見出し画像

薔薇の踊子

1-22

 ビデオの撮影を二日後に、秋の学祭を五日後に控えた金曜日の夕方に、リハーサルをしたいと公武から連絡があって、恵はまた食堂でタピスリーを眺めながら、公武を待っていた。何人かの生徒たちがお菓子とお茶をしていて、服装はもう秋めいたのか、なすびと呼ばれる冬服を着ている子もいた。
(まだ暑いのにな。)
公武が来るまでの間、スマートフォンでまたニジンスキーの事を調べる。『牧神の午後』、『ジゼル』、『薔薇の精』、『ぺトルーシュカ』。様々なニジンスキーが、画面の中の白黒の中で踊っている。そうして、『春の祭典』に行き当たると、その、古代のロシア民族たちが、処女を生け贄にする踊りの奇妙さを思い出して、背筋が冷たくなった。このような振付を考えて、異教の踊りを振り付けたニジンスキーは、何を考えていたのだろうか。恵は一度だけニジンスキーのこの作品を観たことがある。それは確か、マリインスキー・バレエの公演で、NHKの録画だった記憶がある。鮮やかな色彩ではあるが、その色の極彩色なのも、おどろおどろしい。そうして、『春の祭典』はベジャールも振り付けている。これは、鹿の交尾からインスピレーションを得ていると、本には書かれていて、なるほど、そのような激しい、人間の情交を感じさせる振付である。野生の愛であろうか。そうして、そのベジャールの『春の祭典』の、レオタードと肉色だけの光景を見つめているうちに、眠気が襲ってきて、あの鈍痛は去って、また近づこうとしているのかと、なんとはなしに考えていると、人の気配がして、目ぶたを開く。目の前にいた公武は、シャツ一枚で、もう踊れるようだった。
「寝てた?」
恵は目ぶたを擦りながら、かぶりを振った。そうして髪を整えながら、公武を見上げた。
公武は、涼しい顔をしていて、手には紙袋があった。公武はそれを差し出して、まだ寝ぼけなまこの恵は、中に真白なレオタードがあるのに気付いた。それは、白よりも白く、足がフリルのようになっている。立って着ると、ワンピーススカートのようにも見えるように思えた。
「これは?」
「ジュリエットの衣装。先生に頼んだんだ。」
「先生?」
「国元先生。いい先生だね。君の衣装について相談したら、繕ってくれたんだよ。」
恵は、そのシルクのような肌触りのレオタードに触れている内に、突然、千夜一夜物語の世界にいるようで、そういえば、公武とシェへラザードについて話していたことがあったことを思い出した。
「ありがとう。素敵。」
「恵はその言葉をよく言うね。」
「え?」
「素敵。」
「だって、素敵だもの。」
恵は嬉しそうに、もう一度そのレオタードを撫でると、
「着替えておいで。サイズが違ったら、大変だろう。」
そう言われて、恵は食堂を抜けて教室に入ると、制服を脱いで、そのレオタードに袖を通した。鏡がないからどうしようと、化粧室に向かうと、はっと自分が花やいだのに、驚いた。化粧もない素顔なのに、脣までが朱く見えた。そうして、その脣に触れている内に、あらためて、もう十五になったんだと、そうして、踊り始めた頃は同い年のジュリエットが、もう一つ年下になっていることに思い至る。
 食堂に戻ると、もう公武の姿はなくて、ホールに出ると、壁画の前に公武がいた。明るい光が公武に差し込んで、壁画の青が白く染められていく。ジュリエットとロミオが向かい合って、もう恵には、公武しか見えなかった。
 公武が手を伸ばすと、もうその指先までもが、踊っているように、美しい円みを帯びた曲線を描いた。しなやかな腕に抱かれて、その支えに身を任せてピルエットをすると、くるくるくるくると、いつまでも回れそうに思える。ダンスが愛し合うことだとしたのならば、私は今、愛を詠っているのだろうかと、恵は考えた。
 考えるうちに、だんだんと白い明かりが増していった。その白い光の中に、青白い火が燃えている。魂が燃えている。そうして、その青白い火の中に、真白き薔薇が一輪、砂漠を背に咲いていた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?