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獣姫

3-2

 猟銃を手にする。狩人の血が俺の中に流れているのか。獲物を追うことは古代からの男の本能を充足させる。アドレナリンが分泌し、闘いの中に身を投じる快楽に酔う。不規則に脈打つ俺の中の鼓動が、お前の顔を思い出す事で更に加速していく。娘を案じる父親という境遇に酔ってすらいるのかと錯覚するが、頭を振って血を沈める。東条よりも早くお前を見つけ出す。難波を狩る。その必要性があった。獅子猿の手がかり。俺は奴の特性を誰よりも知っている。奴は快楽の為に人を殺し、同時にひどく頭がいい。最悪の組み合わせだが、逆にそれこそが奴の虚をつく最大の弱点に成り得る。無線機器。下らない周波数集めに没頭した過去こそはないが、単純明快な文明の利器は何時だって俺の為に何かしらの役に立つ。警察無線を傍受する。飛び交う電波の闇に埋もれながら、俺は長年走らせたこともないオンボロのレガシーのエンジンを吹かす。エンジン音が高まるにつれ、俺の中の何かがスパークしそうな程に痛い。
「見つかるの?」
夏子が窓越しに運転席の俺に声を描ける。か細い声は不安と恐怖で埋め尽くされていく。俺はただ静かに頷いて、直ぐに戻る事を告げる。俺の言葉を聞いても夏子は表情を変える事無く、ただその瞳を曇らせるだけだった。
 闇を切り裂く様にレガシーが疾走する。深夜とはいえ、京都市内はまだまだ明るい。綺羅星の如く、街灯が瞬いている。人の匂いのする方向に奴がいる。予感が確信に変わる。無線から流れ来る電波には、巨大生物が五条界隈を疾走しているという警官の悲痛な声が乗っていた。馬鹿みたいに駄々漏れの情報。俺はその幾つかを掬い取り、取捨選択をしていく。二十名を殺した殺人獣は今も都会の闇を跋扈している。どこに隠れているのか。産まれてこのかた罠等知らない獣。殺人を楽しむのと同時に、飢えた腹も満たすのだろう。簡単な生き餌の連れる餌場を自ら放擲しどこかへ去るとは考えにくかった。ライオンとマントヒヒの間の子。DNAの遺伝情報としても、百獣の王たる肉食の本能に加え、グルメな雑種としての本能も受け継いでいる。人間の味を覚えた羆はその餌に執着するという。それならば、比較的容易に、かつ物量があり、そして憎しみの対象である人間を食わず殺さずと言った選択肢は初めから除去される。街だけが奴の狩り場。夜の生暖かい風が俺の頬を撫で、思わず股間すらも怒張しそうな程、この狩りに酔い始めていた。不可解な感情だった。獅子王もまた俺の息子同然だが、奴が余りにも俺からかけ離れてるからだろうか。ガキが産まれれば誰よりも可愛がる自信を持ってはいたが、所詮それはそうあって欲しいという願望に過ぎないのか。すまない、難波。俺は嘘をついた。俺は子供達からどう思われているのか。茫漠たる不安が突如俺の中芽生え、それを根拠の無い自信が押し返すシーソーゲームが頭の中で繰り広げられる。まさに悪酔い。自分で運転する車に酔っているのか、ヒロイズムに酔っているのか、悲劇の父親に酔っているのか。油断すれば口の中から溢れる血の味が俺の思考を鈍らせ、酔いをますます加速させる。
「五条通り。岡田病院前です。通報一件あり。獣の可能性高いです」
俺の酔いを醒ます警官の声が耳に心地いい。FMから聞こえてくるディスクジョッキーの子守唄。俺はステアリングを右に切り、堀川通を突っ走った。東条の私設部隊は山狩りを始める腹づもりだろうが、俺の勘が正しければ、間違いなく奴は人里を好むのだ。痛い眼を見ない限りそれは恐らく死ぬまで変わらない。岡田病院前は戦場の様相を呈していた。警官隊が数名、キープアウトと書かれたテープを張った場所の警備に右往左往している。奴が現れたのか。俺はレガシーの中から警官の挙動を逐一見つめる。警官共のホルスター。本来銃が納められて入るべき筈の場所は空洞だった。よく見ると奴らは拳銃を手にしていた。普段は鞘に納まったままの刀剣を放つ程の緊張感。奴らの顔に脂汗が浮かんでいる。レガシーを路肩に停め、猟銃を取り出す。自分の息子を扱うかの如く猟銃を弄び、整備していく。弾は二発。予備は二十四発。計二十六発の弾薬は俺の命の数。これが尽きた時、万策も尽きる。最も、二十六もの機会を自然界の獣が与えてくれるとは到底思えないが。事実上一発。サイレンの鳴る音。野次馬が口々に騒ぐ声が重なる。喧噪の中、俺は只管に待ち続ける。緊張感が高まっていく。おそらく俺の読みは正しい。奴はここにいる。乾いた銃声が聞こえた。一瞬で野次馬が静まった。数秒、沈黙が流れた後、銃声が立て続けに聞こえた。窓ガラスが割れる音がした。同時に人々が走りだす。レガシーの横を悲壮な形相で駆け抜けていく。俺は静かに左目を瞑る。何も見えない。聞こえるのは叫び声だけだ。サイレンが鳴り続ける。ふと煙の匂いに瞳を上げる。黒煙が立ち上っていた。煉獄から吹き出す悪夢を思わせるその光景に噎せ返る。俺は猟銃を硬く握りしめた。安心感に包まれる。今コイツを手放す事等出来る筈もない。闇を切り裂く手段はこいつだけだった。黒煙の横、何かが蠢いているのが遠目で見えた。気付くと人の気配は消えている。その中で唯一動く影。獣だった。獅子王がそこにいた。俺に気付いてはいない。奴は獲物を咀嚼していた。白衣を着ている。医者だろうか?看護士?それとも患者か。意味の無い問いを頭の片隅に追いやり、猟銃を持ち上げる。冷静なつもりが、獲物を前にすると途端に急激な武者震いに襲われる。不安感に襲われる。嘔吐感に襲われる。引き金に指をかけ、照準を合わせる。一発撃てば、数秒のロス。外せばその数秒で奴は俺の喉元近くまで駆け寄るだろう。二発。俺に与えられたチャンス。俺は狙いを定める。腕に力が入る。余計な雑念が脳味噌を掻き回す。俺は舌打ちを堪え、奴を見据えた。人の気も知らず、奴は旨そうに哀れな犠牲者の肉を噛み締め骨を砕く。同時に、奴は俺を見た。俺を見たのかわからないが、こちらを見た。獣の第六感。俺達人間も、時折手にする超感覚。眼があった気がした。瞬間俺は引き金を引く。獣は後ろに飛び退いたが遅かった。左肩を肉を抉ったのだろう。右のめりに後ろに吹き飛ばされる。すかさず二発目の弾丸を装填する。淀みない指の動きに俺自身驚く。レガシーのドアを蹴破り、外へ出ながら次の銃撃を備える。獣が起き上がる姿が瞳に映る。奴が大口を開けたのを認めた刹那、凄まじい怒声が耳を劈く。叫び声は高く高く、ノイズとなって俺の思考をかき乱す。気が気じゃない。一瞬瞳を閉じ、瞳を開ける。奴の姿がない。衝撃が右側からやってきた。肉を削がれた感覚が俺の身体を貫く。激痛。その一言だった。俺はレガシーに叩き付けられ、アスファルトに叩き付けられた。立ち上がれない。足腰に力が入らない。込めようとすると逆に抜けてゆく。満身創痍だ。猟銃がどこにいったのかわからない。次の瞬間、大きな影が俺を覆う。巨大な化物。獅子王は俺を冷たい眼で見据えていた。喉が鳴る音が聞こえる。それが俺自身が放つ音だとは、暫く気がつかなかった。トントン拍子に行き過ぎた。東条に啖呵を切って、直ぐさま獅子王を捉えた。俺はその一連の流れに酔っていたのか。俺が獅子王の顔を見上げた時、奴の瞳は何の感情も抱いていない様に見えた。俺に対して、怒りすらも覚えていないように見えた。無垢そのものの瞳。奴の巨体が大きく揺れた。俺の首元を何か大きな力が引き上げる。難波。体長が倍近くある獅子王の身体に蹴りを入れている。獅子王の顔が痛みに歪む。俺は振り向く。千。まるで犬だ。お前の変わり果てた姿。美しい人間の女の姿は今は昔。獣の領分が広がったのか、その姿の多数は白い体毛に覆われ、口からは牙が飛び出ている。俺が改造を施した後から更に崩れているが、それでもお前は変わらず美しかった。人と犬の間を彷徨う少女。唸るお前は俺を投げ捨て、レガシーに叩き付ける。凄まじい痛み。だがお前に悪気はないのだろう。人間の姿のままの難波。それに付き従う犬と人間の間の子のお前。時折四つん這いになり、お前は獅子王に唸る。獅子王はその体躯を震わせると、難波に噛みかかる。難波はそれをいなし、再び腹に蹴りを入れる。それとほぼ同時にお前が獅子王の首元に噛み付く。飛び回る蠅を落とそうとするかの様に、獅子王はお前と難波に翻弄される。闘いの最中、難波と目が合う。奴は俺を責めるでもなく、その視線を直ぐさま獅子王へと向ける。獅子王を何度も何度も叩き付ける。難波の拳が獅子王の腹を何度も屠る。血反吐を吐いた獅子王の落ちた顎に難波が拳を叩き込む。骨が砕けた音が聞こえた。血の味を噛み締めながら、目の前の闘いに眼を奪われる。難波とお前が獅子王を殺す予感に胸が溢れかえる。その矢先、耳を劈くあの叫び声が聞こえる。思わず耳を抑える。お前と難波はしゃがみ込み、その超音波で戦意を喪失する。途端に獅子王が笑みを浮かべる。初めて怯えの色を浮かべて瞳は今や狂喜の色に様変わりだ。刺々しい牙で構成された口を開けて、難波の右肩にそれを突き立てる。鮮血が迸り、難波が激痛に顔を歪める。片膝をつき青い顔で獅子王を睨みつける。俺は手を伸ばす。猟銃。俺の右腕にその硬い感触がぶつかる。瓦礫を背に俺は上半身を起こし、猟銃を構える。右膝をたて猟銃を固定し、奴ののど仏を狙う。指に力が入らない。俺は怯えているのか。お前がいきり立つ。渾身の力で獅子王へと飛びかかる。獅子王は難波を解放し、迫り来るお前に備える。引き金にかかった俺の指先に一寸ばかりの力が加わり、高い音が後をおって俺の耳に轟く。獅子王の左胸から真っ赤な鮮血が迸る。銃弾が貫通した感触。その感触が俺の右手に痛い程に伝わって来る。獅子王がよろめく。後ろでは黒煙が黙々と立ち上っている。俺は猟銃を投げ捨てる。次の弾を装填する力等残っていない。ふらつく獅子王と眼が合う。初めて恐怖と哀しみの色が、獅子王の瞳に宿っていた。初めて見る、獅子王の優しい瞳だった。獅子王の身体が音を立てて崩れ落ちる。しばしの間静寂が周囲を包んだ。聞こえるのは、俺と難波とお前の吐息だけ。肩で息をする声だけだ。サイレンの音がそれに重なり、立ち上る煙とその燻る香りが俺達を現実へと立ち戻らせる。
「久しぶりだな」
俺の言葉に難波はただ頷く。その瞳は獣のそれだった。今まで難波だと思っていた者は中身だけが著しく変容したのだと、その時になって初めて俺は気付いた。目の前の男は難波であって難波でないのだ。
「久しぶりです、先生」
しかし、口から吐き出された言葉は逆に難波そのものだった。難波そのものでそれ以外の誰かが介在する余地等毛程もない。憎まれ口も相変わらずだ。奴の話す言葉一つで俺の警戒心は一瞬で解かれていく。
「死んだのか?」
若干の躊躇いの後、難波は首を縦に振る。獅子王は絶命した。今際の瞳の色を見れば聞かずともわかることだ。また。俺の身勝手で命が一つ弾けていった。また一人子供をしに追いやった。俺は呪われている。俺は命から呪われている。
「獅子王の死体の処理はお任せします。どうせ東条が一枚噛んでるんでしょう」
そう言って難波は自らの肩を抑えながら立ち上がる。お前がよろめく難波に駆け寄り、その支えとなる。その仕草は犬のつがいの様に自然だった。何の変哲も無い夫婦の様に自然だった。過去の俺と夏子のように。
「待てよ、難波」
俺は空になった猟銃を拾い上げると同時に構え、お前達へとその銃口を向ける。難波の顔に動揺は一切浮かばなかった。
「空砲でしょう?」
「分からんぜ」
「空砲です。二発の銃声を聞いてる」
「お前が動くよりも早く弾を込めてぶち殺せるぜ」
俺の言葉に難波は口角を上げる。
「何も変わりませんね。先生はいつも先生だ」
「変わる訳ねぇさ。満身創痍なのはいつものことだ。俺は東条と約束してる。獅子王を殺し、お前を取っ捕まえる。千は俺が連れて行く」
「千ちゃんは僕が連れて行きます。僕たちは先生にお別れを言いに来たんだ」
俺は頭を振る。何を訳の分からん事をこいつはほざくのか。お前を連れて行く?俺の娘を連れて行く?
「そうは問屋が卸さねぇんだよ。いいからつべこべ言わずにさっさと千を解放しろ」
俺の言葉にお前が唸る。お前が俺に牙を剥いて唸る。その顔は連れて来た恋人の事を認めない親に対する娘の顔、ごく自然の表情だった。
「お前は騙されてんだよ、千。こいつはお前とは違う。お前はこいつの数倍の速度で歳を取る。老いて醜くなりゃあこいつに捨てられんだ」
まるで下らないメロドラマだ。このままこいつらは駆け落ちに走って心中か。下らなすぎて反吐が出た。だが、こいつらの眼は真剣だった。駆け落ちはもう終わってる。こいつらは心中でもする気なのか。不意に恐怖が腹の中で膨れ上がる。
「先生、僕はもう千ちゃんと一緒だ。それどころか、僕も千ちゃんも自分の身体がどうなっていくのかわからない。自分の事がわからないんだ」
犬の遺伝子を持つ二人は、この世に間違って産まれた異物だ。もう一つの異物の獅子王も既に死んだ。難波とお前も死に逝く定めなのか。俺は涙腺が急激に熱くなり、零れ落ちそうな涙を抑え込んだ。サイレンの鳴る音が徐々に近づいてくる。もうすぐここは人で溢れ帰る。野次馬達がしゃしゃり出て来る。ごめんだった。靴音が聞こえた。数人が歩いて来る。嫌な予感は的中する。東条。俺を尾行していた。俺達の闘いに高みの見物を決め込んでいた。
「わずか数日で更に見違えたね」
東条は嬉しそうにお前達を見て言う。東条は最初から俺がお前達の餌になる事を見込んでいたのか。東条の私設部隊の二人がニヤニヤと俺を見つめている。ポマードで固めてオールバックと鶏冠頭。吐き気を催す匂いを出しながら俺達を囲む。
「真田君。君の役目はここまでだ。君は解放する。夏子さんの命も保証する」
「腐れ外道が」
俺は東条を睨みつけた。こいつの目的は難波だ。お前だ。お前達二人を私利私欲の肥やしにしようと子供の様に眼を輝かせる。変質者。悪魔。俺は猟銃を東条へ向けた。
「自分が何をしているのかわかってるのか?」
東条はひどく落ち着いた声で話す。夏子が危ない。こいつのことだ。夏子の元にも何人か兵隊を置いて来たのだろう。ここでこいつを殺せば夏子も殺される。それでも俺は猟銃を下ろせない。様々な感情が俺の中で暴発しそうだった。
「保身に走れよ。それが君の身の丈にあっている」
オールバックと鶏冠が俺に銃口を向ける。お前達はお互いを支え合い、俺達のやり取りに眼を見張る。汗が頬を伝う。片方しか見えない眼が涙で霞んでいく。手が震える。東条がほくそ笑む。何様のつもりだ。何の権利がある。何故俺の家族が貴様に苦しめられないければならない。俺自身の悪徳を棚に上げ、俺は怒りに染められていく。俺は声にならない叫びをあげる。俺が引き金を引いたと同時、東条の肩から真っ赤な鮮血が飛び散る。お前がその牙を東条に突き立て、難波の爪がオールバックと鶏冠の顔面を切り裂いた。銃声が二発。俺は迫り来る痛みに覚悟を決めたが、何も起こらなかった。代わりに倒れ込んだのは難波だった。腹を抑える難波の指の隙間から、夥しい血が止めどなく溢れる。俺は声にならない声で難波を呼んだ。何度も何度も何度も難波の名前を呼ぶ。東条の硝子玉のような緑色の眼球が俺を見つめている。俺はその視線を無視し、何度も難波の名前を呼び続ける。お前が難波の元へ歩み寄る。お前は難波を抱きしめ、傷口を何度も舐めてやる。お前は俺を見上げた。その眼は僅か二年前の幼かったお前の瞳を想起させる。俺は難波の肩を支え、起き上がらせる。難波は俺にしがみついて来る。その力は以前よりも何倍も強力で、以前よりも何倍も震えていた。子供のように難波は俺を頼っていた。難波と支えてレガシーまで走る。お前は難波に寄り添う様に体毛を震わせて付き従う。端から見れば獣なのか人間なのかわからない程、お前のそれほどまでに変わりきっていた。時折そのその体毛と針の間から覗く素顔だけが残照として俺の瞳に眩しい。難波を後部座席に座らせ、その奥にお前がなんとか乗り込む。レガシーの車両は獣と血の匂いで一杯だ。傷ついたレガシーのエンジンを拭かせ、最大馬力を出させる。近づいて来るサイレンの音等どうでも良い。アクセルを床が割れる程に踏み込み、俺はレガシーを加速させる。ただ只管にレガシーを走らせ、お前達を安全な場所へと送り届ける事だけを考えていた。

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