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バースデイ無職

二十八歳の誕生日に、知らない女性から酒が届いた。家に帰ると、玄関先にダンボール箱がひとつ置かれていて、中身はルジェのフランボワーズだった。家飲みに欲しいと思っていたリキュールだ。
知らない女性と言ったけど、知らないのだから、ほんとうは女性かどうかもわからない。ただ「松原絵梨」という差出人の名前だけを見て、そう思ったのである。偽名かもしれないけど、その女性らしき名前と、女性らしいプレゼントのせいで、ちょっとドキドキしてしまう。
僕は通販サイトを利用して、ギフトを贈ってもらえるように住所を登録している。送り主は僕の住所を見られないが、プレゼントを送ることができるのだ。だから、贈り物が届いたこと自体は、不思議ではない。
それでも僕は驚いていた。会ったこともない人が、僕にプレゼントをくれるなんて。七月十一日が誕生日。真夏だけれど、まるでサンタクロースのような人だなと思う。ギフトには、メッセージカードが添えられていた。
 
お誕生日おめでとうございます。作品いつも楽しみに読んでいます。この一年が中川さんにとって、実りある日々の連なりでありますように。
松原
 
なんてやさしく洗練されたメッセージだろう。きっと素敵な女性に違いない。間違いなく、ここ数年でもっともうれしい出来事だ。僕の小説を読んで、プレゼントを贈ってもいいと思えるくらいの好意を抱いてくれた女性がいたのだから。
僕は、自称小説家の無職青年だ。今年の二月に塾講師の仕事をやめてから、趣味の小説を書きつつ、半年近くぷらぷらしている。書いた小説はネットに掲載して、SNSで宣伝する。
どんなに真剣に執筆しても、どこにも届かないかも知れない。そんな不安を抱えながら、それでも誰かに届くと信じて、自分がいいと思うものを書き続けている。いつだって、いまの自分に書ける、いちばん優れたものを届けるつもりで執筆する。そんな姿勢をいつか誰かに認めて欲しいとずっと願っていた。
評価を求めてしまうことは、創作においては弱点にもなりうる。誰にも認められずとも、自分の書きたいものだけ書いていれば満足という人間は、たしかに強い。長続きする。だけど僕にとって、認められたいという気持ちは大きなモチベーションだ。そのことについては、悪いことだと思っていない。
そんな気持ちが、いま報われたのだ。なんて素晴らしいことだろう。神様はいる。たしかにそう思った。
僕はこの美しい出来事を、誰かに伝えたくてたまらなくなった。そこで、最近よくうちに出入りしている、船津という大学時代の後輩に、電話をかけた。
「君、神様はいるんだよ! とんでもなく、良い気分だ。奇跡的とも言える出来事がいま起こったんだ。詳しくはあとで話すから、とにかくすぐ家に来て欲しい」
話し始めて見て、自分が興奮していることを実感した。普段口にしないような言葉が次から次へと飛び出して、息を継ぐ間もない勢いでまくし立てた。
「なんかすごくイヤな予感しかしませんが。何があったんですか」
「僕の誕生日祝いに知らない女性から、プレゼントが届いたんだ。君にも見せたいから、早く来て」
「カミソリの刃なんか見ても、何も面白くないですよ」
相変わらず口が悪いやつだ。しかし、いまに限っては何を言われても笑って許せる自信が僕にはある。実際、彼の冗談にもまったく気分を害されていなかった。
「なんで、死を願われてる前提なんだよ。ルジェのフランボワーズだ。ラズベリーのリキュールだよ」
「え、それは現実ですか? また幻覚じゃないでしょうね? 先生のことだから、女性からは死を願われてそうだなって」
「僕に対する君のその評価を、改めさせる出来事が起こってるんだよ。とにかく早く来なさい」
「あー、わかりました」
それから二時間ほど経って、彼がうちにやって来た。彼もまた、小包を抱えていた。
「お誕生日おめでとうございます。これ、この前酒屋で見つけたんです。電気ブラン。先生、こういうの好きそうだと思って」
すこしうるっとしてしまう。二十八歳になって、こんなにも人に誕生日を祝われるとは思ってなかった。仕事もない、金もない。何もなくなってしまったはずの自分だけど、生きていてよかったと、思える日もある。
「ありがとう。いつもすまないね」
「いえ、楽しいですよ。それより見せてください。カミソリの刃」
「だからカミソリじゃないって。これだよ、これ」
僕は届いた酒の瓶を見せた。深い赤色の酒だ。とても誇らしい気分だった。瓶にはまだメッセージカードが下げられている。
「本当だ。綺麗なお酒ですね。フランボワーズ? へえ。洒落てますね」
「そうだろう。とてもセンスのいい素敵な女性だと思う」
「いや、ネカマかもしれないですよ。ん? 松原……。あ、僕この人知ってますよ。だいぶ前に、何度か話したことがあります」
「そうなんか、君の知り合いか!」
世界は案外せまいものだ。たしかに僕に関心を持ってくれるのは、大学の関係者くらいだろう。彼の知り合いであってもおかしくはない。
「どんな人なんだ? おい、どんな人なんだ!」
「すごいがっつくなあ。こわい、こわい。ちょっと話したことあるくらいなんで、よくは知らないです。ツイッターのマカロニさんですよ。」
それは知っている名前だった。以前からSNSでつながりのある方だ。そんなに交流があった訳ではないが、きっと僕の創作活動を見ていてくれたのだろう。そう思うと、すごくうれしかった。
「ああ、マカロニさんなのか。それならお礼のメッセージでも送っておこう」
「そうしましょう。なんかメッセージ動画とか撮りましょう。面白いから」
「いや、それは恥ずかしい。でも撮るか」
そうして僕らは、お礼のメッセージ動画の撮影を始めた。最初は、僕が瓶を両手で持って、カメラの前に立って堅苦しいお礼の言葉を述べるものだったが、それでは面白くないと船津が言うので、撮り直した。
カメラに背を向け、椅子に座っている僕が、くるっと振り向いて「次の作品のヒロインになってください」という、かなり気持ち悪いものへと差し替えられた。
「なんか嫌われないか? これ」
「いや、こっちの方が、面白いですよ! それにこれで嫌われるなら、とっくに嫌われてますって。あんなみっともないアカウントやっておいて、今さらでしょ」
「それもそうだな」
SNSを通じて、お礼の挨拶と例の動画を送った。いざ送ってしまうと、恥ずかしさで顔から火が出そうだったが、インパクトは大事だと自分に言い聞かせることにした。返事は、案外早く返って来た。
「ちゃんと届いたみたいでよかったです。動画までありがとうございます。いつも陰ながら応援していたので、お誕生日にプレゼントを贈らせてもらいました。フランボワーズ、私も好きなお酒なんです。ぜひ楽しんでください」
メッセージから素敵な人間性がにじみ出ている。なんて優しい女性なんだろう。僕の気持ちはすでにふわふわしていた。
「いつかお会いしてみたいと思っています。大阪へ行くことがあればご連絡します」
追伸の文面に、僕はドキッとした。いや、動揺するようなことではないのはわかっているが、浮つく気持ちは止められなかった。なんとなく、この辺の話は船津には黙っておくことにした。
「なんて、返って来ました?」
「えっ? ああ、動画喜んでくれたよ。いい人だね」
「そうですねえ。よかったですね、頑張って小説書いてて。ようやくファンが付いてきましたね」
「ファンだなんて、君、そんな」
そうは言いつつも、僕はファンという言葉に舞い上がっていた。僕はきっと、今日のこの世界で、最も幸せなバースデイ・ボーイだ。
「じゃあ、飲みましょうか?」
「え、何を?」
「その、なんかラズベリーのやつ」
「馬鹿者。これは大事な贈り物だ。飲むタイミングは慎重に検討する。それより君が持ってきてくれた電気ブランを先に開けよう」
僕はキッチンに立って、電気ブランのジンジャエールわりを作ることにした。度数がけっこう高いので、辛口ジンジャエールを多めを入れる。ライムも絞りたかったが、あいにく用意がなかった。
「バックでいいかい? ライムがなくて申し訳ないが」
「いいですよ。それより僕のプレゼントは飲む機会を慎重に検討してくれないんですか?」
「検討したさ。贈り主と一緒にその日のうちに飲むなら、これ以上のことはないだろう」
「それはそうですね、二十八歳無職に乾杯」
乾杯。僕たちはグラスを合わせた。男ふたりのさみしい部屋に、心地よい音が小さく響いた。
 
進展があったのは一週間後のことだった。マカロニさんからメッセージが届いたのだ。
「大阪へ行く予定が決まりました。八月の二日、よかったらお会いできませんか?」
酒の件でもかなり舞い上がってはいたが、会いたいという話は、社交辞令だと思っていた。何も期待していなかったかと言われれば嘘になる。でも、こんなに嬉しいことばかり続くはずもないと、自分に言い聞かせていた。
「その日はなんの予定もないので、お会いできると思います」
そんな返事をしてみたが、仮に何か大事な用事があったとしても、その日だけはなんとしてでも予定を空けただろう。
「よかったです。大学時代の友人と会う予定もあるので、千里山まで伺います。当日、十四時に千里山駅で」
「わかりました。楽しみにしています。マカロニさんがヒロインの新作、頑張って書きますね」
事態は急展開を迎えていた。実際に会うなんてことになるとは思っていなかった。仮に何か他の用事があるにしても、遠路はるばる大阪まできて会ってくれるなんて。旅先での貴重な時間を僕のために割いてくれているには違いないのだ。
僕はこの胸の高鳴りを誰かに伝えたくて仕方なかった。発作的に船津に連絡を取ろうとして、思い留まった。やはりこの件は、船津には言わないほうがいい気がした。なんだか独り占めしたい気分なのである。秘密を守れるかどうかは、ロマンスをうまく運ぶ上で、とても重要なことだ。
船津以外に話せる友人もおらず、仮にいたとしても、話すべきではないだろう。僕は悶々とした気持ちを抱えながら、高鳴る鼓動を抑えつつ、当日を待つことになった。それから二週間近く、僕はほとんど上の空で過ごす羽目になった。
「花だな」
前日の夜中にそう思った。花束を持って行こう。絶対必要だ。この気持ちは花束を渡すことでしか表現できない。二人の初対面には欠かせない演出である。それは近所の花屋で調達できそうだ。
服だ。どうしよう。無職らしい、みっともない格好しか最近はしていない。着られるジャケットの一枚もない。困ったな。昔の服を引っ張り出さないといけない。僕は押入れの中から、学生時代にきていたジャケットやらシャツやらを引っ張り出した。部屋中が服だらけで、足の踏み場もない。
「これいいな。あ、でも冬用か、暑そうだ。これは、夏。でも絶対入らないな……。これ、これはいい、なんとか入りそうだ」
紺色のサマージャケットが見つかった。着てみると、かなりパツパツだが、なんとか着られないこともない。前を閉めなければ問題なさそうだ。ちょっと安心する。
この色なら茶色の革靴が履きたい。確かあったはずだ。僕は下駄箱もひっくり返して、靴を探した。カジュアルな茶色の革靴を見つけ、一時間かけて磨き上げた。
「これでいいだろう。あとは花束だけだ」
楽しみで仕方なかった。ひとつ心配なのは、昨夜からマカロニさんの返信がないことだけだった。でも、大阪旅行中なのだから忙しいだけだと思い、深く考えないようにしていた。余裕のなさは、大きなマイナスにしかならない。どんと構えていこう。そう思った。
それから眠りについた僕は、昼前に目を覚ました。シャワーを浴びて、髪にワックスをつけ、選んだ服を着、磨いた革靴を履いた。靴紐を結ぼうと玄関で屈み込むと、肩のあたりから、びりっと嫌な音がした。
「うそ」
慌ててジャケットを脱いで確認すると、左肩の縫い目がほんの少し破れている。僕は血の気がすっとひいていくのを感じた。視界が暗くなっていく。
「これくらいなら……」
もう他に着ていけるものがない。これくらいならバレないだろう。もうこのまま行くしかない。そういうことにして僕は家を出た。
花屋でかすみ草の花束を買い、それを抱えて駅まで歩く。真夏の日差しと、緊張のせいで、歩くナイアガラのように汗だくになってしまった。駅に着いた頃には、ジャケットまでビショビショである。髪のワックスは汗でドロドロに溶けている。そうして二十分前に、約束の場所へ着いた。
それから、四時間がすぎた。何度も携帯を確認したし、メッセージも送った。約束の時間が過ぎても、彼女らしい人影は僕の前に現れなかった。泣きそうにもなった。でも、我慢した。なんで我慢しようと思ったのかは、よくわからなかった。とても暑い日だった。涙の代わりに、汗だけが流れ続けた。
途中から、彼女が現れないとわかっても、ただここに立っていることが、何か意味のあることのように思えてきた。それは自分に課した罰なのかもしれない。もしくは、ただそこに立ち続けている自分が好きだったからかもしれない。理由はわからないけど、僕はひたすら待ち続けた。
足の感覚がなくなり、脱水症状でフラフラし始めたのは夕方だった。十八時の駅前は、人通りが多く、空はまだまだ明るかった。みんなが奇異な目で僕を見ていた。そんなこと、いまはどうでもいい。
「帰るか」
観客のいない舞台で、僕は何かを演じ続けていた。舞台から降りると、どっと疲れが押し寄せ、日常が戻ってきた。そう、これが僕の日常だ。とても美しい夢を見ていた気がする。今は目が覚めて、現実の中にいるのだ。
「あれ、先生! どうしたんですか、こんなところで」
ぼんやりして気づかなかったが、声をかけてきたのはスーツ姿の船津だった。
「そんなビショビショで、水遊びでもなさったんですか」
「いやね、この水は自前なんだ」
「よくわかんないですけど、頭もドロドロだし。なんですか、その花。食べるんですか」
この時、ようやく自分がどれだけみすぼらしい格好をしていることに気付かされた。一連のことを俯瞰する視点が生まれ、自分の惨めさを改めて認識した。
「きみこそ、そんなスーツなんか着てどうしたんだ」
「一応就活生なんで」
「そうか、ご苦労さんだな」
僕たちは、二人並んで歩いた。帰りの方向はだいたい一緒だから。
家へ向かう途中、親子連れとすれ違った。若い父親が、二人の子どもを連れていた。下の女の子は三輪車に乗って、上の男の子は補助輪付きの自転車に乗っていた。僕たちは、その親子連れをぼんやりと眺めていた。なんとも温かい風景だった。
「あのお父さんは、きっと僕と同じくらいの歳だろうな」
すれ違ってしばらくした時、僕が言った。
「そうですねえ。僕も同じこと思ったんですけど、今日は黙っておいたほうがいいかなって思ってました」
「いつも、いらん気を遣わせてすまんな」
「いえいえ」
本当だったら、父親をやっていてもおかしくない歳になった。いったい僕は何をしているのだろう。仕事もせず、くだらない小説を書いては人に笑われ、ネットで知り合った女の子に夢中になり、その上このありさまだ。悔しくて、涙が出てきた。
「先生、人それぞれですって」
「そうだよな。ありがとう」
踏切のところで、僕たちは別れた。帰り道、彼と一緒でほんとによかった。ひとりでは耐えきれない、哀しみがあったから。
その日の夜、僕はルジェの蓋を開けた。キャップを外した瞬間から、ラズベリーの甘い香りがあたりいっぱいに広がった。ミルクで割ってもよかったが、まずはソーダにしようと思った。タンブラーに氷を詰めて、フランボワーズを少し注ぐ。ソーダで満たして、よくステアした。かき混ぜるたびに優しい匂いが立ち上った。全てを許してくれるような、そんな優しさだった。僕はグラスを口につけた。
「ウソなんかじゃないんだ」
その味は、うまく説明できそうにない。月並みな言葉でしか表現できないだろう。だけど、その味を口にした時、つらい記憶の中の風景が、ほんのりと赤みをさして微笑んでいるような気がしたのだった。
僕を見つけて、興味を持ってくれた人。見えないところで応援してくれていた人は、きっといたんだ。それはほんとうのことだったと思う。ただ世界は、僕が思っていたよりちょっと複雑で、思った通りにならないこともあるというだけの話なのだろう。
たとえどんなに惨めな姿で、人の目に映ろうとも、僕はこの酒の味を知っている。哀しみが微笑むような、この味を知っている。それだけで僕は、自分の人生に胸を張ってもいいような気持ちがした。

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