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深み

自分には深みがないのではないか、と思い知らされるときがある。

物事を素直に額面どおり受け取る。目の前のひとが口にしている言葉は、 そのままそのひとの思いなのだろうと思う。  だって、そう言ってるんだからそうなんじゃないの?って 他人の言葉の裏を読もうとしない。 のほほんとしたものだ。

が、おとなの現実は、時に言葉の裂け目のようなものをさらしてくる。言葉と行動が裏腹だったりする現場に遭遇すると、なぜなぜ?とはてなマークがのどかな頭のなかでぐるぐるする。

ひとなんてそんなものなんだな、と思い知らされることがなかったわけではない。嘘つきには山ほどあったし、自分だって、状況によってはこころにもないお世辞を言っていたりする。

でも、 その路線に乗っかってしまうと、 いつもいつも人の話の裏側を読んでしまうことになる。裏は裏を呼び、実のない裏会話が常となり、その先にあるのは人間不信だけだ。

だから、おとなの事情に揉まれたある日、本能的にそこから引き返していた。以来、裏を読まないことにした。額面通りに受け取る、愚鈍でまっとうがいい、と思ったのだ。

しかしながら、この年になってみるとその言葉の裏側を読む能力のなさは、 実は、深みのなさなのではないかと思えてならない。

たとえば、「あたしは大丈夫よ」という言葉を聞いて、そう言ってるんだから大丈夫なんだね、と思う単純さ。

心配かけたくない、とか、弱みを見せたくないとか、その「大丈夫」の裏側には、そういう不完全である人間がなんとか生き延びるためのすべのようなものがあるのではないか、とか、ひととひとのあいだでかわされる言葉が思いの全てではなく、正反対の思いが隠されていることも、それが嘘であろうとも、その強い言葉で身を守ろうとしていることもあるのだと、思い知ったりしている。


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