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丘の上でヴィンセント・ヴァン・ゴッホは

つげ忠男はつげ義春の弟で漫画家だが、当初は既に漫画家である兄を頼って自分の描きかけの作品を見せたが、これは使えると思った兄にデビュー作を取られた。自分の描いた作品が、兄の作品として発表されたのである。

まぁ、代作のようなものだろうが、昔の小説家界隈は代作の話はゴロゴロしている。
例えば、川端康成なんか代作したりされたり多いし、有名な『乙女の港』は代作として名高い。本当には中里恒子の作品だと言ってもいい。
今も、所謂ゴーストライター、特に芸能人の本なんかはそういうのが多いので、本当には誰の作品かわからない。まぁ、面白ければ何でも良い。いや、書いている人はよくないのか。

つげ忠男は兄のエッセイの中でも、作品を暗いだの散々言われているが(いや、愛の言葉である。才能があると認めたから、仕事を辞めさせて手伝わせたのだ、然し、それもすぐに放擲する)、一般の漫画読者は相手にされていないだろう。私は一般の漫画読者なので、つげ忠男の作品に関してはよくわからないことが多い。描いてあることは理解出来ても、そこで語らんとしている言葉や情景たちの意味を図りかねている。

『丘の上でヴィンセント・ヴァン・ゴッホは』は、主人公である、絵を描くことが好きな潰れかけの会社の工員が、ゴッホの人生、画風、そして精神状況についてを語り、それに彼の鬱屈した日々が交錯するような作品で、彼は、なぜゴッホに自画像が多いのかを考え自問する。

ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは37歳で亡くなったが、不遇で、絵は生前に一枚だけしか売れなかったという俗説が半ば伝説と化している(実際には評価はされていた)画家で、ここで私が書くまでもなくウルトラに有名な画家だ。

彼の不遇性に関して、芸術家を志す人間はどうしてもシンパシーを感じてしまうようであり、何ならば、俺はゴッホだ、報われないのは天才だからだ、とすら思って、自身を仮託してしまう。
ゴッホはゴーギャンとの友情や決別、耳の切り落としなど、尋常ではないエピソードが多いため、やはり天才に憧れる人間には綺羅星のような存在である。

この、『丘の上でヴィンセント・ヴァン・ゴッホ』が語ることは、それぞれが読んで頂き感じて頂くしかない気もするが、つげ義春の漫画は傑作が多く、エッセイなどを読むと文章にも才があるが、つげ忠男はその兄をさらにフルスイングして置き去りにするほどに内容に掴みどころがない。

様々な仕事をしながら、時折漫画の道に入り、ガロなどでも執筆して、今度は蒸発したように所在もわからなくなり、所在がわかると、どこどこで仕事をしていた、という兄からの印象でもわかるように、芸術とは不可分でありながらも、芸術一本槍では生きてこれない不遇性、兄であるつげ義春も貸本漫画家時代から貧乏だが(お金が入ると描くのをやめて、お金が無くなるとまた描く)、然し漫画には愛されている。然し、漫画を愛しても愛しても、漫画から愛されないのは哀しい(無論、つげ忠男は愛されているが)。

小説家も一緒で、小説を愛していても、永久に発表できない人もいるし、たいして小説を愛していなくても、少し書いたら本になる人もいるわけで、これは神様の不条理である。

『丘の上でヴィンセント・ヴァン・ゴッホは』、というタイトルに、何故か、私は堪らなく惹かれてしまう。

この作品は、1968年の作品で、ガロに発表された。つげ忠男が27歳の頃の作品である。
つまり、若い頃、誰しもが持つ、若い芸術への熱い魂、世に作品を通して自分を問いたいという麻疹にまだかかっている頃の作品である。
今作は、主人公が部屋の中でゴッホについて思いを巡らしながら、口では語られないが、自分の未来をもまた、それに重ねて語っているように思われる。

27歳、若き時代。ゴッホはこの10年後、37歳で死んだ。





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