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歌舞伎かぶれ


昔々のこと、高校生のあたしが生まれて初めて見た歌舞伎は「義経千本桜」である。故郷、京都の南座での団体鑑賞だった。忠信と九郎狐を先代の市川猿之助が演じた。

歌舞伎といえばお茶漬け海苔のパッケージを連想するような脳天気な高校生には、筋も台詞もよくはわからなかったのだが、猿之助の演じる「けれん」には反応した。


早変わりや瞬間移動に目を見張り、最後の場面、自分たちの目の前まで役者がやってくる宙づりには大きく息をのんだ。

猿之助は三階席まで吊り上げられながら、「初音の鼓」を手に持ったまま、力の限りに手足を動かす。その狐に似せた動きは優雅で力強く素早い。
衣装の狐の毛であろうか、白い細い繊維が、あてられたライトの中を何本も何本も落ちて行く。

わが身のそばでなされるその動きに圧倒された。そして、その九郎狐の喜び溢れる笑顔と、うらはらのように滴る汗は、ずっと長く心に残った。

それ以後、歌舞伎とのご縁はながらく途絶えていた。あたし自身の実人生の舞台が大きく動き出し、どこにも筋書きなどないのに、結構山あり谷ありのドラマが続いてきた。
 
縁がなかったのは正直なところ余裕がなかったからのだが、おもいがけないことに、不惑を越えてから、歌舞伎がだんだんと自分に近しいものになってきた。


それは古典芸能への関心のめばえというようなたいそうなことではなく、幸運にもいただけた一枚のタダ券から始まる。つまり巡り合わせである。

フイにするのはもったいないからと、一大決心をして、当時の住まいがあった横浜から歌舞伎座のある東銀座まで、遠くに旅立つような覚悟と不安を抱いて出掛けて行った。

地下鉄東銀座駅から歌舞伎座前に出る細い階段を上がりきると、そこには人が満ちていた。待ち合わせをしているひとや一幕間見に並ぶひとたちの
余裕ありそうな振る舞いや、お金持ちなのだなと一目でわかる服装にたじろいだのも、今では微笑ましい思い出である。

今は亡き如月小春さんが講演で、「オペラ座に出かけるひとはみな第一礼装です。みなさんも、どうぞ、芝居はとびっきりのおしゃれをしてお出かけ下さい」と言っていたのを思い出す。それは金銭的な意味もあるが精神の余裕でもあるように思う。

歌舞伎座は昭和二十年に空襲で焼け、昭和二十六年に復興されたそうだが、その様式は大正の時代に建てられた「奈良朝に桃山様式を併せた大殿堂」の歴史を背負っているのだ、とものの本にあった。その時代めいたお屋敷のような屋根をときめきながら見上げた。
 
当時のあたしは病気をして再発を恐れていた。一日は貴重ではあったけれど、それでも自分だけが置いてけぼりにされているようないたたまれなさが拭いようなくあった。


そんなあたしが歌舞伎座という空間では、ひとときあたしでなくなっていた。

古典は苦手だったけれど、そんなこととは関係なく、役者の所作や台詞に心地よくのめりこんでいき、その男ぶりや手弱女ぶりにため息をつき、胸のすく筋に拍手を送り、胸つぶれる悲哀に涙するようになった。


それはどうにも薄寒くてならなかった手元や肩先がぽっと暖まるような時間だった。

暮らしの一場面から抜け出て、歌舞伎座というとびきりの空間に身を置き同じ舞台に見入るひとびとかいる。そのひとたちのあじわいふかい横顔を見つめることや歌舞伎を巡ってあれこれ思うこともやがてあたしの楽しみのひとつになっていった。 
 

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️