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聖少女

1-1

 春の匂いに目が覚めた。隣で眠っていたのは、聖少女だった。
時計を見ると、夜中の二時である。寝苦しいと思えたのは、梅雨入り前の夏の暑さのせいだった。宗一は立ち上がると、湯殿へ向かった。途中、少女が起きるかと思えたが、ただ一言二言寝言を呟いて、そのままだった。
 湯殿は、桧の匂いに溢れていた。宗一が浸かると、なみなみとした湯が溢れた。
桧の香りが、湯殿にいっぱいだった。その匂いを嗅いで、温かい湯に浸かるうちに、宗一は起きていながら、白日夢にいるかのようだった。天井から、湯船に落ちる水滴が、細い雨のように見える。実際は、それほど落ちてもいないのに、そういうまぼろしだった。
雨のように見えるのは、目に疲れがあるからかもしれないと、宗一は目尻を、指先で揉んだ。水のはじける音に、宗一は耳をそばだてた。その音が、寝床にいる藍子の肌に、水が滑り落ちる光景を、目ぶたのうらに浮かばせた。玉のように艶やかな肌は、十六の乙女の特権であろうか。宗一は、藍子の事を思うと、身体のふくらむのを感じた。
 三条にある宿だった。古くからある建物で、少女が泊まろうと思えば、春でもひさがねばならない。しかし、藍子は、相手が違うだけで、傍目で見れば実際は、宗一とそのような関係だろう。
 宗一と藍子が出会ったのは、まだ藍子が十五の頃だった。宗一が教壇に登っていた、市内の女子校の、教師と生徒という間柄だった。市内でも有数のキリスト系の学校は、静謐な花園だった。
 宗一は文学を教えていたが、藍子は、その中でも、熱心な生徒だった。宗一は、世界の文学に通じていたが、特に好きなものは、日本、それも近代のものが多かった。藍子も、それらの類が好きだったのだろうか、趣味が合った。
「先生は、誰がお好きですの?」
「日本文学なら誰でも好きだけど、特に、川端康成ー。」
「聞いたことはあるけど、読んだことはないわ。」
「近代日本文学の代表格だよ。ノーベル賞を獲っただろう。」
翌日、宗一は、藍子に『みづうみ』を貸してやった。藍子は、授業中に本を広げて、教科書の下で読んだ。教壇から見れば、生徒たちの動きは、丸見えだったが、宗一は何も言わなかった。
 学内の中庭に、大きな楡の木があった。そこは、鳥の姿も見えないのに、年中鳴き声が木末から降ってくる。その楡の木の下に、白いベンチがあった。そこに座って本を読む藍子の姿を、宗一はいつも遠くから見つめていた。木漏れ日が差して、その輝きが少女の化粧だった。藍子は白い人形のようで、遠くから見つめていることが、宗一に幸福だった。紺色の学生服は、神子の衣装で、汚れがなかった。それが、藍子の美しさを、一等に引き立てて、宗一の炎を猛らせた。あの、日だまりの中に浮かぶ白い肌が、今も宗一の頭の中に、輝いている。湯気の中に、陽炎のように、藍子の横顔が浮かんだ。そうするうちに、それが、実体となって、宗一の前に現れた。夢だと思っていると、どうやら本当のようで、宗一はほほえんだ。藍子は乳房を赤く染めていた。湯気のせいか、身体が湿っている。
「洗ってやろうか。」
「あら。子どもじゃないんですよ。一人で洗えますわ。」
「洗ってやるよ。そうしたら、何倍も綺麗になるよ。」
「そんなこと言って、ただ私に触りたいだけなんでしょう。」
宗一が藍子の手を掴んで引き寄せると、藍子はころころと笑い声を立てた。笑い声は子どもだった。桶に湯を汲んで、藍子の頭にかけてやる。濡れた髪を絞ると、藍子はほほえんで、湯船へと足を入れた。水がまた溢れた。二人入ると、もう満員で、藍子は宗一に背中を預けた。宗一は、藍子の髪を手櫛で何度も洗ってやった。水を吸った髪の重みが、宗一の手に溢れた。宗一が視線を落とすと、豊かな乳房が、湯の中に沈んでは浮いていた。藍子は、時折息を吐いて、心地よさそうに目をつむっていた。
 藍子は、一晩で女になってしまった。女になってから、藍子の肉は、次第次第に色がくすんでいくように思えた。先程、一人湯船の中で見た水のまぼろしが、どこか遠くに思えたのが、宗一に不思議だった。シャンプーを湯ですすぐと、藍子の髪の黒いのが、宗一の目にはっきりと映った。
 湯から上がって、布団に戻ると、涼しい風が吹いていた。藍子は、何も纏わずに布団に飛び込んで、何が可笑しいのか、またころころと、笑っていた。濡れた藍子の髪を撫でながら、その化粧っ気のない顔を、宗一は改めて見つめる。裸になった少女は、先程まで宗一が見ていた顔とは、やはりへだてがあるように思えた。
 起きたのは昼過ぎで、宗一が起きると、もう藍子は制服に着替えていた。聖少女がまた、現れた心地で、宗一はほほえんだ。
「やぁ。」
「まだ起きないの?朝ご飯も食べないで。ここの朝食、本当に美味しかったわ。」
「そりゃあ高い宿だからね。」
「先生はもう学校に行かないの?」
「もう追い出されてしまった。」
「それは私のせい?」
「君の罪でもあるし、僕の罪でもあるね。」
「じゃあもう、心中しちゃう?」
「死ぬのは怖いね。死んだらもう君を抱けないだろう。」
そう言って、宗一は藍子を抱きすくめた。宗一の鼻腔に、藍子の髪が匂った。髪の匂いは、少女たちに溢れる教室だった。教壇に立つたびに、五十もの瞳が、宗一を射貫いた。その瞳のそれぞれに、さまざまな感情が溢れていて、宗一は、総毛立つ思いだった。黒髪の少女たちのいくつかは、まだ神を信じていて、宗一に尊敬のような感情を向けているようにも見えたが、またいくつかの少女たちは、もう男を知っていて、宗一への感情も、幾分かとげがあるようにも見えた。教壇に立つとき、その複数の視線に刺されるのが、宗一の悦びとかなしみだった。匂いが乱れて、宗一は、目の前で、胸をひらいている藍子の、その身体にも、同様のかなしみが宿っているのに心づいて、ため息をついた。
「先生、どうしたの。さみしそうね。お身体の具合が悪いんですの?」
藍子は、宗一の顔を覗き込んだ。その仕草が、かすかに芝居がかっているからか、宗一はまた不快なものを感じた。
「何でもないよ。少し疲れただけ……。それよりも、君は学校に行け。」
「先生はどうなさるの?」
下着を身につけながら、藍子は不満そうだった。宗一はかぶりを振った。
「僕はしばらくこの宿にいるよ。今日は町でも散歩して、夜になれば、また君を迎えにいくよ。」
「きっと。きっとよ。待っているわ。」
そう言って藍子は、静かにその脣を宗一の薄くなりかけた額につけた。柔らかく、濡れていて、冷たかった。宗一は、おだやかなかなしみに包まれた。紺地の学生鞄を手に提げてると、藍子は静かにほほえんで、そのまま襖を開けて部屋から出て行った。次の間の扉が、小さく閉まる音が聞こえた。宗一は、出て行く刹那の、スカートの裾から伸びた白い足の美しさを、こころの裡に反芻した。色の白いのが、あの花の美しさを引き立てていた。肉体的な希求を沸き立たせる、あの神の足は、見つめているだけでうっとりとするほどの恍惚を、宗一に与えていた。宗一は、暫くの間、藍子の足を思い出しながら、天井を見上げていた。天井の木目が、藍子の身体のそこここに重なる。美しい歪みに思えた。ノックの後に、襖が開いて、客室係が入ってきた。
「おはようございます。今日はよく晴れてますよ。」
そう言って、客室係はほほえんでみせた。柔和な顔で、優しげだが、どこか宗一に対して、不審げなところがある。
「今日も暑くなるのかな。」
「お天気予報ではそう言っておりましたわ。ここ数日、おかしいくらい暑いんですのよ。」
「温暖化のせいかね。春と秋が消えて、すぐに夏だ。」
「本当に。それから、雨もスコールが増えましたわ。」
「日本もやはりアジアだね。もう数年、数十年後には、四季の価値観が変わるかもしれないね。」
立ち上がり、坪庭を見つめながら、宗一はそう言った。苔むした灯籠が、日を受けて、萌黄色に輝いている。緑の小宇宙を見つめていると、そこに、学生服の少女が座ってほほえんでいるのが見えた。小さな小さな姿だ。高さ一尺にも満たない、学生の少女だ。それは、精巧な人形のように思えた。愛らしい姿だった。
「もうお昼も過ぎてますから、夕食まで時間がありますけど、それまで、何か冷たいものでも。」
「そうだね。酒はいらないよ。僕は下戸なんだ。」
「じゃあ冷やし飴……。」
「いいね。それをもらおうかな。」
客室係の方を見向きもせずに、宗一は灯籠を見つめ続けた。少女は薄くなって消えていった。しばらくすると、またノックの音が聞こえて、客室係が戻ってきた。手には盆があって、その上に、茶菓子と、冷やし飴とがおいてある。飴色の液体に氷が浮かんでいて、涼しげな音を立てた。
「今日はどこかにお出かけされますの?」
「そうだね。僕も京都は長いから…だから、京都の町はある程度は知っているんだ。面白いところはだいたい回ったよ。」
「あら、お客さま、京都の方なんですか。わざわざお泊まりに来てくださいまして。ありがとうございます。」
「京都人が京都の宿に泊まるのは変だろうね。」
「いえ……。うちは老舗ですから、泊まりに来るお客さまは意外と多いですわ。」
「京都にいると、寺や神社の有難みが無くなるだろう。僕も、実家から歩いてすぐの所に、大徳寺や金閣寺があるけども……。行くことはないね。一度行けば、それきりだな。」
そういえば、大徳寺には伊織と訪れたことがあると、話をしているうちに、宗一は思い出した。あの、灯籠の上の少女は、どこか伊織の面影があったような気が、今更ながらにしていた。また灯籠へ視線を移すと、先程までの光が消えて、苔の緑が影に沈んで、群青だった。気付けば、客室係は消えていた。それほど長い間、灯籠を見つめていたのかと、宗一はそう思った。

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