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番外編【海外ドキュメンタリー鑑賞×対話会「映像とわたし」@胡桃堂喫茶店 20211204】 イベントレポ 文責:Aki Iwaya

【海外ドキュメンタリー上映 × 対話会「映像とわたし」】@胡桃堂喫茶店12/4(土)19:30〜21:30
詳細:https://fb.me/e/1n6R50EnA
https://kurumido2017.jp/2021/11/29/moviedialog2112/

るんるんるんるんるん〜 あきです。

今回は番外編として、
@ぶんじ寮の深夜の食堂での、ひろっきー(Hiroki Suzuki)や他の住人との対話のような雑談のような何か、から生まれた上記上映&対話イベントの開催レポートです。

まず冒頭で、
イベント発生の経緯、さらに「映像の見方=ただ鑑賞するだけ、ではないのでは?、つまり消費するだけ以外の方法もあるのでは?それを探るために例えば、字幕から目を離す瞬間を持ってみてはいかがでしょう?」といったことを説明。
その後、3本合計55分ほどの映像を鑑賞。5分休憩。50分の対話(?)へ。ちょうど規定時間もせまる頃、スクリーンが傾く音がして、私のデスマスクの話のおあともよろしいようで。

ーーー

イベントが跳ねた後に、全参加者16名の半分強(知り合いや知り合いの知り合い)くらいから直接感想を伺った。
主体的にこの場を受けとめた人は面白がれた。
そうでない向きには、退屈だったとのこと。

それは場の最中から感じ取れた。この印象の大半は、「タブー持ち寄り会:政治」の時と同じ種類の、場の空気やアクションからもたらされたもの。一部の人間が、3人称で場の時間を埋め尽くすといったものだ。

イベントが終わってから、ぶんじ寮に帰って、鑑賞者としてお金を払って参加していた住人、参加していなかった住人、そしてひろっきーと26時頃まで話をしたーイベント終了後の帰り道を含めた楽しめた、イベント構成は再考の余地ありだね、打ち合わせが一番楽しかったな、自分がお客さんだったら金返せと思ったと思う、胡桃堂喫茶店の看板を背負っているのだからもっとやれることがあったし力不足だったのでは、等々ー

イベント渦中の私は、この場は教育の場でも学校でもないのだから、このような空気になったとしても、誰か特定の人間に介入しすぎることはしないことにする、と判断したようだ。1人称で発言し、そのために1人称で映像や場を感じることは、冒頭で既に説明を行ったためだろう。
とはいえ、それら説明が聞き入れられたようには感じられなかった。もちろん席の構成を講義形式にせずに円にするなどすれば違った空気になったかも知れない。けれどもどうしてそこまでする必要があるのだろうか。なぜといって、事前の告知でも明記したうえで、ついで当日の冒頭でも「1人称を大切にする」姿勢は伝えてあったのだから。
だからなのか、今タイピングしている私は、イベント参加以前にその人の感性や経験を構成する要素の前提として、1人称で何かを感じとること、そしてその感覚を複数人の居る場でアウトプットすることが、感覚的にわからないあるいは経験が無かったのではないか?という仮説に手をかけようとしている。

たとえ何十年連れ添ったパートナーでも、政治・経済的な事柄しか話したことがない、といったことは往々にしてある。
であれば、出会って1時間を共有しただけの他者たちとの間で、極個人的な事柄や感覚をその場に披瀝することへの身構えや自覚のない恐怖、といったものがあったとして不思議なことではない。
だが、ではいったい、その恐怖は何を守っている?
いったい、何から、何を守っているのだろうか?

私はこのような、私自身を渦中に生成されつつある場をつつがなく終えることには興味が持てない。
あえて乱そうとも思わなければ、何かを穏やかに包み隠すために、この一期一会を巻き込もうとは思えない。


映像を分析してみること。簡単なことだ。実際、あの場の多くを占めた発言は「分析」に属していた。
ところで、分析とは切断である。
映像が切断のメディアであることは間違いない。

もうあなたは想像できたろうか?
「映像」と「私」を切断するのみならず、同時に接続する手立てを。
それはその実、つつがない日々の生活のなかで無数に生起する微小な政治・経済的関係を構築する作法と連続していることを。
感情を観察することこそは、この作法を組み立て直すための鍵となる。
そう私は感じているようだ。

感情。
抱えきれない大きな快から、かすかな喜びまで。
回帰つつある痒みである悲しみから、黒の後悔まで。

一回性で不可逆であるほかないあなたの感情が、あらゆる政治・経済と親密な他者との間を架橋している。
涙は出ず、眉間に皺は寄らなくとも、
あなたがそこに目を向けず、耳を傾けなくとも、
感情は今この瞬間も生起しつつ消え去っている。
あなたとして。


memo:
私にとって「感じるところ」のあった当日上映映像に対する感想
ー身体的に映像を感知した、そこには身体の惹起する感情が伴っていた。
ー過去の記憶と結びついて観ていた、親密なあの人、この記憶と共に。

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