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【taboo持ち寄りぶんじ寮 vol.7 忙しさ @ぶんじ寮 20210919 】 イベントレポ 文責:Aki Iwaya Hiroki Suzuki

『taboo持ち寄りぶんじ寮 vol.7:忙しさ』
日時:2021年9月19日 15:00-16:30

るんるんるん〜 あきです。

タブー持ち寄り:忙しさ

夏の終わりと秋に挟まれた昼下がり、
ぶんじ寮の食堂に集まった人たちが持ち寄ったのは、「忙しさ」。

前回に引き続き、オープンダイアログの形式を一部取り入れて、話を持ち寄ってみます。

一人称で話すことが推奨される場のルールに則った私は、
日本で流通する「忙しさ」がそれ以外の国で通じなかった経験を投げかけた。
ー”KAROSHI”が伝わらない。
ねえ、どうして死ぬまで働く必要があるの?
そう聞かれ、返す答えがなかった私について。

忙しさを決めるのは一体誰なのか?ただの主観ではないのか?
であればそれは、他者が決定できることではないのではないか?そんな話がテーブルに置かれた。

ーOK。どこまでいってもそう。まるで一度離れたら最後、二度と交わらない二本の線の関係のよう。
大学の教室では話が通じていたように見えたあいつと、10年経ってみれば話が通じない。キャリアを進めるために費やした時間は、パートナーやこどもに注ぐための時間とトレードオフのようだった。

そうしてここに至っておもむろに、「忙しさ/忙しい」という言葉が召喚される。

忙しいから仕方ないんだ、わかってくれ。
わかってくれないなら仕方ない、別々の道を歩むしかないんだろう。

二項対立の先、二股に別れた道のいずれかを選択することは極めて自明のように思われた。そうしたふたつにひとつの選択をいくども繰り返し、同じ世界に居ながらにして別の世界を経験するに至ったようだった。そこに確認のことばなど交わされることはなかった。道を歩んだ自覚はなく、まるでいつのまにか道の方が進んでいたような感覚だ。

だが、私は、このふたつの対比は「偽の問題」だと感じた。
本来、異なる次元の質とカテゴリーに属するもの、つまり比較できないふたつを比較している。
できないだけでなく、してはならないないふたつを比較した副作用として、多くの人の生を毀損している。

「忙しさにかまけて、何かを犠牲にしている」や「セルフ・ネグレクト」、そんな言葉を置いた人が複数いた。
私は、ネグレクト=虐待の矢印は、その人自身のみならず、その人から放射線状に延びた無数に近い関係の矢印の先にある全ての人々へ波紋していると捉えている。自分を痛めつけるのは、縁ある他者の束、こういってよければその人に携わった関係性の全てを少しづつ傷つける行為に等しい。

「どう、最近忙しい?」は、何を確認するためになされる挨拶だろうか?
私は使ったことがなく、これからも使わない。
挨拶として使われたようなら、「ヒマですよ」と答える。
忙しさは有能の代替品ではなく、ヒマは無能の類語ではないから。

「子供の頃には、忙しい、って感じたことなかったな」
忙しさとは、自分で自分の時間をコントロールできていたり、コントロールする必要がない場合、つまり自分と時間をもろともメタ視点から考えるための準拠枠を持たない者には、縁遠い概念なのだろう。
参照枠が「時間」である場合、コトの最中には忙しさは存在できないことになる。目前のこと、いま・ここから遊離して乖離した私と行為の隙をついて忍びより、寄り添うそぶりで寄生しはじめている。実感できるころには相応の大きさの何かとなって、私の生を圧しやっている。


ところで私は、何と何の間で板挟みとなっているのだろうか?
例えば賃労の働き方を変えることによって、「生産性」から「時間」へと準拠枠が機種変更されたとしても、板挟みとなっている私を包むこの構造は温存されている。

私は、いつから私を生産性で測るようになったのか?
いつしか私は、あなたを生産性と有用性で測っていたのだろうか。
だからあなたは、私をその目盛りで診断するのだろうか。
その目盛りの上ではみなを並べることができる。並ばされて測られる。
目盛りは多くの土地で互換性を持つことが暗黙されている。
そうした世界で私は、生きているということになっている。

苦痛を運ぶ満員電車に乗りたくなければ、私が下車しなければならない。
おりた瞬間、満員電車は消滅する。
生とは、生をかけた死のチキンレースではなかったと気づく。
おりることの苦痛と至福は、もうひとつの選択肢である。

生そのものからおりるまでには、
「生と自分との距離を、生産性で測る呪い」が解けんことを。
せめてその呪いは、次代にバトンしませんように。

暗闇から響く声は、私の声といってよいだろうか。

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Hiroki Suzuki /(10号室住人)です。

この日の会はある参加者の「一定の忙しさを超えると苦しくなるよね」との言葉からはじまった。
忙しさの判断基準はどこにあるのだろうか?子供の時に忙しかったとは思わず、また遊んでいる人をみて、忙しいとも思わない。”忙しい”という概念は、どのタイミングで自分自身に取り入れられたのだろうと考える。

そしてそれは、僕の場合には、習い事に通い始めたころだったように思う。
それまで、遊びたいから友達と放課後に会う、だったのが、決められた日に決められた時間、ある場所に通うようになった。行きたくなくても、行かなきゃいけないと思っていた。

「〜〜しなければいけない」の呪縛こそが、僕を忙しくしてきたのではないだろうか。
でも自分自身の心に嘘をついてまで、リズムを崩してまで、本当にしなければいけないことって、あるのだろうか?

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