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九官鳥

 二年ぶりに、蒲郡市にも雪らしい雪が一晩降った夜、キュウちゃんはわたしの腕の中で眠るように死んだ。老衰だった。
 ちょっと前から元気がなかった。あんまりおしゃべりもしなくなったし、前みたいに一日中止まり木の上でぴょんぴょん飛び回ることもしなくなった。朝、カゴに被せておいた布をとっても、うずくまったまま首をすくめてじっとしている。おかしいなと思ってずっと心配だった。その夜は、日が沈むとすぐに重たい雪が暗い空から落ちてきて、築二十年の安アパートの玄関や廊下は壁や床が凍っているかのように冷たくなった。キュウちゃんは南の国の鳥だ。寒いのは嫌いに決まってる。わたしは小さなブランケットでキュウちゃんをくるみ、しっかり抱きしめて居間のソファーに座っていた。キュウちゃんが寒くならないように、温めてあげたかった。
 居間ではお父さんがテレビのバラエティ番組を見ている。芸人が何かを話すたびに姿の見えない観客たちの笑い声が響く。雪の降る土曜日の晩、多くの人たちは家に閉じこもってテレビを見ながら笑っているのだ。キュウちゃんが死んでしまうかもしれないのに。キュウちゃんとわたしだけが世界に取り残されてしまったような、心細い気持ちになる。
「ラリラリラッ……キッショ」
 おくるみの赤ちゃんみたいにブランケットから首だけ出したキュウちゃんが、消え入るような声で鳴く。キュウちゃんはラリラリラーって言うのが好きだ。「オハヨウ」や「オカエリ」も教えたけどあんまり言わない。キュウちゃんはあんまり賢くない。小さく瞬きをしたクリクリの丸い眼がいつもより湿っている。オレンジ色の嘴はなんだかしなびてきたようだ。ほっぺたの黄色い肉垂れもくすんで見える。人差し指の先で肉垂れをそっとなぜた。キュウちゃんが首を少し傾ける。艶のある黒い羽が蛍光灯の光を受けて、青や緑の光沢を放つ。
「バーカッバカッキィーッショ! モーウッイヤッ!」
 それがキュウちゃんの最後のおしゃべり。そうしてゆっくりと目を閉じて、それから動かなくなった。最後まで意味の通るようなお話はできなかった。
「キュウちゃん、お、は、よ、う、キュウちゃん、キュウちゃん! お、は、よ、う! 」
 溢れてきた涙は、止められそうになかった。滲んでいく視界の中で、キュウちゃんは静かに眠っている。何度呼びかけても目を覚まさなかった。わたしはわんわん泣いた。
「シンガポール四日間三万九千八百円! フィリピン、セブ島三日間三万七千六百円! HISのウィンターセール!」
 テレビには青い海とヤシの木が映っていた。お父さんは床に寝そべったまま顔をこちらに向け「死んだのか」と聞いた。わたしは何も答えられない。CMが終わるとまたバラエティが始まる。
「明日、埋めてあげよう。それまで部屋においとけ」
 お父さんはまたテレビの方を向いたままこちらを見なくなる。わたしのしゃくり上げる音と、姿の無い笑い声だけが、雪の夜に冷やされていった。
 次の日、わたしはキュウちゃんをブランケットに包んだまま小さなダンボールの箱に入れ、自転車のカゴに乗せた。百均で買ったスコップ。近所でもらった黄色いラッパスイセン。それらをビニール袋に入れ、ハンドルに掛ける。お父さんはその辺の土手にでも埋めたらいいと言う。だけどわたしはどうしても海の近くに、お墓を作ってあげったかった。九官鳥は南の国の暖かい森に住む鳥だ。こんな寒い国に連れてこられ、雪の降る夜、寒さに震えて死んでしまった。静かな浜辺に埋めてあげよう。そうしたらキュウちゃんの魂は波に運ばれて遠い南の海まで運ばれていくかもしれないから。わたしは自転車を漕いで、海を目指した。うちから海岸まではそんなに遠くはない。
 今朝は雲ひとつ無い見事な快晴で、空は冗談みたいに真っ青だ。なんだか天気にバカにされているような気さえする。昨夜の雪は道端の草の上にまだ少し残っている。アスファルトの上に降ったものはもうすでに消えてしまっていた。わたしはキュウちゃんと一緒に鄙びた街並みの中を駆け抜ける。海へ向かって。目に映る全ての景色は昨日までと何も変わらなかった。郵便ポストは赤いまま。ミニストップは二十四時間開いていて、太陽は東から昇り、空は青い。海岸通りの商店街は何年もシャッターを下ろしたままの店ばかり。わたしのなくしたものがどんなに大切なものであっても、世界は同じ姿のまま続いていくのだ。わたしはなんとなく不思議に感じた。
 海の見えるところまでやってきて、適当な場所を探しながらしばらく海岸線を走る。綺麗な場所でなくてはいけないし、あまり人通りが多くてもいけない。大塚の方から三谷温泉の方向へしばらく進むと、ヨットハーバーの近くに丁度いい砂浜を見つけた。そんなに広くなく狭くも無い。海水浴場でもない。遊歩道が近くにあったが、砂浜には人の姿は一つもなかった。遠くに大きなクレーン船が見えた。その向こうには渥美半島の白い風力発電機が等間隔に並んでゆっくりと回っている。今日は風が弱く、三河湾は大きな水たまりのように静かだった。
 道路脇に自転車を停め、ガードレールの切れ目から、コンクリートの狭い階段を降りていく。階段を降りたところに枯れかけた浜木綿が二、三株並んでいた。突堤の側の砂の湿ったところに場所を定めて、穴をほった。砂は思ったより重く、腕が痛くなる。波の音が繰り返し響いている。キュウちゃんは箱の中で昨日と同じ静かな表情で眠っていた。穴が十分に大きくなるにつれ、目から涙が溢れて来た。冬の海風に頬を洗われ、涙のあとが冷たくヒリヒリした。
 スイセンと一緒にキュウちゃんを穴の中に収め、猫やカラスに食べられてしまわないように、砂を固く叩いて埋めた。サヨナラ、キュウちゃん。世界で一番素敵な九官鳥。わたしの大切な友達。ずっと我慢してたけど、とうとう我慢できなくなって、声をあげて泣いちゃった。どうせ周りには誰もいない。堤防に反響した自分の嗚咽を聞くと、こぼれ落ちる涙ははらはらとその勢いを増していく。穏やかな波は静かに砂を撫でている。きっとキュウちゃんの心を太平洋まで運んで行ってくれるだろう。柔らかな潮の音がわたしの肌から染み込んでいく。
 わたしにはまだ行かなくちゃいけないところがある。スタンドを蹴って自転車にまたがり、海岸通りをうちの方へ向かって走り出した。わたしは明美さんに伝えなくてはならない。キュウちゃんが死んでしまったことを。

 一旦家で砂のついた服を着替えて、三河三谷から豊橋行きの電車に乗る。電車を降りて西駅の方からしばらく歩くと明美さんの住んでいる社員寮がある。エレベーターがなく階段を使って四階まで上がらなくてはいけないから、二階の受付兼事務所になっている部屋の前を通る時、通せんぼしている赤い手の平の間に〈18〉と書かれたマークがどうしても目に入ってしまい、今でも恥ずかしい気持ちになる。その意味がわかるようになったばかりの頃は本当に嫌だった。三階からは店の人たちの寮になっている。チャイムを押すと上下灰色のスウェットで眉毛のない顔の明美さんが出てきた。昼間の明美さんはお祭りに出てくるおじいさんのお面に似ている。
「また、悪ガキが冷やかしに来たなあ?」
「入ってもいい?」
「いいよ。今散らかってるけどね」
 いつものことでしょ? そう思って入ってみると、予想以上にぐちゃぐちゃだった。散らかっているというよりは、大掃除の最中のようだった。
「あのさ、言ってなかったんだけど、引っ越すことになったんだ。それで今、荷物片付けてんの。まさに足の踏み場もないって感じだな。その辺どけて座ってよ」
「よかったのこんな時に」
 明美さんは別に構わないという感じだ。空っぽのダンボール箱にあたりのものを手当たり次第文字通りに「投げ込んで」いく。わたしも新しい箱を組み立てて、ちょっと手伝うことにした。
「キュウちゃんがね、昨日死んじゃった」
 物を投げる手が一瞬止まり、お面のような顔がわたしを見ている。
「そっか。まあ、歳だよな。鳥にしたらさ」
 かなしい? 明美さんはわたしの前にしゃがんで覗き込みながら聞く。うん、とても。昨日はずっと泣いた。今朝も泣いた。明美さんは、わたしのおでこの右ところにある小さな傷をそっと指で撫でる。
「ごめんね、死なせちゃった、また会いたかったでしょう?」
 自分の言葉に興奮して、またちょっと泣きそうになる。
「結衣のせいじゃないじゃん? 寿命だよ。大事にしてもらってキュウも幸せもんだったよ」
「明美さん、お店やめるの」
「四日市帰る。もう三十七だし、病気もらったりするとこたえるから」
 明美さんは、また乱暴な荷造りを始める。わたしも少しずつ、近くのものをできるだけ丁寧に箱につめた。ゴムチューブの健康器具、ヒョウ柄の入ったジャージ、ヘアアイロン、ソーラー電池で動く首ふり人形。日常の断片を一つずつ手にとって、彼女の毎日がどんなだったか、わたしは今まで考えたこともなかったと気づいた。
 夜ご飯には宅配ピザを取ることにした。わたしは昨日からろくに食事をとってなかったから、お腹がペコペコだった。明美さんと話をしているうちに、なんだかお腹も空いてきて、一緒にピザを食べているうちに、気持ちも少し落ち着いた。
「お父さんは元気?」
「あいかわらず。おじさんは?」
「店長だいぶ口うるさくなったね。歳なんだろうね。まあ元気なんだけどさ。あんまガミガミ言うと若い娘居着かないじゃん? おばちゃんばっかでお茶挽いてんの」
 明美さんはわたしの伯父の店で働いている。二階の事務所がそれだ。キュウちゃんは昔そこに居た。うちの伯母も若い頃は明美さんと同じようにこの店で働いていたんだけど、それがわたしの物心つく頃にはおかみさんに収まっていた。ふたりは本当の夫婦ではない。父と伯母はとても仲がよかった。お母さんがまだうちにいた頃は、夫婦喧嘩の加勢に伯母さんが現れたくらいだ。キュウちゃんのおしゃべりの大半はその頃に覚えたものだ。
「キュウはなんかまともなこと喋れるようになったの?」
 ぜんぜん。わたしは頑張ったけど、新しい芸を覚えるつもりがなかったのだろう。最期の時も意味のわからないことを言っていた。バーカッバカッキィーッショ! モーウッイヤッ! 昨夜のことが思い出に変わりつつある。
「口が悪いからね。あんまりうるさいから、店長、結衣のお父さんにあげちゃったんだよ。なにせあたしらの言葉が汚いから」
 ある日酔っ払った父が大きな鳥かごを下げて帰ってきた。おい、見ろ、九官鳥だぞって。ベロベロで酒臭かった。お母さんはすごく嫌な顔した。おじさんのところから貰ってきたと知ってもっと嫌な顔をしたのを今でも覚えている。キュウちゃんの羽は真っ黒だけど、向きによって青っぽく見えたり、緑やピンクがかって見えたり、複雑な光り方をした。その日の夜もふたりは喧嘩をしていた。お母さんは泣きながら怒っていた。ラリラリラー。小さいわたしは一緒にラリラリラーって言った。今思えばあべこべだ。それでもわたしはひと目でキュウちゃんに夢中になってしまったのだ。
「ねえ、友達と喧嘩した時の話してよ」
 面白そうに、明美さんが言う。もう泣かないでよ? お面みたいな顔をしてるときの方が笑うと優しく見える。たぶんもう泣かない。キュウちゃんのせいで一度友達とギクシャクしたことがある。それはあんまり楽しい話じゃない。
 小学校六年生の時、仲の良かった友達二人が、うちに遊びにきてくれた。ムラちゃんと美咲だ。キュウちゃんの話をしたら、見に来たいと言ってくれたのだった。うちは狭かったし、ゲームもないし、そういうことは珍しかった。わたしはとてもはしゃいでいたような気がする。ふたりとも九官鳥がやはり珍しいらしく、覗き込んだり、話しかけたりしていて、わたしたち三人はしばらく楽しい時間を過ごしていた。
「結衣、どのくらいお話しできるの? キュウーちゃん!」
美咲は何か喋らせたくて仕方ないみたいだった。ケージに顔を近づけて必死に話しかける。
「キューチャッ、キュウチャン!」
「あ、キュウちゃんって言った! 偉いね、キュウちゃん、こ、ん、に、ち、は」
 そこからがいけなかった。キュウちゃんは首をひねりながら、しげしげと美咲の顔を覗き込むようにしてし黙っている。その仕草がどこか人間っぽくて、可笑しくもあり、可愛くもあった。そうしてしすこしの間、美咲と目を合わせていた。
「……キィーッショッ!」
九官鳥の鳴き真似は、インコみたいに舌を使わずに、喉から声を出す。本物の人間に近い声が出てしまう。ムラちゃんとわたしは咄嗟のことで思わず吹き出してしまった。いけないと思ったけど、ムラちゃんも笑ってるし、一度声が出ちゃうと、我慢できなかった。だんだん空気が凍りついていった。
「え、何? 今のそんなに面白かった? なんでこんな言葉鳥が喋るの?」
「ごめん、わたしが教えたわけじゃないし」
 美咲は背の高い女の子だったけど、ちょっと幅もあった。目が細くつり上がっていて、鼻の頭が気持ち上を向き過ぎている。いつも声が大きかった。今だからわかることだけど、確かに仲はよかったが、ムラちゃんとわたしは心のどこかで美咲よりは自分の方がかわいいと思っていたんだ。あの時の気まずさにはそういう関係の子どもなりの自覚が含まれていた。美咲の目にはだんだん涙が浮かんできた。
「意味わかんない。わたしもう帰る!」
 それから、仲直りはしたけど、だんだん疎遠になって三人で遊ぶということも、学校の友達がうちに遊びに来ることもなくなった。

「もう少し優しくできたんじゃないかなって、今でも思ってるんだよ」
「もうキュウ! それはいかんって。面白いわあ。無駄に賢かったからなあ、災難だね、ひひはっ」
 明美さんはこの話が好きだ。それにしても笑いすぎだ。美咲の気持ちを考えたら笑い事じゃないんだ。でも、あの時はどうしたら良かったのか、わからなかった。今でも、わたしが悪いのかと疑問に思うところもある。
「でも、結衣のせいじゃないでしょ」
 明美さんにそう言われると少し楽になる。なっていいのかわからないが。
 帰りは、明美さんの勧めでおじさんに送ってもらうことになった。事務所へ呼びに行く時、あのドアをくぐらなければならないのが、やはり恥ずかしかった。ウッド系の芳香剤に混じって、タバコの臭いと苦味のある饐えたような臭いが鼻をつく。全身の筋肉が強張って、背中と腕に鳥肌がたった。明美さんの後ろへついて奥へ入ると、おじさんがひとりでテレビを見ながらタバコを吸っていた。おじさんは丸刈りのごま塩頭を一度なで上げると、愛想よく微笑んだ。
 店の送迎用の黒いワゴンで家まで送ってもらう。お父さんは元気かと聞かれて、相変わらずですとだけ答える。車内は店の中よりもタバコ臭かったが、さっきと違ってそれほど不快でもなかった。事務所にいる時はまるで大勢の人にジロジロ見られてるような嫌な感じがした。
「アキナちゃん、やめちゃうんだよねえ。聞いた?」
「はい」
「うちも困るんだけどねえ、あのコ仕事良かったから。結衣ちゃんもさみしくなるね」
 おじさんが源氏名で呼ぶのを聞くと、どうしても明美さんが遠くに感じられる。これからほんとうに遠くなってしまうのだ。さっきまで一緒にいた時は、なんとも思わなかったけど、急に心細く感じられる。窓から見える夜の空は繁華街のネオンを吸い上げて目まぐるしく色を変えている。放水路の橋を渡ると湾が見えてきた。二十三号線は思ったより空いていて、三十分もしないで家に着く。わたしは少しうとうとしていた。わたしが帰るなり、お父さんはおじさんを捕まえると同じ車に乗り込んで豊橋へ繰り出して行った。
「結衣、今度な、お母さんが会いに来るってさ」
 次の日の朝早くに帰ってきたお父さんはわたしに向かってそう言った。わたしはベランダで洗濯物を干しているところだった。二月の朝の濡れた洗濯物が指先のささくれに冷たくしみた。ビッグニュースだったけど、嬉しさのようなものが湧いてこない。気まずささえも感じなかった。適当な返事も浮かんで来なかった。
「ふうん、そうなんだ」
「ふうん、ね。そうですか。ふうん」
 お父さんはなんだかニタニタ笑っている。気味が悪くて頭にきた。クラクラして干し終わった衣類を全部ひっくり返してやりたくなる。やらないけど。思えばお母さんが出ていったのはキュウちゃんがうちにやってきてから、一年とちょっとが過ぎた頃だったから、あれから六年近く経っていた。
 毎日のように喧嘩を見ていたし、お母さんの家出も珍しいことじゃなかった。五年生の秋だった。いつもの家出だろうと思って、わたしはお母さんが帰ってくるのを待っていた。二三日しても戻らず。一週間しても帰って来なかった。連絡もなくどこへ行ってしまったのかもわからない。おばさんは前よりもかいがいしく世話を焼きに来た。お父さんは何も話してくれなかった。怒鳴り声のない暮らし、お母さんのいない毎日に少しずつ慣れていって、冬になった。

 水曜日。わたしは明美さんにお別れをした。豊橋まで行こうと思っていたけど、今度は明美さんがこっちへ来てくれた。それで、ふたりでキュウちゃんのお墓参りをすることにした。風が強くて、耳と鼻が痛いくらいだ。沖ではウサギみたいな白波がたくさん跳ねている。遠くの風車はあの日よりもずっと速く回っている。
 何で海に埋めたのかと聞かれて、キュウちゃんが南の国へ帰れるようにと答えたら、笑われた。そういうところがわたしらしいと、明美さんに言われて、少し恥ずかしかった。ちょっとメルヘンチックすぎるかもしれない。でも、家族だったんだ。キュウちゃんはわたしの一部だった。テキトーにできるはずはなかった。キュウちゃんのお墓が海にあるということが、いつかわたしとキュウちゃんの過ごした時間の意味を教えてくれるはずだ。
「この辺りなんだけどな」
 石がない。あんまり大きいのが見つからなかったから、わたしはあの時げんこつよりひとまわりほど大きいくらいの石を目印に置いたのだった。でも、流されてしまった。
「あ、あれだ、あの石。上に乗っけておいたんだけど、でもあそこじゃない多分この辺」
「満潮になればこんくらいまで、上がってくるからね。流れたんでしょ。まあいいさ、だいたいで」
 明美さんはニヤッと笑って、買い物袋みたいなでっかい黒のバッグからピンク色のビニールでできた袋を取り出した。うちと同じやつだ。おもてにはキュウちゃんにそっくりの九官鳥の写真がついている。明美さんは袋を開けると、突堤に沿って歩きながら中身の餌を撒き出した。湿った砂地の上に緑色の粉が降り注ぐ。
「キュウ! ご飯だぞ。いっぱい食べろ。たくさんあるから」
 残してもしょうがないしねって明美さんは笑い、わたしも笑った。わたしに向かって袋を突き出す。手をつっこんで両手いっぱいに握り込んだ。斜め上に向かって撒き散らすと生臭いにおいに混じって、果物のようないい香りがする。これをお湯で溶いて一日二回あげるのが七年近く続いたわたしの日課だった。キュウちゃんは、空の器を出す時はおとなしいのに、ご飯を入れて持ってくると興奮してバタバタするんだ。カゴに手を入れると待ちきれなくて、わたしの手をいっぱいつつく。それはすごく痛い。血が出ることもあったし、いつも小さな傷がなくならなかった。思い出せば寂しくなる。
「明日の今頃はトラックの助手席さ」
 私たちは浜辺を歩きながら、話をした。髪とほっぺたが潮風に当たってベタベタしてくる。指先からは餌のにおいがした。
「遠くなるね。もう会えないかも」
「そんなに遠くじゃないでしょ。お隣の県なんだから。結衣の家からわたしのうちまで二時間もかからないよ」
「ほんと?」
「またいつでも家出してこいよっ」
 わたしのほっぺたをつまみながら明美さんは優しく微笑んだ。顔を見る。今日の明美さんには眉毛がある。唇も赤い。あのお面みたいな顔がどうしたらこうなるのか不思議だった。お化粧の仕方を教えて貰えばよかったと後悔した。
 キュウちゃんがうちにやって来てから、明美さんは時々キュウちゃんに会いに来た。お母さんや近所の女の人とはなんとなく違う、造花のような派手な印象が初めは怖かった。明美さんが来ると、キュウちゃんは喜んだ。いつもより激しくぴょんぴょんして、わめき散らした。「トリアタマ」って言葉はウソ。キュウちゃんは大好きな人の顔をずっと覚えていた。キュウちゃんのそんな姿を見ているうちにわたしも少しずつ心を開いていった。
 お母さんがいなくなり、しばらくが経った十一歳のクリスマス。工場から帰って来たお父さんにお母さんの消息について聞いて見たことがあった。仕事から帰って来ると、サントリーウイスキーの水割りを自分で作って、ベビーチーズをつまみにいっぱいやるのがお父さんの習慣で、その時もキッチンで氷を用意しているところだった。
「ねえ、お母さん。もう戻って来ないの。離婚?」
 お父さんは、冷蔵庫をのぞいて、チーズが切れていることに気付き、小さく舌打ちをした。そしてわたしの方を睨んだ。気にしなくていい。お前が口を出すようなことじゃないと言われた。
「でも、もう二ヶ月になるよ」
 お父さんは持っていた製氷機のトレーをわたしに向かって投げつけた。氷の入ったトレーの角でわたしは頭をぶつけて、泣いた。この日わたしは生まれて初めての家出をする。行き先は明美さんの部屋だった。明美さんは傷の手当(とても雑だったけど)をしてくれて、ファミリーマートで値下げされたクリスマスケーキを買ってくれた。服の脱ぎ散らかしてある小さな部屋で、一緒にケーキを食べたときのことを今でもよく覚えている。
 次の日明美さんはわたしを家まで送ってくれた。うちに戻ったお父さんに明美さんはシンクに溜まっていた洗い物を片っ端から投げてぶつけた。怒っている明美さんを見ているうちに、わたしの中にあったかなしみが怒りに変わっていった。お父さんはただヘラヘラするだけで、それから今日までヘラヘラ顔が取れなくなってしまった。
「暗くならないうちに帰ろうか」
 元気でね。明美さんはわたしのほっぺたを両手で挟むと、おでこにおでこをひっつける。顔に触れた手は氷のように冷たく、ファンデーションの匂いが鼻をくすぐった。耳の奥で、血が駆けめぐる音がする。それはだんだん、穏やかな波の音とひとつになっていく。ふたりの髪が潮風に濡れながら、浜辺に揺れた。

 キュウちゃんがいなくなって二週間。靴箱の前には綺麗に洗った鳥カゴがそのままになっていた。さみしさに慣れて、さみしいということさえ忘れていく。わたしはひどく疲れていた。体が重く、家事をするのも面倒で、九時過ぎにはフトンに潜ってしまう。あの夜から雪は一度も降らず、季節は少しずつ暖かくなっていった。
 買い物から帰ってくるとアパートの前に見慣れない車が止まっていた。結構古そうな銀色のプリウスだった。駐輪場で自転車に鍵をかけようとしたとき、背後から男の声がわたしを呼んだ。
「結衣ちゃんかな?」
 紺のチェックのブレザーに白いボタンダウンのシャツで、ベージュのチノパンを履いた男の人がわたしの後ろに立っていた。髪には白いものが混じってはいたが、綺麗に整えられている。見覚えのない中年男性に名前を呼ばれて、体は自然にこわばった。彼は明るく清潔な感じの微笑みを浮かべている。
「僕はね、ワタナベと言うんだけど、今日はお母さんと一緒にね、結衣ちゃんに会いに来たんだよ。突然話し掛けてごめんね。びっくりしたよね」
 ワタナベさんはお母さんの再婚相手だった。わたしはお母さんが結婚していたことを今まで知らなかったから、この前お父さんに「お母さんが会いにくる」と言われたときてっきり母がひとりでくるものだとばかり思っていた。
「あの、えっと上がりますか? お母さんは?」
「いや、お母さんはね、上で君のお父さんと話をしてるから。ちょっとふたりで話した方がいいみたいだったからね。僕はここで待ってるんだよ。結衣ちゃん、上にいってお母さんに会って来たら? 荷物もあるみたいだし」
 自転車のカゴには生ものも入っている。冷蔵庫にしまわなければならなかったけど、なんだか億劫だった。わたしが黙っていると、ワタナベさんはビニール袋を持って、行こうかと言った。彼の体からは、森の香りに似た柔らかい匂いがした。わたしに話しかける度に、小さく首を傾けるその仕草が妙にイライラする。
「さっき、玄関にケージがあったけど、何か飼ってたの?」
「九官鳥。二週間前に死んじゃったんです」
「そうだったんだね」
 いかにも気の毒そうな感じの言い方。わたしは胸の底に重みを感じた。詰まりかけた息を鼻から静かに抜いていく。ワタナベさんはわたしの先に立って、アパートの狭い外階段を上っていく。私たちは前後になってぎこちないやりとりをした。
「実はね、僕は生き物を飼うのがあまり好きじゃないんだ。人間の自分勝手な都合で一生を檻の中で過ごさせるというのは、なんか可哀想だと思わない?」
 わたしははっきりと彼を腹立たしく思う事ができた。問いかけるように後ろを振り向いた横顔は不自然に傾いている。その小綺麗な微笑みを仰ぎ見ると、半分は逆光で黒い影になっていた。わたしは精一杯キュウちゃんを大事にしたつもりだった。自分の半身のようにさえ感じていたのだ。キュウちゃんはかわいそうだったのだろうか。わたしの血は少しずつ熱くなっていった。
 ドアを開けると、鳥カゴはあきらめたようにそこにあった。今朝と何も変わらない。空っぽになって二週間のカゴの中には、まだ何かが潜んでいる気配がある。そこには、わたしがキュウちゃんと半分こしていたものが残っているような気がした。あの日から、それは少しずつわたしの中に帰って来たのだ。
「結衣、今までほんとうにごめんなさい、つらい思いをさせちゃって。でも、ほんとに大きくなって」
 久しぶりに会ったお母さんは、ずいぶんと老けて見えた。そのせいかもしれないけど、かえって前より少しキレイに、落ち着いて見えた。聞きたいことはたくさんあるはずだったのに、うまく言葉にならない。わたしとお母さんを見えないジジョウが取り囲んでいた。握っていた拳の中で、爪が手の平に食い込んでいく。
 お父さんは背中を向けて、ひとりでウイスキーを飲んでいた。胸の中に羽音を聞いた。虹色に光る黒い翼がわたしの中で羽搏いた。
 次の日、わたしは鳥カゴを片付けた。

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