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同期と禅寺と


岐阜県美濃加茂市に正眼寺と言う禅寺がある。巨人軍の名将、川上哲治が、座禅などの実践を通して禅の心を学び、いざというときの「平常心」や「不動心」を身につけた寺である。

さて、縁もゆかりもない私がこんな寺で二泊3日の座禅修行をしたか言うと、会社の新人教育の一環だったからだ。

禅寺は、お経を早朝4時から唱え、説法や説教があり、朝食となる。朝食は、一汁一菜の本格的なものだった。三食、そんなものだった。
「こんなもの食えねえよ」
森本が小声で言った。
みんな、納得していた。
麦飯に、漬け物、味噌汁だけだ。朝食が終わると、庭掃除が待っている。
「寿司食おうぜ」
「豚カツ食いてえ」
「ステーキ食いてえ」
と次から次へと食べ物話ばかりで盛り上がった。

後々、この研修会が、全員の距離を縮まるために役立っていく。苦難を共にすると言う事で、連帯感や役割がはっきりする。


今の余裕のない新入社員教育では、夢のような話だ。

真間は、子供服の経営者になり、森本は、縫製工場の役員からペットのトリマーのチェーン店の社長になった。

我々は、入社してしばらくして、別々の事業部に配属された。婦人服や子供服、ティーンズ部門、メンズ服などそれぞれ分かれて営業部に配属された。当時は、全員が企画デザインの仕事を希望していた。会社は東京支店になる。本社は、名古屋だった。

こともあろうに、二年目で私が企画デザインに配属された。いつもノートに絵やイラスト、文を書いていた。会社批判だったり、世の中全般の話、トレンドだったり多岐にわたって書き殴っていた。


企画部の長に認められ、配属されてみると、椅子にドーンと座ったお局様がいた。

怖く仕方ない。お局の側近が2、3人いたので、口が聞けない。男社会と違いすぎる。部の直属の上司に慶應大学を幼稚舎から通っていた吉田がいた。酒が好きで、毎晩、若手を連れて下位者の近くの居酒屋に行く。割り勘だったが、男だけなので、楽しい。それが無ければ、辞めてたと思う。

太田黒、松本という先輩も吉田のライバルでよく飲んだ。酒に弱いので、吉田の実家が目黒にあったので、泊まらせて貰ったこともあった。そうして、可愛がられた。吉田が「俺は独立する」と突然言い出した。

ついてゆく決心をした。


当時は、アパレルブームで、独立が大流行していた。第一次アパレル独立戦争だ。

「お前は、妻も子供もいる。大きくなったら、呼ぶから、未だ待て」と言われ、荻野と新里を連れて、独立した。28歳で私には、妻と二人の子供がいた。

そうこうしているうち、お局様たちが全員辞めた。私の天下になった。上には、男で小林課長がいたが、別な部なので、全く気にもせず働いた。

毎晩のようにデザイナーの寺坪と仕事終わりに、工場さんに行った。勉強と進行状況を見るためだ。デザイナーの家が工場の近くにあったので、それが功を奏した。


遂に、努力の甲斐あって、ヒット商品が生まれた。クマのようなアップリケのトレーナーが、とてつもなく売れた。十万枚売ると繁華街で3、4人見かけると言われた。そのとおりだった。当然、コピー商品が出回るので、十倍くらいになる。

お金より実績と人は言う。その通りで、社員がいっぱいボーナスを貰えば嬉しかった。金に癒着しない。その後も、三年に一回くらいメガヒットを飛ばした。その時、また独立をすると言う上司の坂間から誘いがあった。結局、この誘いも断り、自分で企画会社を設立した。

それぞれが独立して、社会に旅立った。同期と言う絆は、続く。


「俺、会社を売ったんだ」とダンディな真間から電話があった。
「なんか急に、同期に会いたくなった」と渋い声で語りかけてきた。
「管理の林や経理の佐藤、どうしてる」と唐突に聞かれてもわからなかった。私も会いたい。
苑子や綾子などと、懐かしい名前が上がった。

同期と言うだけで、連帯感がある。そう言えば、林の結婚式に富山までみんなで行った。どうしているのだろうか。連絡がつかないもどかしさ。SNSなどやっているタイプじゃない。

そんな事を考えながら時間ばかりが過ぎていく。
同期は遠くなりにけり。

本当にそうだ。思い出も同期も霞んでくる。来年は喜寿だ。とうぜんか。


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