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第9回 地下世界へ潜るための心構え

これまで、地下性生物達の目くるめく世界を紹介してきたが、その世界を目の当たりにした者の中には「実際に洞窟に入って、そうした生き物の生きて動いているさまを見てみたい」と思う者も少なからず現れるであろう。
そうした人々のための心構え(というより、私個人が心掛けていること)を、幾つかここに挙げておきたい。正直なところ、心構えなど挙げればきりがないので、必要最低限のことだけ触れる。また、地下を掘削して生き物を探す「土木作業」の手法に関しては、これまで再三述べたのでここでは触れない。
まず(地面がガチガチにコンクリート舗装され、歩ける場所全てが白熱電球で煌々と照らされているような、完全に観光整備された場所は除くとして)、洞窟に入る前には万が一の事故に備えて、必ず保険に加入することが肝要である。
知らない人には盲点であろうことだが、我々が日常生活の中で加入するような普通の傷害保険は、ケイビングすなわち洞窟内での活動の結果起きる事故をカバーしてくれない場合がほとんどだ。そのような、一部の好き者以外立ち入らない特殊な環境に一般人がわざわざ踏み込み、その先で事故に遭うことを、普通の保険会社は想定していない。山岳等での事故をカバーしてくれる、いわゆる山岳保険という特別なものに入る必要がある。こうしたものの中には、ケイビング中での事故をカバーしてくれるものがあるため、加入の際にはカバーの範囲などの条件をよく確認したほうがよい。

ウデナガヒナマシラグモMasirana longipalpis。
南西諸島の洞窟に住む貧弱で繊細な体格のクモ。
色素も眼も退化傾向著しい。
こうした生物は、観光地化されていない自然の洞窟ならではのもの。

洞窟内は地上とはまったく異なる世界であるため、落盤、遭難といった我々の想定の枠外にあるような出来事が、いつどこで起きるかも予測できない。よって、そのような場所に自らの意思で足を踏み込む人間にとって、山岳保険に加入しておくのは当然ながら常識であり、また最低限のマナーでもある。また、運悪く遭難した時のために予備の懐中電灯、入る洞窟の規模によっては非常食を持つことも必要だし、自身が洞窟に入る際には「どこの洞窟にいつ入っていつ出て来る」といった情報をあらかじめ知人、最寄りの警察などに知らせることも大事だ。
私には、年下ながら心の中で洞窟探検、そして地下性昆虫採集の師と仰ぐ素晴らしい友人がいる。彼からは、地下世界での心得について本当に何から何まで教わった。洞窟内に設置されている昇降用の縄梯子は湿気で朽ちているから、絶対に信用して体重を預けてはならないとか。洞窟内の斜面では落石を落としてはならず、万一落としてしまったら下の者に全力で危険を知らせろとか。「土木作業」で山沢の崖に空けた穴は、綺麗に埋め戻した上に粘土を表面に覆っておけば、内部が乾燥しないので再び虫の住処となり、持続的に採集が可能となるとか・・・。
その彼から、事あるごとに再三口酸っぱく言われてきたのが、「後先のことを考えず、碌な装備もなしに洞窟に入る人間の事を、ケイパーの間ではスペランカー(無謀者)と呼び、特に忌み嫌う」という話である。
そのような輩による軽率な行動の結果、洞窟内で事故が起きれば、当然その救助やら事故処理やらで多大な人々に迷惑がかかるし、世間からの「洞窟に入る奴等は本当に迷惑な連中だな」の誹りは免れ得ず、結果ケイビングという素晴らしい趣味もといスポーツそのものへのイメージに泥を塗る結果になる。ついでに、事故の起きたその洞窟も危険防止のため立入禁止となってしまい、後世の人間達がその中で万の調査活動をする上で「永遠の枷」となるのだ。何一ついいことがない。洞窟に入る者すべてが、肝に銘じるべきことであろう。
他にもいろいろ書きたいことはあるが、全部書き並べていたらきりがなくなってしまう。なので、もしもこれを読んだあなたが、今入った洞窟の内から「生きて帰りたい」と、本当に心より思っているのであれば、この一つだけは覚えておいてほしい。すなわち、直感的にでも「このまま行くとやばいな」と感じた時、その直感はたぶん正しいので、従うほうがいいということである。

テングコウモリMurina hilgendorfi。
東北地方の山中の洞窟で、多数のキクガシラコウモリに紛れていた。
ここへ行くには道なき道をヤブ漕ぎせねばならず、
件の友人の助けなしには絶対に到達できなかった。

昔、先述の友人とともに、四国のとある洞窟に入った時のこと。そこの洞窟は入ってすぐに、ほぼ垂直に10mくらいストンと落ち込んだ構造となっており、万一落ちれば確実に瀕死の重傷を負う。私は当時その友人から、洞内の狭い隙間を挟まるようにして昇降する術を教えてもらっていた(尻と左右の足先の3点を使い、突っ張り棒のように隙間に留まるのだ)。案の定、彼はその術を使い、件の縦穴の脇にできた狭いクレヴァスからするすると降りて行って、あっという間に穴の底まで行ってしまった。私も理論上できたはずなのだが、彼のように首尾よく穴の底まで行けるか、仮に行けたとして今度はまたここまで登って来られるか、まったく自信がなかったので断念した。後で再び同じようにクレヴァスから這い戻ってきた友人から、「来なかったのは正解だ。己の力量を過信するのが一番危ない」と言われた。あの洞窟には、あれからかれこれ6年近く入りも、ましてや寄り付きも出来ていない状況が続いている。でも、いずれは再訪し、友人があの時見たであろう穴の底から洞窟の天井を見た景色を拝んでやりたいと思っている。
なお、重ねて書くが本稿では洞窟に入る際の心構えなどと銘打ちながら、「洞窟の壁面に落書きをしてはならない」とか「鍾乳石は折らない、持ち帰らない、近隣の土産物屋に売っていても買わない」のようなことは書かなかった。なぜなら、それは書くまでもないことだからである。

第10回へ続く。

Author Profile
小松 貴(こまつ・たかし)
昆虫学者。1982年生まれ。専門は好蟻性昆虫。信州大学大学院総合工学系研究科山岳地域環境科学専攻・博士課程修了。博士(理学)。2016年より九州大学熱帯農学研究センターにて日本学術振興会特別研究員PD。2017年より国立科学博物館にて協力研究員を経て、現在在野。著作に『裏山の奇人―野にたゆたう博物学」(東海大学出版部)、『虫のすみか―生きざまは巣にあらわれる』(ベレ出版)ほか多数。

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