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昭和の頃の豊かさ 人間らしさの希求

謙也は、昨夜食べたキャベツと豚バラの煮物の煮汁を取っておいて貰っていた。今朝、その煮汁とご飯だけでメシを食った。昔から、母親が、魚の煮汁で煮物を作ったりした。死ぬほど嫌で仕方なかった。煮汁と塩辛が、本当に嫌だった。今になると食べられるのは、酒を飲めるようになったためだと確信している。

塩辛や魚は、小田原の婆さんが行商で回って来ていた。殆どが、米と物々交換の時代だ。母親は、重たかろうと塩辛の入った樽と米と交換していた。だから、食べ切れないほど、塩辛があった。物々交換は、現金収入の無い時代は重宝した。また、見直されているのも分かる。それよりも、婆さんは、米を持って帰るのだから、また荷物になってしまった。そんな長閑で平和な時代が昭和であった。

謙也の周りには、色々な人たちがいた。親戚の家の真前に小川が流れていた。そこに天然貝のしじみが山ほど採れた。親戚は、それを売って生活していた。今では信じられないが、そんなことで質素だが生活ができた。「昔の生活も捨てたもんじゃないよ」と妻の優子に話したら、「私、見たことがない」と驚きの表情だった。

昔は、酒蔵があって、そこで酒壺を持って酒を量り売りしていた。小学生の頃、たった一度だけ買いに行かされた。およそ三キロくらいの道を重い酒壺を持って帰るのは、謙也には難儀だったはずだ。今でこそ、一升瓶でも紙パックでも軽量に作られているので、子供でも持てるかもしれない。「リユースという意味では、量り売りという方法も復活させてもいいと思う」と謙也は思った。

謙也の家では、味噌、醤油を家で作っていた。醤油は、専門の職人が家にやって来て、大豆、小麦、塩を使って、麹菌で繁殖させて酵素を生み出させ、もろみを作る。
それを布で醤油と絞り粕に分離させる。絞った醤油に熱を加える。この行程を見ながら、この時の香りが独特で脳裏から離れない謙也であった。

味噌は、醤油と同じく大豆、麹、塩で作っていた。大きな樽に保存していた。寒仕込みと言われる1月から2月に仕込んでいた。雑菌が繁殖しにくい時期を狙った生活の知恵だ。今は、手作りの味噌、醤油がブームだが、謙也は家で作っていた経験があるので大変さも分かるので、あまり興味がない。

「確かに、防腐剤もない健康的なものを作れるし、美味しいものが作れそうだけど、大変だ」と謙也は家族に打ち分けた。自分で自分を褒めることを「手前味噌」という。かつて味噌は自家製で、自分が造った味噌を互いに自慢し合ったことからできた言葉らしい。

自分で自分を褒めるという事が苦手な日本人にとって、味噌だけは特別だったのかもしれない。たまには、「自分へのご褒美」と若い女性が高価なものを自分のために買う。「それもいいな」と思う。

昔は、生活改善のために生活改良普及員が担当していた。その中で台所改善、農繁期の食改善など事細かく指導していた。特に、塩分接収の多さが問題になり、醤油、味噌を含めた食生活の改善指導が行われた。農村での生活での日々のメニューまで言及したほどだった。

そんな時代があった事さえ忘れている謙也だが、そのおかげで、栄養失調にもならずに生きてきている。「今の若者たちは、生活改善普及員もいない。誰の指導もなく、栄養失調のような一人で自炊したり、コンビニメニューで生活している。もっと貧困で悲惨な生活像が見えてしまう。」と謙也は嘆く。

川のしじみのような目の前にあるタダ同然の資産もない状態だ。昭和が全てではないが、少なくとも、何もなくても生きていけた時代ではなくなってしまった。所有意識が強くなれば、誰かが独り占めする。シェアという意識も金があればの話だ。いづれ、国家もなく、地域通貨やベーシックインカムが始まるしか無くなりそうだ。そうなれば、若者たちも生きていける。富の再分配を含め貧富の差がなくなれば、きっと人類は生き延びる。「科学技術の進歩が豊かな生活と比例しない」と思っている謙也であった。


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コミックの小説家でデビューしました。笑いをお届けしたいと思います。ペンネームは文豪乃冬目創玄てす。 こちらにも https://note.com/bungo_3/