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bunkamuraオーチャードホール

いつかの冬のこと。まあ、ひょんなことから新日本フィルハーモニー交響楽団の「第九」を聴くことになった。

きちんというと、ベートーヴェンの交響曲第9番ニ短調作品125「合唱付き」だ。

オーケストラのライブは久しぶりで、なんとなくあらたまったお洋服で、なんとなくあらたまった顔つきで居住まいなど正して聴かねばならん、と思うと、いささか気が重くなったりした。

いや、それだけでもないな。

小中学校の時代、オーケストラの音楽を聴くと必ず感想文を書かされた。あれが嫌だった。ものすごくヘタクソだったから。

ふあ~と聴いているとあとでまるで思い出せくてなにを書いていいのかわからなかった。なんとなくすき、とかきらい、とかしかなかった。

クラスには上手く書けて褒められる子もいて、その子の作文には、曲から受ける「感じ」が綴られていた。

その作文の比喩のオンパレードはなんだか気恥ずかしくもあったがそうか、そんなふうに書くんだな、と納得した。

しかしながら、こんな感じあんな感じをしっかり覚えておかなくっちゃ、なんて義務感で聴く音楽は、つらかった。

そんなトラウマが蘇って拒否反応が出たのか、第一楽章はうとうとと眠ってしまった。

大人なのに、これは、い、いかん、と気が付くと、長髪で、天辺のあたりが薄くなった小さなコンダクターが壇上で踊っていた。その動きが門外漢のねむけまなこを開かせた。

コンダクターの名前は広上淳一。船越栄一郎に似たえくぼのある柔和な笑顔の写真がパンフレットにある。

彼の動きを見ていると、音楽には「硬度」があるんだなと気づかされる。

やわらかく、かたくと、その動きが教えている。あるときは棒でも飲み込んだように突っ立って、あるときはへにょっと溶けてみせる。

その腕はロボットになったり、はじらう乙女になったりする。

その腕のなかには音楽の欠片があり、流れがあり、塊があった。

彼のそう長くはない指が虚空に舞い、それらを小さく閉じ込めたり、少しずつ開放したり、大きく放出したりして、曲のイメージを広げていく。

たわめ、なだめ、ひろげ、ころがし、切り取り、押し上げ、ながし、うねりながら解き放たれていく音楽は天空にまで届きそうな気配がした。

「無限のファンタジー」という言葉がパンフレットにあった。上手い言葉だなあと感心する。限りある譜面を辿りながら、イメージは限りを越えていく。

途中でバイオリンのひとたちが指で弦を引っかくパートがある。そのあたりから、楽器同士が会話しているような感じがしてきて、この曲、すきだな、と思い始める。

楽器の会話を促すコンダクターの動きもだんだん熱を帯び音楽も熱くなってくる。

そしてソロパートから合唱になると、その力強さが風圧のように押し寄せてくる。ドラマティック!!!!

こんなふうに大人になっても感想文はヘタクソだけど、おばさんになったから、もう理屈はいいから自分の感じたままでいいんだなって思うんだな。

よかったよ。ベートーヴェンてかっこいいよ。


読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️