最終回 千年紀への曙光
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最終回 千年紀への曙光

BUNBOU WEB
東晋平(ひがし・しんぺい)/文筆家・編集者。BUNBOUに所属。
現代美術家・宮島達男の著作『芸術論』(アートダイバー)、『アーティストになれる人、なれない人』(マガジンハウス)などを編集。

日本の芸術文化の深部にある〝法華〟について想像をめぐらすエッセイです。毎週火曜日に更新してきました。今回がいよいよ最終回です。

第24回

億劫の辛労を尽くす

 「一瞬」のなかに「永遠」を見る。
 「部分」のなかに「全体」を見る。
 宮島達男は著書『芸術論』(アートダイバー)で、ブレイクの詩を援用して、この透徹した生命観を読者と共有しようとした。

 一粒の砂にも世界を
 一輪の野の花にも天国を見、
 君の掌のうちに無限を
 一時のうちに永遠を握る。
(『対訳ブレイク詩集』松島正一編/岩波文庫)

 宮島は2500個のLEDガジェットを使って、この生命観を赤く輝く一個のスクエアにした。難解な解釈など必要なく、誰もが美しいと感じ、惹かれ、顔を近づけたり遠くから眺めたりする。これは宮島アートに共通する姿勢だ。

 しかし、私は「Innumerable Life/Buddha(無数の生命/ブッダ)」という絶妙なタイトルに、どこまでも1人の人間に、無上の尊貴さ、無限の可能性、世界をも変えていく基軸を見出そうとする、宮島の思想の卓抜さを見る思いがする。
 「永遠」や「全体」のほうにのみ価値が引きずられてしまうと、途端に手ざわりのない抽象的な観念になってしまう。昭和の戦争に仏教界の大勢が加担したように、下手をすると人間生命を手段化するファシズムにさえ悪用されかねない。

 今ここの「一瞬」、自分という人間、目の前の1人の人間という「部分」のうえに、永遠なるもの、全一なるものを見ようとするとき、それは運命を切り開き平和を創造する、現実変革の思想になり得るのだと思う。
 たしかに私たちは本来、宇宙生命の全体そのものではある。とはいえ、それは無条件に現状を追認し肯定することではない。

 一念に億劫おくごうの辛労を尽せば本来無作むさの三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり(日蓮『御義口伝』)

 運命の挑戦に対して、長大な辛労を尽くして応戦する生命の営みのなかにのみ、「真の自己」の生命力と調和の智慧が開かれてくる。生命は困難と格闘するときに、はじめて生命としての本来の力を発揮する。
 その格闘を避けて、あるいは社会の不条理を容認して、〝あらゆるものはそのまま仏の当体だからそれでいいのだ〟と説き諭すならば、それはかえって人間の尊厳を否定する魔性の論理になってしまうだろう。

太陽と蓮華

 宮島はまた、この2500個のガジェットで構成された《Innumerable Life/Buddha MMD-03》の着想を、法華経に説かれる「地涌の菩薩」から得たと語っている。
 釈尊滅後の悪世に誰が法華経の思想を人類に流布するのか。釈尊の問いに対して、法華経の従地涌出品で、はるか大地の深淵から無数の菩薩が出現して流布を誓願する。
 法華経は、地涌の菩薩を次のように描写している。

 日月の光明のく諸の幽冥ゆうみょうを除くが如く の人は世間に行じて能く衆生の闇を滅し(神力品)
 善く菩薩の道を学して世間の法に染まらざること 蓮華の水にるが如し(従地涌出品)

 太陽の光が一切の闇を払っていくように、現実社会の只中で行動して衆生の闇を払う。しかし、どこまでも求道者として自身も向上の坂を上り、世間の泥沼のなかにあって泥に染まることのない清浄な生命は、泥に咲く蓮華のようである――と。
 太陽と蓮華。日蓮は自身の名乗りに、このふたつを冠した。
 法華経に説かれたとおりの命におよぶ迫害を呼び起こして、それらを勝ち越えた日蓮は、流刑地の佐渡で宣言している。

 地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり(『諸法実相抄』)

 そして弟子門下に対しても、自分と同じ自覚で生きぬいてあとにつづけと呼びかけた。

 いかにも今度・信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給うべし、日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか(同)

 地涌の菩薩たちが湧き出てきたその〝大地〟とはどこなのか。天台大師・智顗は『法華文句』にその場所を「法性ほっしょう淵底えんでい玄宗げんしゅう極地ごくち」と記している。
 端的に言えば根源の生命であり、覚りの極致。そこから涌出するのだから、本地は仏に等しい。けれども、あくまでも困難の多い現実世界の人生を引き受けながら、自己変革への間断なき向上と慈悲の行動に挑戦する菩薩群としてあらわれる。

 法華経は単に万人のなかに仏性を見ているだけではない。万人に対して「救いを請う側」から「自他を救う側」へと、自覚と行動の変容を促している。
 日蓮は誰もが仏性を呼び起こせる具体的方途として題目と本尊をあらわし、門下に対しては「信者」ではなく自分と同じ「実践者」(法華経の行者)であれと呼びかけた。
 法華経と日蓮に一貫するのは、宗教と人間、仏と人間の関係性の逆転だ。

 天上から舞い降りるのではなく、大地から重力に逆らって涌き出る菩薩たち。
 それは、自他の尊厳と可能性に目覚めた民衆の姿にも思える。それはまた、法華経編纂者たちの自覚と自負でもあったのだろう。
 宮島にとって〝地涌の菩薩〟とは、すべての人間の可能性の究極のイメージなのかもしれない。赤々としたガジェットの光は、その横溢する生命力を表すかのようだ。

ART in YOU

 職業としての芸術家は、ほんの一握りの存在かもしれません。けれども、アート(美)というものは彼らや、彼らの作品の中だけにあるのではなく、万人の生命の中にあります。
 本来、すべての人の中にアート(美)があり、それを呼びさます力があるからこそ、作品(美)も成り立つのだと私は思っています。(宮島達男編『アーティストになれる人、なれない人』マガジンハウス)

 宮島達男は「ART in YOU」という概念を提唱してきた。美というものは人間を離れては存在しえない。
 このことを宮島は、2010年に刊行した『宮島達男解体新書 すべては人間の存在のために』(Akio Nagasawa Publishing )の冒頭でも、アインシュタインとタゴールの対話を通して語っている。
 アーティストという〝神の代理人〟を介して、外なる「美」に人間がぬかづくのではない。
 あらゆる人のうちに本来「美」がそなわっている。だから人は何かを美しいと感じられる。
 アートをアートたらしめているのは、万人の側なのである。

 『芸術論』では、この「ART in YOU」について、ふたつの視点が示されているように思う。
 ひとつは、この概念が法華経の生命観の極理である十界互具論に支えられていること。
 《Innumerable Life/Buddha MMD-03》に即していえば、9から1へ変化して止まない小さなガジェットが、じつは巨大な作品の全体を織りなしている。
 部分に過ぎないと思われていた私たちの生命が、じつは一個の全体の表出だったのだ。

 九界即仏界であり、仏界即九界です。〝常ならざる〟と見えていたものが、じつは、〝常なる〟ものがベースにあり、逆に言えば〝常なる〟ものは、〝常ならざる〟ものとしてしか現れてはこない。(宮島達男『芸術論』アートダイバー)

 誰しものうちに「美」がそなわっているのは、誰しもの生命が本来、宇宙の一個の全体だからだ。
 すぐれたアートは、そうと意識するしないにかかわらず、私たちの生命の全体性を回復させるものとして働く。

 人は、他者と出会い、他者という鏡に映すことで、自己を見ることができる。他者の生きる姿に敬意を払っていく中で、自分の可能性を信じることができるのです。(『芸術論』)

 宮島がもうひとつ語っているのは、どうなれば「ART in YOU」が単なるイデア(理)からアクション(事)へと動き出すかだ。「永遠」を考えることは、結局「今」という一瞬を考えることになると述べている。

 遠い未来ではなく、「今、どう生きるのか?」「今、目の前にいる人とどう接していくのか?」「今、目の前にある事象とどう向き合うのか?」それを見つめ、考えるのです。(『芸術論』)

 私たちの生命も、世界も、常に今ここの瞬間にしか存在しない。それを私たちは奇跡のように分かち合っている。
 その誰しもが本来、宇宙の全体なのだ。誰しものうちに「美」がある。だからこそ、「今、ここ」に引き寄せて、「ART in YOU」という視点で自分の生き方、他者とのかかわり方、社会にある課題を考えなければならない。

 概念としてのイデアがアクションとしての価値創造へと開いたとき、

 人々の生きる姿勢を変え、世界を見るまなざしを動かし、例えば震災で傷ついた人々や土地の蘇生、紛争の解決、核兵器の廃絶といったような平和の問題にも、観念ではなく行動に即して考えていくことが可能になる」(『芸術論』)

と宮島は語っている。

 宮島がアトリエに籠って創作することだけをよしとせず、「柿の木プロジェクト」のようなアートによる核廃絶への取り組みを1990年代半ばから続けてきたこと。
 9から1まで自分の任意のリズムで数えたあと、洗面器の液体に顔をつけ、また顔を上げて9から1のカウントを繰り返す〈Counter Voice〉というパフォーマンスの共有を、一貫して国内外各地のワークショップで続けていること。
 現役のアーティストでありながら大学で教える「教育の10年」という道をあえて選んだこと。
 東日本大震災のあと、六本木のテレビ朝日本社の壁に設置された〈Counter Void〉を消灯し、「3.11」から3日間だけ点灯するRelaight Projectを2016年より実施してきたこと。
 これらすべては、万人の「ART in YOU」を信じるからであり、アーティストとしての宮島の創作と分かちがたく結びついていることが想像できる。

「不確実性」の創造力

 世界がウィルスに覆われていた2020年11月。東京・谷中にあるギャラリーSCAI THE BATHHOUSEで、宮島達男の個展「Uncertain」がはじまった。
 個展のタイトルが示すテーマは〝不確実性〟。
 どのような経緯でこのテーマを選んだのかと会場で本人に聞くと、これは以前から決めていたもので、やはり大きなきっかけは東日本大震災であり、その後も毎年のように続く自然災害だという。

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2020年「Uncertain」展で

 壁に据えられた大小の数字。よく見ると壁際の床に、子どもの頃に駄菓子屋で見たような小さな箱が置かれている。
 なかには、0から9までの数字が刻まれた奇妙な多面体のサイコロが入っている。
 「どうぞ振ってみてください」と勧められて、「8」の作品にあったサイコロを私が振ると「6」が出た。
 壁面のセグメントを〝人力〟で着け外しする仕掛けを見せてもらって、そういえば宮島達男は大工の息子なのだったと思い出した。

 素材は何なのですかと聞くと、「キャンバスなんです」。
 立体造形に見えるが、これは〈Painting of Change〉と題された〝絵画〟シリーズだ。
 「不変」であることを追求する西洋絵画の歴史に対し、宮島はサイコロの目という偶然性に委ねて絵画の土台そのものから「可変」にすることを試みた。

 私たちの生命は、絶え間なく「分解」と「合成」をくりかえす現象そのものである。
 私たちは何かを食べ続けずには生存できないが、それは他の生命を分解して合成し直す営みなのだ。
 じつはそのようにして、37億年間の「分解」と「合成」の食物連鎖の流れのなかに、今この瞬間の私たちの生命の平衡が保たれている。
 ここにすでに、宮島達男の「三つのコンセプト」

 それは、変化し続ける
 それは、あらゆるものと関係を結ぶ
 それは、永遠に続く

が、私やあなたの存在のうえにも体現されていることに気づくだろう。

 「不確実性」は、生命にとって常に災厄であると同時に、最大の福音でもある。
 環境との関係の不安定こそが、生命に進化を要請する。
 生命自身が内在している可能性という意味の「不確実性」は、生存を脅かす外なる「不確実性」を縁として発動する。
 生命は本来、サイコロがどう転がるかわからないような環境のなかで、しかも個体としては秩序の崩壊へ向かう「エントロピー増大の法則」に抗しながら存在している。

 サスティナブルは、動きながら常に分解と再生を繰り返し、自分を作り替えている。それゆえに環境の変化に適応でき、また自分の傷を癒すことができる。
 このように考えると、サスティナブルであることとは、何かを物質的・制度的に保存したり、死守したりすることではないのがおのずと知れる。
 サスティナブルなものは、一見、不変のように見えて、実は常に動きながら平衡を保ち、かつわずかながら変化し続けている。(福岡伸一『新版 動的平衡』小学館新書)

 700年前の14世紀、ヨーロッパは黒死病に覆われ「死を記憶せよ(メメント・モリ)」が芸術の分野にもあらわれた。
 1260年に執筆された日蓮の立正安国論の冒頭は、3年前に起きた正嘉の大地震で死屍累々となった首都・鎌倉の惨状の描写からはじまっている。
 国家も都市も制度も人の命も不確実性に満ちていることを確認したうえで、その現実社会をどう変革し、人間の幸福を創造していくのかという議論を提起した。

 日本のメンタリティには、『平家物語』や『徒然草』のように「無常」という不確実性を諦観視する習性がある。
 しかし、宮島は『芸術論』のなかでもこの「諸行無常」の解釈に触れ、

 とかく無意識にものごとを静的に、固定的にとらえがちなところを、動的に見ていく。一様性の奥に多様性を見る。(『芸術論』)

と、まったく別の視点を示している。「諸行無常」とは、「万物は突進する」とタゴールが讃えた生命のダイナミズムだ。
 きのうまでの安定を揺るがし、明日が見定めにくい「不確実性」は、私たちにとって往々にして〝災厄〟として立ち現れる。
 けれども、「不確実性」は生命が本来もっている律動であり、自在性であり創造性そのものでもある。人間には、どんな災厄も必ず価値へと転じていく力がある。

 サイコロの目に従って数字を構成するセグメントが取り外されても、それは消えるのではなく整然と床に置かれている。
 0が出て、壁からすべてのセグメントが外されても、それらはひとつも欠けることなく床に並べられ、次のサイコロの目に従って、また何らかの数字になるのだ。
 それは、私たちの前から姿を消してしまった大切な誰かにも重なる。私もあなたも、いつか必ず「0」の目が出てすべてのセグメントを外される日を迎える。
 けれど、セグメントは常にここにある。

おわりに

 さて、7月からはじめたこの連載も、ずいぶん遠くまで来てしまった。
 あまり深く考え込まずに、ともかく書きつづけることだけを目標にした。あえて公開のnoteに記したのは、書きつづけることを自分に課すためだった。
 奇しくも今年は日蓮の生誕800年の年にあたる。この年を閉じるタイミングで、この連載も終了したい。
 秋も終わりに近づき、連載が20回を超えた頃、まったく思いもかけず美術専門の出版社から単行本化のお話をいただいた。というわけで、このあと全体を再構成し、大幅に加筆訂正することになる。

 禅でも神道でも武士道でもないニッポン。非日常にトリップする「美」ではなく、徹底して日常のなかに、社会の現実に見いだそうとされる「美」。
 常に他者へと開かれ、軽々と国境や文化を越えて受容されていくニッポン。
 1500年ものあいだ、日本の深部を静かに潤してきたもの。それは過去のものではなく、むしろこれからの人類の新たな千年紀を潤す水脈となり、照らす曙光になっていくと私は信じている。

 昼となく夜となく わたしの血管をながれる同じ生命いのちの流れが、世界をつらぬいてながれ、律動的リズミカルに鼓動をうちながら 躍動している。
 その同じ生命が 大地の塵のなかをかけめぐり、無数の草の葉のなかに歓びとなって萌え出て、木の葉や花々のざわめく波となってくだける。
 その同じ生命が 生と死の海の揺籠のなかで、潮の満ち引きにつれて ゆられている。
 この生命の世界に触れると わたしの手足は輝きわたるかに思われる。そして、いまこの刹那にも、幾世代の生命の鼓動が わたしの血のなかに脈打っているという思いから、わたしの誇りは湧きおこる。(タゴール『ギタンジャリ』森本達雄訳註/レグルス文庫)

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半年間おつきあいいただきありがとうございました。

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大吉
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ライター×編集者×研究者のユニット「BUNBOU」が運営するnote。 文化・芸術・言葉を軸に、新しい好奇心で日本とアジアをみつめていきます。