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さよなら梅子先生



最も大切な部分を要(かなめ)と言う。腰は、人体の要だ。そこを悪くすると歩けなくなる。そう、椎間板ヘルニアの手術をするために安田章は、堀越整形外科に入院した。

美人で明るい梅子先生が手術を行った。椎間板の中身である髄核が後ろに出て、神経を圧迫するのが腰椎椎間板ヘルニア。神経が圧迫されると炎症が起きて、痛みやしびれ、麻痺などの症状が起きるので、耐えきれない痛みを生ずる。

温厚でいつも笑顔の堀越正蔵医院長の娘が梅子である。まだ、三十代半ばの働き盛りの医師だ。
「先生、失敗したら、車椅子の生活ですよね」と安田は、本音で聞いた。
「まぁね。そんなこと無いから、大丈夫」

手術前にCT検査、MRI検査などで用いられる造影剤を静脈に注射し、カテーテルを用いて直接血管内に注入する検査がある。これが結構痛い。
「先生、痛いんですけど。」
「大丈夫、大丈夫、すぐ終わるから」
人は、信ずることしか出来ない状況でも、痛いと声を上げる。本番の手術は、もっと痛い筈だ。

手術当日、妻や子供が病室に来て、ストレッチーで運ばれる安田を見送った。身体のありとあらゆる毛を剃られ、手術着を着ているが丸裸にされた姿を想像するだけで、笑ってしまった。全身麻酔がマスクから肺に入っていく。

気がついた時は、ベツトの上だった。家族の安心した顔が手術の成功を物語っていた。手足が動くことを確認して、多少の手術の痛みを感じながら、無事を喜んだ。

「これが、ヘルニアの骨」と梅子先生がホルマリンにつけた骨を嬉しそうに持ってきた。
記念に持って帰る人も多いらしいが、安田は、丁重に廃棄してくれと頼んだ。

「これから二、三日後からリハビリだって、頑張ってね」と妻に言われ、後一週間で退院するまで、訓練が始まると決意した。

毎日、暇を持て余す。持ってきたパソコンもやり過ぎると疲れる。読書が、一番暇つぶしになる。図書館で借りて来て貰った『三国志』や『徳川家康』など歴史書は、病気生活に欠かさない。すっかり内容は忘れてしまうが、それがむしろ心地よい。後を引きずらない読み物が病院生活に都合がいい。

お風呂も介助が必要だ。「お風呂、お願いします」とインターフォンで看護婦を呼ぶ。
看護サポートの女性が、お風呂に連れてってくれる。
まだ1人では、どうにもならないので、身体全体を洗ってくれる。安田も多少の戸惑いはあったが、体が不自由なので、お願いした。
「すみませんね。」
当然、チンチンも石鹸で綺麗に洗う。不思議なもので、変な気分にならない。サポート女性は、ちょっと小太りのおばちゃんだからかもしれないと変に納得した。

若い看護婦なら、もっともっと自制するはずだと思った。

退院当日、支払いやら、クスリやらでパニックになる。入退院に慣れているスタッフだから、感動も何も無い。事務的な作業をしてスムーズに遂行している。患者としては、退院は、最高に嬉しいと共に手術の前後三週間くらい寝起きしていたので、別れの辛さもある。

淡々と終わる事が、二度と病気をしない決意になる。全てを捨てて、行くのが病院。

振り返ってはならない。自由を勝ち得たと思う。病気にあかんべえして去る。それが礼儀だと。ありがとう。さよなら梅子先生。

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