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不幸

乳がんで乳房を切り取った友人が形成手術で再建するのだという。同じ病気で同じように乳房を失ったMさんは再建しない。再建してしまうと発見が遅れる。再発率の高い病気で、それは命取りになるからだ。

再建をする友人の年齢は77歳である。どうして再建にこだわるのかと聞いてみるとこんな言葉がかえってきた。

「いずれ私は病院で死ぬことになるでしょう。
死んだら看護婦さんが湯灌してくれるわけでしょ。若い看護婦さんたちが私のこのみっともない胸を拭くのよね。そんなひとたちに『ああかわいそうに。このひときっと不幸だったのね』なんて言われたくないのよ。だって私はちゃんと生きてきたし、私の人生はそんなに不幸じゃなかったんだから」

不幸という言葉が重たくこころに沈んでいく。

病気のせいで、乳房を失うことや片あごになってしまうことは確かに幸福な状態ではない。当たり前にそこにあるものがないことの違和感はきっとぬぐいようなく湧いて出るものだろう。

不全という言葉があたし自身の身に沁みる。

いつかあたしが死んで、その湯灌をするひとは息をのむにちがいない。そのひとは片方のあごがない死体をどんな思いで眺めるのだろう。「ああ、かわいそうに」と言うだろうか。「たいへんだったでしょうね」と同情してくれるだろうか。「不幸だったのね」と決め付けるのだろうか。

自分の人生が「不幸ではなかった」とは思わない。人よりきつい人生かもしれないと思っている。だから立派になったとも思わないし、やさしくなれたとも思わない。

誰かがあたしを不幸だと同情しても、まだまだ幸福なうちよ、と慰めても、あたしが、誰もわかっちゃくれないのよ、とうつむいても、こんなのへっちゃらさ、なんてうそぶいても、今ある現実は変わらない。

生きているときも死んでからも他人がどう思おうとも、この人生を引き受けて生きているのはこのあたしなのだ。

その時その時の自分にきちんと向き合っていくしかないのだといつの頃からか思うようになった。

どんなアクシデントも生きていく時間が織りあげていく模様のひとつだ。そのあとも時間はつづき、模様もまた変わっていく。そういう模様があったから人生の眺めが変わっていく。眺めが変わったことで豊かになることもある。そんなふうに思うようになった。

胸にしろあごにしろ、そこにあるはずのものをなくしてしまった人間はそのうつろな暗がりを自分なりの思いで埋めていく。なにもないその部分に、その現実と向かいあった自分の思いを重ねていく。

あたし自身がそういうひとを見たとき、きっと、そのひとはそうなったことでより考え深い時間を送ったにちがいない、と思う。

そう思える人間になったことは、決して不幸ではないと思う。


読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️