信号が青になった時に渡る」ということを教えればいいかというと、そうでもない。道路には、横断歩道がなく歩道橋があるところもあれば、交通量の少ないところであれば歩道橋も横断歩道もないところもあるだろう。だから、横断歩道が見つからないからと言って、道路の反対側に渡れないわけではない。じゃあその場合分けをどんな風に教えればいいのか。

というようなことに悩むのが「境界問題」だと僕は思っている。そしてまさにエンノイアが体験していることが、この「境界問題」に近いように僕には感じられた。


エンノイアには、人間社会の基本的な常識がない。エンノイアの持つ常識は、「特殊な環境」の中でしか通用しないものだ。それまでの人生では、それでなんの問題もなかった。何故ならエンノイアは、その「特殊な環境」から一度も出ることがなかったからだ。その中の常識を知っておけば、生活のすべては事足りた。


しかし、エンノイアが17年間過ごした「特殊な環境」と、人間の一般社会は、あまりにも違いすぎた。エンノイアは、そのまったく違う環境の中で突如一人で放り出され、たった一人でその急激な価値観の転換に立ち向かわなければならなくなるのだ。


これが、見かけはまったく「冒険」的な要素のない本作を、「冒険」的な小説に仕立て上げていると思う。エンノイアは、見るもの聞くもの触れるもの、すべてが新鮮だ。それまでエンノイアが培ってきた常識では、処理できないものも多い。あらゆるものに、エンノイアの疑問が向く。何故これはこんな風になっているのか?どうしてあそこはこうなのだ?冒頭の方で、エンノイアが培ってきた常識を読者は学び、そしてエンノイアの常識から人間社会を見るとどう見えるのか、という視点が非常に面白い。


作者にそんな意図があるか分からないけど、本書では、「僕らが無条件に受け入れている常識」に違和感を突きつける場面が多くある。おかしいのはエンノイアの方だ、と大抵の読者は思うことだろう。ただ、そこで少しだけ立ち止まってみてもいいかもしれない。もしかしたらおかしいのは、エンノイアではなく僕らの方なのではないか、と。そう思わせる瞬間は、確かに存在する。その、まったく価値観の違う両者の間の溝のようなものを凄くうまく描き取っていて、そこは非常に面白いと思った。


だからこそ、一点、どうしても不満も残る。それは、「エンノイアが、人間社会の常識を、あまりにも自然に受け入れているように見える」ということだ。この部分の処理は、恐らくとても難しいだろうと思う。思うのだけど、ここがもっとしっかりしていれば、もっともっと素晴らしい作品になるのではないかと僕は思う。


エンノイアは、生まれてこの方17年間ずっと信じきた常識を、たった数ヶ月で手放すのだ。いや、期間の短さに不満があるわけではない。その間、エンノイアにはあまり葛藤がないように僕には見えてしまうという点に不満がある。


もちろんエンノイアは、葛藤している。でも、僕の勝手な思い込みかもしれないのだけど、実際はもっと葛藤するのではないかと思うのだ。「光の民」にとって「泥人」というのは、醜悪で恐ろしい存在だった。エンノイアは少なくとも、そう言われ続けて育ってきた。それはまさに、ゴ◯ブリのような存在だと言えないか?そうだとして、たった数ヶ月で、ゴ◯ブリに抵抗感を抱かなくなることなどできるだろうか?そこの説得力が、ちょっと弱いような気がしました。

もちろん、その部分をもっとしっかり描いていたら、小説の分量が膨大になってしまうという現実的な問題もあるでしょう。それは分かる。例えばエンノイアのパートを、「過去の回想」という体裁にしたらどうだろう?「過去のことを思い出して書いているのだ」という体裁にしたら、そこまでの違和感はないかもしれない。

本書では、エンノイアがリアルタイムに感じていることをそのまま写し取っているという体裁になっているから、もっと強い葛藤があるのではないかと思ってしまうのだけど、昔を思い出して書いている文章なら、そこまで違和感を覚えないかもしれない、と思ったり。その部分の説得力が、僕はもっと欲しかったなと思いました。


とはいえ、物語としてはなかなか面白い作品でした。エンノイアと関わることになる諒や綾との交流、エンノイアが人間社会に抱く違和感、エンノイアがこれまで抱いたことのなかった感情、エンノイアの内側から沸き上がってくる変化。そうした一つ一つが、なんとも愛おしいような気持ちにさせてくれます。「分かり合えない他者」といかに関わるか。

それは、エンノイアのような「特殊な環境」で育った少女だけに関わる問題ではない。僕らは皆、まったく違う「前提」に立って人生を生きている。自分以外のすべての人間が、実は「分かり合えない他者」なのだ。改めて、そんなことを実感させてくれる作品だった。僕らは普段、「分かったフリ」を上手にこなして、他者との「違い」をあまり意識しないように生きている。「分かったフリ」などできるはずもないエンノイアの突然の闖入は、そんな僕たちの日常生活を緩やかに脅かすとともに、物事を見る別の視点も提示してくれる。是非読んでみて下さい。


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