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ブレードランナー2049=詩=宮沢賢治説

『ブレードランナー2049』は2017年公開の映画です。1982年公開の『ブレードランナー』の正当な続編ではありますが、『ブレードランナー』の監督であるリドリー・スコットはプロデューサーに回り、カナダ人のドゥニ・ヴィルヌーヴがメガホンを撮りました。                 当初、『ブレードランナー』の続編を作ることは正気の沙汰ではないと言われていましたが、蓋を開けてみると、その作品世界は濃厚に『ブレードランナー』と同じ時間が流れていました。                 前作の核であると思われるものは、リドリー・スコットのビジョンだと誰もが思われるかもしれませんが、併し、その目差しがドゥニ・ヴィルヌーヴのものに変わっても、その『魂』は同一のものでした。そのことに関しての私見をここに記して置きたいと思います。                 

 『ブレードランナー』という作品における本来の核とは、『詩情』だと、私には思えます。その詩情は、あの前作におけるデッカードとレイチェルが出会う折りの、タイレル社での夕陽を遮るブラインドが降りる瞬間や、デッカードのアパートでの時の停まったかのような感覚、ロイ・バッティが窓枠に捕まり、雨を感じる時などです。それら瞬間の一つ一つが、郷愁を持っていて、観ていると何故かとても懐かしい気持ちにさせられます。その核が『2049』にも同様にあります。それは、ラスベガスでの木彫りの木馬に触れる瞬間、朽ちかけた木の幹に触れる時などに見られ、『2049』は焦れったいほどに緩やかに進行し、そして、いつしかその詩の世界へと取り込まれていきます。                               表向きだけ取り繕ったサイバーパンクをやるのではない、あの世界の時間、あの世界の詩情こそを描くことこそが本質だと、ヴィルヌーヴは気付いていたのだと思います。
  そして私は、何度も繰り返しこの作品を観ていく内に、この両作品は『詩』であること、『詩人』の物語であることに気が付きました。

 『ブレードランナー』には、詩という存在が大きく寄与しています。物語の脚本を書いたハンプトン・ファンチャーの脚本は、誰もが詩のようだと言いました。そして、ファンチャー自身もそう言っています。ロイ・バッティは作中でウィリアム・ブレイクの詩を読み上げ、その死の際に思い出を『雨の中の涙』として、詩のように独白します。彼は『ブレードランナー』における詩人です。そして、『2049』での詩人はKです。物語は役人であるKが魂のままに動きだし、死に至ります。彼は、その名前の通り、カフカの『城』のKであり、カフカ自身です。誰にも認められることなく死んでいったカフカ。Kは言葉を紡ぐことはあまりありませんが、併し、その動きの一つ一つが詩のように美しいのです(不思議なほど、この2人のレプリカントの他にそのような動きを見せる人物は作中にはいません)。そして彼は、『青白い炎』を復唱させられます(当初の4時間版はこのシーンがさらに長かったのではと、評論家のポール・M・サモンが推測していました)。                                                                                私は『ブレードランナー2049』を見ていて、日本の童話作家、宮沢賢治の作品との類似点があるように思えました。                 その一つは賢治の詩である『永訣の朝』です。死の淵にある妹の頼みで、降り続く雪を取りに行く賢治を描いています。「あめゆじゅとてちてけんじゃ」という妹の美しい頼み事に、賢治は彼女の最後の食べ物として、雪を椀に入れに行きます。詩の中の一節、「この雪は どこを えらばうにも あんまり どこも まっしろなのだ あんな おそろしい みだれた そらから この うつくしい 雪が きたのだ (うまれで くるたて こんどは こたに わりやの ごとばかりで くるしまなあよに うまれてくる)」は『2049』における世界、そしてその怖ろしい世界の空から降る雪を掌に受け止めるKの姿を想起させます。                                     また、もう一つ、『よだかの星』におけるよだかにもKは重なるようです。よだかは全てから疎まれて、誰からも顧みられず、他の生物を殺すことでしか生きていけない。Kもまた、スキャナーと見下され、同族殺しの最下層として差別を受けています。愛も魂もありません。           そして物語の最後、よだかは本当に何もかもに拒絶されて、併し、自らの力で天高くまで飛んでいき、最後には、青い星、青い火となり輝き続けます。まさに、ウラジミール・ナボコフの『青白い炎』になるのです。 

 『ブレードランナー』が『フランケンシュタイン』、『ブレードランナー2049』は『ピノキオ』、どちらも人造の命の物語だと言われています。そうして、『2049』はより純粋な願いを描いた物語でした。宮沢賢治の作品もまた、純粋な願いを描いたものが、いくつもありました。          この作品は、SFの態を借りた童話なのです。冷たい雪の中の童話なのです。                                 ロイもKも死にましたが、観客の心に綺羅星として光輝いています。

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