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【本】松岡圭祐「八月十五日に吹く風」感想・レビュー・解説

戦争を扱った小説に対して、こんな感想を抱くのはあまり良くないのかもしれないが、率直にこう思った。
メチャクチャテンションが上がる!と。

『だがここには、日本人なら誰でも抱いたことがあるはずの素朴な疑問が存在する。アメリカは原爆を落とす無慈悲をしめしながら、なぜ直後に比較的平和な占領政策をとるに至ったのか。』

本書の内容を一言で説明すれば、「この問いに答える物語だ」となるだろう。

確かにその通りだ。僕は学校であまりきちんと歴史を学んでこなかったし、歴史について考える機会もあまりないので、僕個人はこういう疑問を抱いたことがないのだが、言われてみれば、確かにその通りだと思える。実際に、イラク戦争など、僕たちがリアルタイムで知っている戦争では、戦勝国が苛烈な占領政策で支配している姿を見ている。歴史上、多くの戦争でも、そのような経過を辿ってきているはずだ。

何故日本は、平穏な終戦を迎えることができたのか。

もちろん、色んな理由があるのだろう。でもそれは、なかなか両方を同時に説明するものではないのではないか、と思う。「平和な占領政策をとった理由」だけであれば、色んな可能性を考えうる。しかし、「直前に原爆を落としていたにも関わらず、平和な占領政策をとった理由」となると、なかなか難しい。

まず、何故原爆が落とされたのか、という理由からいこう。いや、正確に表現しよう。「何故原爆を落とすことに躊躇することがなかったのか」の理由だ。

当時ホワイトハウスは、シンクタンクに日本の分析をさせていた。その中で、日本人はこんな風に描かれている。

「日本人は自他の生命への執着が薄弱であり、だからこそ一億玉砕にも呼応する。であれば、本土決戦になれば婦女子を含めた非戦闘員が戦闘員になりうる」

この報告書に対して、本書の登場人物の一人はこう思考を巡らせる。

『恣意的な誘導だと筒井は思った。一億総特攻を拒否しないからには、民間人も非戦闘員ではなく、したがって原爆の標的にしても国際法違反にあたらない。そう暗に示すのが目的だろう』

そう、当時アメリカ人は、日本人を「生命を尊重するなどありえない民族」だと捉えていた。これは、相当根強く信じられていた考えだったようだ。特攻やバンザイアタック、玉砕と言ったアメリカ人には理解できない戦闘行動に対して、「日本人は生命を重んじないのだ」とする見方がいつの間にか広まっていたという。そういう背景があったからこそ、アメリカ人は原爆投下を躊躇せずに行ったのだ。

つまりこうも言える。原爆投下まではアメリカ人は、日本人を野蛮な民族だと思っていたのだ、と。であれば、やはり冒頭の疑問が蘇ってくることになる。
ならば何故、その直後に平穏な占領政策を取ることができたのだろうか、と。

実際、(物語ではあるが)本書では、1945年8月15日の米軍内の会議で、こんな発言がなされている。

『(占領に際して)今後も非戦闘員による個人単位での玉砕、あるいは村や隣組など小自治体単位での反乱が起こりうる、注意警戒事項にそうある。根拠は、日本人に根付いた国家主義が、人命の尊重に優先するという、彼ら固有の意識構造にある』

『本土決戦、一億玉砕、一億総特攻、神風。軍部の呼びかけに国民から強く反発する声もなく、むしろ積極的に応じているとの報告が多々ある。それらに基づいた分析だ。どの戦線でも、日本の軍司令部は玉砕を強いて、無慈悲に兵を見捨ててばかりだ。なのに遺族は、訃報をきいても感謝を捧げている。復讐心もより強まるかもしれん。われわれが日本の占領にあたり、警戒するのは当然だろう』

1945年8月15日時点でも、アメリカ人はこう考えていたのだ。そのままであれば、苛烈な占領政策が行われていてもおかしくはなかっただろう。

この流れは一体、何によって変わったのか。

それが、「1943年8月15日の出来事」と「一人のアメリカ人の進言」なのだ。
本書は、この二つを軸にしながら、日本の終戦、そして戦後のあり方を形作った大きな流れを描き出そうとする。

先に挙げた「一人のアメリカ人」は、本書の中では「ロナルド・リーン」の名前で登場する。若き頃、タイムズスクエアの一角にある古本屋で見つけた「源氏物語」の翻訳に魅せられ、極東の島国に憧れるようになった。後に日本に帰化し、ある新聞社の客員編集委員となった人物である。もちろん、分かる人には分かるだろう。あの人物だ。

あの人物がいなければ、日本は今とはまったく違った国になっていたかもしれない。そう考える時、大げさに言えば、僕たちは「源氏物語」という一冊の古典によって救われたと言えるのかもしれない。

内容に入ろうと思います。
ロシアとアラスカに挟まれたベーリング海に浮かぶアリューシャン列島。その中に、戦時中、日本軍がアメリカ軍の領土を占領した島が二つある。アッツ島(熱田島)とキスカ島(鳴神島)だ。
熱田島に着任した山崎保代大佐は、この島が現在置かれている状況を振り返った。極北の寒地荒原(ツンドラ)であり、動植物はほとんど存在しない。島外からの供給は長く途絶え、増援部隊を送るという連絡があってから9日が経つ。完全な孤立状態だ。アメリカ軍に対しては徹底抗戦を敷いているが、どこまで持つか分からない。そこへ、山崎を熱田島へと送った樋口司令官から打電が届く。全員、玉砕せよ、と。熱田島では2638名の日本人が死を迎えた。
同じ頃、隣の鳴神島にも、5000人を超える兵がいた。彼らも熱田島と同様、孤立状態にありながらアメリカ軍に対して凄まじい抵抗をし続けていた。そこに、玉砕を促すような平文と同時に、ガダルカナル島での撤退作戦の通称であるケ号作戦の内容が暗号文で送られてきた。彼らは考えた。これは、救出作戦の知らせなのではないか?
しかし、鳴神島の救出作戦は、現実的に不可能なものだった。アメリカ領の孤島に置き去りになった5000人を超える兵を、米艦隊がひしめきあう海域を突破して救助に向かわなければならない。艦隊を損失するわけにはいかない大本営も難色を示すが、しかし樋口司令官は諦めない。あらゆる手を尽くし、この任務を了承させ、艦長も探し出した。海軍少将、木村昌福だ。
木村は、気象専門士官である橋本恭一少尉と共に、誰もが不可能だと思っている救出作戦に乗り出していく…。
一方、20歳のロナルド・リーンは、日本軍ほぼ全員が玉砕したアッツ島に派遣された。残された日本語文書から、重要な機密を探し出すためだ。「源氏物語」から日本に関心を持ったリーンには、理解できなかった。何故あれだけ繊細な情愛の念が民族の根底にあって、バンザイアタックという発送に行き着くのか、と。彼は、『自殺の欲望に憑かれ、自他ともに生命を果てしなく軽んずる、いわば狂気といえる国民性の発露』と日本人を捉えている多くのアメリカ人とは違い、彼らの国民性や行動原理を可能な限り正しく理解しようと奮闘する…。
というような話です。

本当に、素晴らしい物語だった。

僕は正直なところ、本書で描かれていることがどの程度まで真実なのか、全然判断できない。どこまでが創作で(明らかに、米軍内での会議の様子などは、想像によって描かれているのではないか、と思うのだがどうだろう?)、どこまでが史実なのか、分からない。とはいえ、本書の冒頭に、

『この小説は史実に基づく
登場人物は全員実在する(一部仮名を含む)』

とあるので、僕はとりあえず、本書で描かれていることは基本的に事実なのだ、と捉えて感想を書いています。

キスカ島、という名前は聞いたことがあった。というか、見覚え、というべきか。キスカ島の名がタイトルに入る本を目にしたことがあるのだ。しかし、それがどんな本なのか知らなかったし、ましてやキスカ島で、ハリウッド映画なのか?と思いたくなるような壮絶な救出作戦が展開されていたなんて、まったく知らなかった。

そしてもちろん、このキスカ島での救出作戦が、ちょうど2年後の終戦に大きく関わっているなどということももちろん知らなかった。

冒頭でも書いたが、本当にこれが真実なのだとすれば、僕たちはある意味で「源氏物語」によって救われた国民だと言えるだろう。それぐらい、ロナルド・リーンの果たした役割は大きいし、ロナルド・リーンが日本人の国民性を見出したキスカ島での救出作戦に関わった者たちも素晴らしい。

本書では、アッツ島やキスカ島で壮絶な毎日を送らざるを得ない兵士たちや、司令官である樋口の奮闘、またアメリカ軍側の動きなど様々なことが描かれていくのだが、何よりもやはり、キスカ島での救出作戦の詳細が物語としてはスリリングであり、出来すぎているというぐらい奇跡的だと感じる。

キスカ島での救出作戦は、普通に考えて誰もが不可能だと感じるだろうと思う。本書のP86には、アリューシャン列島の地図が載っているのだが、日本列島から、日本列島の長さぐらい離れた場所にキスカ島はあり、しかもその周囲はアメリカ軍に囲まれているのだ。しかも残っている兵は5000人以上。その兵士たちを1時間以内に収容しキスカ島から撤退しなければならないのだ。

無理でしょ、と普通は思う。

しかし、艦長である木村は、誰も考えつかないようなアイデアを次々に繰り出し、計画を前に進めていく。時に木村の指示は、その意図がさっぱり分からない。例えば、三本ある内の真ん中の煙突を白く塗れ、と指示する。この指示は、その意図を誰も理解できなかった。しかしある場面でその理由がはっきりと分かる。これには本当に驚かされた。

他にも、常識では考えがたいアイデアと決断で、木村は不可能を可能にしていく。

木村は、5000人以上の兵を救った。しかし、間接的には、日本人全員を救ったと言っていいだろう。もちろんその背景には、キスカ島の救出作戦を実現させようと奮闘した樋口司令官など、様々な人間の想いが込められている。それらを、リーンが的確に汲み取り、適切な場面で進言をした。どれか一つでも欠けていれば、事態は全然違ったものとなっただろう。

『こう思ってほしい。救える者から救っていると。救うことが許される者から、あるいは容認される者から、そういうべきかもしれん。私にはいまのところ、それしかできんのだよ』

樋口がそう語る場面がある。樋口もまた信念の男であり、結果的に彼は、自らの信念を貫き続ける人生を突っ走ったお陰で救われた。もちろん、すべての人間がそんな風に振る舞えるわけでもないし、信念を貫き通せば何もかもうまく行くわけでもない。とはいえ、こういう生き方をした人がいた、ということを知れるのは、とても勇気づけられることだと思う。

『若い兵士たちは、天皇陛下のため命を捧げるべき、そう信じている。敗北はむろんのこと、敵の捕虜になるのも恥と考える。だが、こんな時代をつくりだしてしまった自分たちこそ、恥を知らねばならない』

これも樋口の考えだ。実際に樋口(あるは樋口のモデルとなった人物)がこんなことを考えていたかは分からないが、しかし、少なくとも本書で描かれる樋口の様々な言動は、こういう下地となる考えなしにはなかなか実現されないだろう。僕たちも、上の世代が作り上げた価値観をただ盲信していないかどうか、そして下の世代にこれが当たり前だという考えを押し付けていないか、常に振り返り続けなければならないだろう。

『戦争のなかにあっては、正しい答えは否定されます。でも正しいものは正しいんです』

本書の中で重要な役割を果たす、同盟通信社外信部の菊地雄介の言葉だ。戦争の影が様々な場面でちらつく現代。僕たちはこのことを改めて認識しなければならないし、その中にあっても正しさを貫ける人間でありたいと僕は思う。

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