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【taboo持ち寄りぶんじ寮 vol.4 政治 @ぶんじ寮 20210620 】 イベントレポ文責:鈴木弘樹& Ryota Matsushima & Aki iwaya

イベントレポートは、ページ中段にありますよ!

〜るんるんるん、Aki です〜 & ごきげんよう〜◎

場のルールを守ることとは、
人の話を聴くこととは一体なんなのだろう。

話をすれば、合意に至らなくてケンカになってもわかりあえるというのは、あるいはケンカすれば仲良くなれるというのは本当だろうか。

「taboo 持ち寄り」の場は、
評価や否定をせず、発言相手を指名せず、そして自己紹介を行わないことを大切にしている。
3人称の大きな主語(社会、日本、世間、世界)ではなく、1人称(私)の実際の経験や感情を持ち寄ることを推奨している。

全ては、安心して発言できること、そして同時に相手の発言を安心して受け取ることで、何らかの化学反応が起こる余地を確保する場が生起するために不可欠な設計だ。いわゆる”対話”の場とも毛色が異なる。


私の率直な感想。
わかりあえなかったのはもちろんのこと、仲良くもならなかった。会の前と後で、私には(そして”ケンカ推奨”発言の人々にも)特段の変化は起こらなかったようだ。

私は、合意に至らなくとも、話が通じなくとも、その場に居られることが大切だと考える。
いや、大切以上のもの、絶対条件だ。

ケンカ発言が象徴的な、ある種の時代(「政治の時代」、と言っていた)を過ごした者にとって、政治とは言葉や概念の摺り合わせだったのだろう。
だから、言葉を持たない者は力を持たず、存在が過小評価される。
結果、強い者が生き残り、弱い者は存在を許されない者として退場させられた。(抗争・仲間内での他殺、そして自殺を含む)

それが「政治」という言葉に、(少なくともこの国においては)影を落としているらしい。
触れにくいものであり、触れるためには戦う覚悟や知識という力が必要とされるもの、といったところだ。

2021年6月20日の会は、こういった背景に依拠した「世界観」に基づいて生きている人の存在を確認する場となった。

3人称が飛び交うことで生まれる”言葉の空中戦”を避けるための場のルールは再三に渡って無視され、そのことで「最近の若者」という言葉が連呼される。
そして空中の人たちの言う「最近の若者」が、「政治」を「オワコン」だと感じるのは、空中を漂うあるか無きかのマッチョな道の先には自分の未来を描きたくないからである。描く能力が無いからではない。


「日本」という言葉。会の最中、最も発語されたのはその言葉だった。
「日本」という「国民国家」を前提に世界観を組み立てるのは、2021年の今ここにおいて、無防備でリスキーな賭けだと私は感じる。これはもはや理性によるもののみならず、生理的な判断と言ってよい。

自身の立ち位置は、生まれた条件という完全な偶然から開始されるが、今現在立っている位置については、自分で把握できていなければ危うい。最新の危険を察知できない。

これは何かを決定的に分かつ感覚なのだろうが、自分という単位とは、立ち位置によって常に更新されるものと言ってよいのではないか?
「分人」的に=その場で毎回新たな自分が生成されるとするなら、立ち位置を変える、すなわち移動することは、この危機と宝探しの時代にあって、サバイブと喜びの生のための生命線となる。

少なくとも偶然の位置に留め置かれた「自分」を守るために、その物理的位置/土地と心中することはない。移動とともに生まれる、新たな自分を選択するだけだ。そして移動は概念ではなく解像度の極めて高い物理的・精神的な現実である。
だから政治とは、選択肢の終わりのない創造と、最新の選択肢のひとまずの選択の循環的プロセスである。


国も同様だ。多くの共同体にもあてはまるだろう。
現在における国/共同体とは、私が選ぶ対象である。一方的に選ばれる対象である時代は、もう過ぎ去ろうとしている。というより私の周りではとうに終わっている。
過ぎ去ってから取り残されるのは、私であり、一つの「言葉」しか話さないあなたである。

別の言葉で発語すること・別の語り方をしてみること。
これを習得するなら、また別の立ち位置を発見してたぐり寄せ、別の道を描くことはそう難しいものではない。

場の終盤、パートナーを介護をする段になってはじめて感じる困りごとが政治を要求する、といった旨の発言があった。
(「政治」の無力への恨み言とセットではあったが、それでも)ふいに「政治」の意味するもの、言葉の密度が、増したと感じた。移動の断念もまた、ある種の立ち位置の選択と言えるのかもしれない。
その人の言葉から私は「言葉」の振幅を受け取った。
受け取ったのは「政治の言葉」ではなかった。

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〜イベントレポート by Ryota Matsushima 〜

第4回Taboo持ち寄りのテーマは、「政治」
集まったのは12名(20~40代の男性5名、60~70代の男性4名、20〜40代女性3名)

はじめに、「政治」を話すうえで、この場で心掛けてもらいたいことから共有しました。
①説教や否定をするのではなくて、それぞれが「政治」という存在にまつわる考えを持ち寄ること。
②1人称で参加すること。(「日本は」「若者は」「~派」という話を始めると、空中戦になってしまから)

次に、「政治」という言葉を聞いて何をイメージするか?、を各人からこの場へ共有しました。(自己紹介はせず)
出た内容は、現在の「政治」に対して2つの方向性。
1つは、「政治」が遠い存在から身近な存在になることへの距離感について。始めは「遠い存在」であっても、環境問題、戦争の話、子育てに関わり、「身近な存在」に変わっていった話。地元では町内会などで身近に感じていても、東京に出てきて政治が遠くなったという意見も。2つ目としてルールを決めるまでの過程や利害の調整について。

- 私は政治に関係ないと無関心こそが政治的だと感じる。今の若者が政治に触れたくないと感じることが極めて政治的。
- 政治はこんな世界をつくりたいという理想を示すこと。
- ルール的なものを決めるまでの過程。
- 政治に関心がないのが不幸であるかというとそうではなく、政治に関心がないことはある意味で幸福なことなのかも。
- 2人以上が存在する場におけるルールや関係性。
- 生活に結びついている感じがあまり強くなかったが、子育てをする中で市政には繋がっていると感じた。
- 希望と現実の挟間で、若者は希望を持っていないから政治から離れる。また現実に触れていない場合も同様に政治に関心を持ちにくい。
- 政治の話をすると嫌な空気になって話すのが怖い。戦争や子育てなど多くの人が関わるものに触れたことがあるとより深く考えられる。

※途中で「今半分以上の人が1人称と絡めて話していませんね」という意見が出たが、1人称と絡めて話すことは、筆者にとっては、意識しても意外に難しいと感じた。


次に、「政治」を知る・考えるではなくて、参加していますか?から始まった流れで、「政治」に関して共有しました。

- 政治参加とは、「良くしたい」というより「悪くなるほうに加担したくない」。
- 一番すごいと思った政治参加の形は、マクドナルドのバイトの人が賃金が安いという一点突破で飲食業界全体の賃金を上げたもの。一点突破だからこそ、支持を集められたのではないか。
- 政策調査室には市民から政策の質問がくるが、大半は自分の理想を述べるだけで、質問を返してもそこからまた多くの時間がかかり、かつ要領を得なかったことに徒労を感じていた。
- 基本的には生活に支障をきたさなかったり、問題が起きなかったら政治をあまり意識しない。変化や痛みもなかったら問題にならないが、実際的な問題と共に政治は急に立ち上がってくる。そして市の問題だけではなく県や国にも繋がる。
- 市政に本当に関わると都にも国にも関わってくる。だから関わった人はリアルに感じることができた。


「相対的に考える視点」についても議論が及びました。

- なぜかこの場では、「日本」という単位を前提に話されているのに違和感を感じる。日本語でしか話したことがなく日本にしか住んだことがない人は日本のことを実は知らないのでは。一方で日本がオワコンだという意見は、海外に住んだ経験を踏まえて、意見の主張しにくさや話を聞いてくれない風潮が日本にあるために終わっていると感じているのでは。
- 相対的に見ることは、海外に行くだけではなく国内でも時系列でみるとかなり変化があるので、海外に出なくても国内でも考え方が違って当然。
- 普通の人は日常生活に忙しいので、いちいち沖縄の米軍や原発といった政治問題に関心をもって話すことはあまりない。
- デモに行く行かない関係なく、この世の中で自分がおかしいと思ったこと・違和感に感じたことをどう伝えて広げていくかが、自分の昔からの課題。


「議論」に関する話も。

- 話が通じないには2つある。A,Bの意見があって立場によって意見の違いで話が通じないのか。それさえもない拒絶の関係性。どちらでしょうか。
- 今の多くの日本人はぶつからないように、互いに話し合ったり、互いに意見の違いを拒絶するほうが楽だと思っている部分があるんじゃないか。
- 違うことを前提に皆生きているので、どう考えているか話し合うことが大切。時代も世代も身分も違う人が、どう折り合いをつけていくかだけが政治の問題。


最後に、政治に関して言いたかったことがあれば。

- 未来をつくるための政治が、階級闘争の人たちの今の利害闘争のための政治になっている。
- これからの政治は一つはすぐ目の前の問題に取り組む「明日の政治」を見る必要はあるけれど、もう一つは今の若者が自分が老人になった時に、どんな世界をつくっていくのかをイメージして政治をつくっていく必要がある。でも、日々の暮らしに忙しくて、そんなゆとりはないのが現実。


 筆者としては、参加できる政治の話をすると身近な話になり一人称で語りやすい一方、壮大な政治の話や「日本とは」などは参加する機会が少ないために一人称で語りづらく、遠い存在になってしまうことが多いため、どちらの視点からも政治に迫っていくことが大切だと感じた。

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〜鈴木弘樹による感想〜

何度か「若者は」との主語で話されることがありました。
正直、その内容も含めて僕は心地よくなかった。「本当に若者のこと、知っているの?」と言いたくなったからです。

政治という話題を話す時、国や世代など、主語が大きくなる場面によく出逢います。それ自体が悪いとは思いませんし、国や世代の単位で議論はある部分で必要だと思います。

ただ、意見によっては、現実に根ざしていないのではと感じることも少なくありません。今回の「若者」についての議論は、僕自身が一若者として「本当にそう?」と言わざるを得ない内容でした。

政治の話は、ときにセンシティブな話題に踏み込みます。
今回も外国人参政権(税金を払っているけれど選挙権がないひと)や、性的マイノリティーの方に関しての話も出ました。
もし当事者の人がその場にいたら、と想像しながら語ることが政治を心地よく語る上で重要なのだろうと、改めて感じた催しでした。

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次回は、「介護」をテーマに7/24午後@ぶんじ寮で開催予定。


これまでのイベントレポ(死、こども、メンタルヘルス)はこちら!↓
https://note.com/bunjiryomembers/n/n615b009a17b4

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