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美的心中

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 時折、湯船の中の水が揺れる音に水滴の垂れる響きが重なり、それらの音の連鎖がますます思慮の迷宮へと私を誘っていた。主人が話す奇譚じみた絵描きの話は大層私の興をそそることになり、この女人を待ち受けていた運命と云うものに、駒姫を思うとき同様の切なさを喚起たらしめた。華村観音は明治三十六年に東京の日本橋人形町に産まれた。本名は華村富美と云う。父は東京の国立銀行に勤めており、人形町に構えたその邸宅というものは大層立派な日本家屋で、こちらは大正十二年の関東大震災で倒壊してしまったという話であるが、その折既に観音は東京には住んでおらず、大阪へと転居していたと資料には記載されている。それは父が大阪の銀行へ監査役として異動になった折、それに付き添って行ったからなのであるが、当時二十歳を迎えていた観音は生まれ育った家が跡形もなく焼けてしまったことに幾何かの思いがあったのであろうか。父が大阪へと転勤になった年は大正八年とあるから、観音はこの折十六歳であった。人形町の屋敷には女中を幾人も抱えていたが、生来から病弱の観音はそのせいもあってか、とかく鬱ぎがちの子供であり、父からは大層甘やかされていたそうで、口数も少なく、女中たちからは扱いの難しい娘として見られていた。また、観音が幼い頃、彼女がまだ三歳の折に女中が開け放していた二階の窓から落下し、足の骨を砕いてしまう事故が起きた。その折より観音は足が不自由になり、介護者無しでは外を歩くこともままならず、それがまた彼女の性格の陰鬱さになったことに拍車をかけたのである。であるから、彼女の日々の生活の全ては、広大な屋敷の中から外の景色を見つめ続けることであった。その結果、人を観察する事に長け、より一層扱いが難しい性格へと変じていく。父は彼女が幼い折より、仕事で方々を駆け回っており、屋敷を空ける日も当然多く、観音を構ってやれる事が少なかった事もあり、彼女は友人というもの、家族というものに対して何処か一線を引いたような、傍観者めいた視線も見せるようになっていた。彼女が絵に興味を持ちだしたのは、そういう寂しい日々と無関係であったとはいえないであろう。頑是無い頃には誰しもがお絵かき遊びに興じるであろうけれども、観音もその例外に漏れることはなく、三つの折には和紙に墨で鳥獣や草花の絵を描きだし、薄暗い部屋の中蝋燭の灯りにだけ照らされて延々と絵を書く生活を送っていた。幼子の描くものだからと、彼女の描いた物を其程重要視せずに、両親や女中たちはその遊びに耽る観音を放っておいたが、その間にも彼女の腕前というものは上達し続け、ある日、父が仕事を終えて帰宅すると障子越しになにやら揺らめく幻影が視える。眼を細めて近づくと、それが次第に獣のように見えてくる。いよいよ恐ろしくなって眼を細めたまま更に近づくと、巨大な烏が障子を破っている様が見え、父は手元にあった鞄を障子に向けて振り回さそうと右手を持ち上げたのだが、その折にようようこれが烏でもなんでもなく、ただ障子に描かれた墨の絵である事に気付き、また破れた障子は観音がほんの遊び心で自ら拵えた穴だと云うことを識ったのである。これを見て父は観音を呵る事などはせず、彼女を呼びつけると和紙と墨を与えて絵を何枚か描かせた。何度もいうようであるが、まだ頑是無い幼子であった観音がすらすらと筆を走らせて描いた絵は年相応というものではなく、熟達した絵描きが描くそれと同等と思える程の筆致で様々な鳥獣が紙上に再現されていたのである。これを見るに付け父は感嘆し、彼女に対して様々な絵具を買い与えて、より一層絵に対する精進を奨励したのであった。その甲斐もあってだろうか、彼女が十二を数える折には、人形町界隈では知らぬ者はいない程に彼女の絵は評判になり、その話を聞き付けた町のお上さん方々が歌舞伎役者の絵を拵えてくれるように彼女の屋敷にやってきては、その特徴を並べ立ててみせて彼女に絵を描かせるのであった。観音本人も頼まれれば仕方のないと満更でもない様子で頬緩しながらすらすらと筆を紙上に走らせる。こういう遊びのような仕事のような事も度々あり、その都度彼女の腕前はより一層巧緻に富んだものとなり、そうなると自然父も彼女をより本格的に日本画の道へと学ばせようと心持ちを固めたのである。大正五年の正月の時分、新年の挨拶回りを兼ねて華村家の屋敷にも様々な人物が尋ねて来るのであるが、近所の活版所や薬種商の旦那、果ては汁粉屋の若主人など多岐に渡る中に一人父の友人の紹介であるところの、京都の嵯峨よりわざわざ足を運んだ者があった。男の名は古谷清二といって、歳はまだ十八程であるが、見かけよりも幾分か歳を重ねたかのような落ち着いた風貌の若者であった。清二は観音の父のたっての願いで京都から東京へ移り、今後住み込みで華村の家に入ることになっていた。それというのも清二は日本画に関して天稟があると評判で、現に○○流などの京都の画壇にもその才が早くから見込まれていた程であったと云う。今後、本格的に日本画の勉強をしていくのであれば、師匠とも云える人物は必要であろうし、観音も十二を迎えたとはいえ、生来からの足の不虞故不自由をしている彼女の世話役も、幼い間であれば、併せて頼みたいと云う腹積もりが父の頭の中にはあったのであろう。しかし、片羽と云えども健常者と同様の感情を持つ女性に対して、歳がわずか六つばかり上の男を世話役として常時側に付かせるというのは、やはり観音の母としては心配ではあった。しかし、日本画に精通しており確かな才能を有し、且つ住み込みで東京まで出向ける者という条件に合致する人物はそうはおらず、間違いが起きないように女中連も常とはいわんが見張っているし、観音の足が悪いことを好機に狼藉を働くような男には見えんと、そう父は母を宥めたのであった。実際、画家にありがちな陰鬱な空気、浮世離れした箇所は折々見受けられたものの、清二はごくまともそうな非常に好感の持てる男に父からは見えていたし、母も、折角の好条件の家庭教師を見過ごす事は確かに惜しいと感じたのか、父がそうまでいうのであればと、清二が家に入ることを許可したのであった。

 清二が東京の華村家に住み込みを始めた当日には、早速観音と相対したと、この資料には書かれている。二人が婚姻関係を結んだのは大正十三年であり、これは清二が二十七、観音が二十一の折の事であるが、大阪へ転居後直ぐと結婚したと資料にはあった。此の資料には年表にように観音に起きた大事から些末な出来事まで大小関わらず書かれており、幾つかの出来事には注釈が添えられている。年表だけでA4サイズの用紙が八枚に渡っており、後半は幾枚かの観音が描いたと思われる作品とその題、当時の画壇の評論家などの寸評などが書き込まれており、これは熱烈な彼女の信奉者が書いたようにも思われる。主人からは書き手の概要までは聞き出せておらず、誰が書いたのかは現状は闇の中ではあるが、仔細に書き込まれたこの資料の類からは少しばかり度を超した執念みたものが感じられる。これも資料に書き込まれた事であるが、清二は観音と初めて出逢った折、その可憐さからすぐと眼を奪われ心も惹き付けられたと周囲の者に語ったという。観音の父に連れられて屋敷の奥に構える彼女の部屋の襖を開けると、清二の鼻に油の匂いが満ちていき、次いでその奥に雪のように肌の白い少女が長い睫の奥で輝く瞳をこちらに向けている様を見て、吉祥天のように美しいと、一言そう表したそうである。観音は、屋敷に籠もり続けて陽の光を遠ざけて来た結句、雪のように肌の白いそれこそ上臈型の女人になったと推察されるが、この一幕を読むにつけ、まだ十二という彼女の年齢を考えると、十五で首を取られた駒姫もまた、彼女のように朧げな幻影じみた白い女人だったのではないかと想像された。観音と駒姫の違いは、彼女は成人し、その生を謳歌したという一点であろうか。清二は観音に惚れ込んで、彼女に傅くかのように頭を垂れたという。清二の瞳には、桜の花びらのような唇と、蜜で潤んだかのような瞳、そして仄白い雪のような肌の観音がまさしく彼の言葉通りの吉祥天のように視え、自らがこの美しい女人の家庭教師として、絵の師匠としてここで生活していくことは非常に烏滸がましい事に思えると同時、彼に望外な喜びと誉れを与えたのである。立場上、師匠ではあるけれども、同時に彼女の介護も務める事は妙な矛盾を孕んでいる。けれども清二はこの役割に耽溺するかのように、翌日より観音をおひいさまと呼んで自らの職務の全うに努めたのである。最初、観音はこのように自分に傅き家来のようにおひいさま、おひいさまと呼んでくるこの男に奇妙な思いを抱いたものの、穏やかな清二の性格、何をいっても怒らず微笑むばかりの態度を崩さない事に大層機嫌を良くして、清二に対する警戒をすぐと解いていったという。然しそういう普段の穏やかな顔とは違い、絵の教授の最中には罵声が飛ぶ事も屡々あったようである。絵に関しては間違いようもなく天賦の才が清二にも備わっており、観音と結婚し彼女を支える事に徹していなければ、こちらも日本画の大家になっていたことは想像に難くないと評されており、加えて資料年表に書かれた大正五年より八年の四年間の間、即ち観音が十六を迎えて大阪へ転居するまでの間であるが、彼女には徹底した指導が行われていたと見え、資料に記載されている絵の、白黒の為か微かにその色合いの変化を確認しかねることは残念な点ではあるが、驚く程上達しており、それこそ彼女が十二の折に描いた鳶は頑是無い幼子の落書きに等しいが、十六の頃に描いた鳶は写真以上に精巧であり、鳶が存在する空間までもが彼女の筆で具現化されているかのように見える。清二は自らが学んできた技術をこの四年間の間に徹底して観音に叩き込み、観音も絵に対してだけは愚直なまでに清二を敬愛し、彼の言葉に従ったという。先にも記したように、指導の折には清二から罵詈雑言が飛び出る事も度々あったというのだが、それですら観音は反抗することもなくただただ盲目的に従い、彼から与えられる技術の習得に努めたという。観音の清二に対する狂的なまでの盲従は日増しに強くなり、それは即ち観音の絵画に対する信仰そのものともいえるのであるが、その絵に没頭する姿は周囲の者に、観音の背後に鬼気迫るものを視させた云い、恐らくはその信仰すらも清二の観音を育て上げる執念と比べると、実際は児戯に等しいものだったのではないかと思われる。それというのも、清二は絵の教授が終わると、途端憑き物が落ちたかのように柔和な顔付きに戻り、そうしてまた優しい声音で、おひいさまおひいさまと、観音を可愛がったという。この落差、先程までの鬼のような表情からからくるりと転じるその清二の行動が、奇妙にも観音に不可思議な愉悦を与え、二人の仲に流るるものをより一層強固に変えるのである。観音に絵を教え始めてから逆に清二は筆を置いてしまい、自らが描くことは極小になり、描いても手習い程度の嗜みに徹したという。それは生涯に渡ってそうであったと、年表の中の、何かボールペンのような筆致で書かれた注釈にあるのであるが、恐らくは屋敷の主人か他の誰かが記載したものであろう。それに拠ると、清二は幼い頃から美に関する執着や憧憬が人一倍強く、彼の思い描く美を体現させるための手段として様々な藝術の中より、自身に最も天稟のある日本画を選んだとある。これが真実であるのならば、何故絵を描くことを捨てたのであろうか。美への執着が強い男が、自らの美を産み出す事を何故放棄したのであろうか。恐らく、それだからこそ自身よりも天稟に恵まれた観音の絵を見るにつけ、自らの才能の限界を感じ、美を描くこと、藝術を作り出すことを彼女に託したのではないであろうか。そうすることによって、自らが追い求めてやまなかった美を、より深奥まで追求しようとしたのではなかったであろうか。

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