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獣姫

5-2

 真田は芸術家に転身した。事実、獅子猿事件の狂騒の後、真田は人形作りに没頭し始めたという。合成生物学の権威は自身の専門を捨て、新しい創作に活動の場を移した。素人同然だった男が、三十年近くのめり込んだ人形作りは見事に開花し、彼は前衛芸術家としての地位を固めた。もはや学問とは無縁の場所に自らの居場所を造り出したのだ。
 改めて部屋の中を見回す。大量の人形。人形。人形。どこまでいっても人形だ。ふと、視線を感じる。振り返ると、微かに空いた襖の奥から二十歳そこそこの歳だろうか、妙齢の女性が見つめていた。条件反射的に会釈をすると、女は微笑み会釈仕返す。直ぐさま女は襖を閉めて立ち去って行く。小さな足音が屋敷内に響き渡り消えていく。人形のような女だった。女の残した香りが周囲を漂う。襖が勢い良く開き、先程の眼鏡の男が顔を出した。
「お待たせしました。こちらへ」
そう言うと眼鏡の男はそのまま踵を返し、立ち去ってしまう。的場と顔を見合わせ、慌てて男の後を追う。相変わらず暗い廊下を暫く歩くと、陽の光が差し込む。小さな庭が見える。縁側に出たようだった。小学校の渡り廊下の様に、開放的な空間が広がっている。庭の奥には、何やら古めかしい蔵がそびえ立っていた。男は何も言わずに庭に下りて、その蔵へと向かって行く。俺達はただ男に着いて行くだけだった。男が蔵の前に立ち止まり、俺達の方へ振り向いた。
「ここが先生の工房です。勝手に先生の仕事道具や作品に触らないください」
「わかりました」
「あの、写真の撮影は?」
「構いません。ですが、後で使用出来るかどうかを私が確認致します」
「わかりました。失礼ですが、お名前は?」
「下村です。下村満月」
どちらかというと三日月だろうと、男のしゃくれた顎を見て思う。男は静かに蔵の扉を開ける。中は様々な道具が散らばっていた。ベニヤ板、粘土、木型、何に使うかはわからないが、そこここに置かれた道具類にここが工房であることを実感させられる。両壁に置かれたスチール製の棚には製作中の人形だろうか、木枠だけで中身が伽藍堂のものがいくつも並べられている。
「こちらです」
夢中でシャッターを切る的場の背中を押して、下村の後を着いて行く。下村は蔵の奥の階段を下って行く。蔵の奥に隠し階段とは、いよいよ持ってやはりここはマッドサイエンティストの根城なのだと実感する。階下から木と鉄と塗料、そして油の混じり合った匂いが漂って来る。煌煌とランプの灯りが照らす不気味な研究室の全容が見えたとき、同時にその奥に鎮座する雄々しい芸術家の全容もまた露になる。眉間に皺を寄せた顔。狼人の生みの親らしく、この男自身もまた狼のように獣性を剥き出しにした匂いを纏っていた。革張りのソファに腰掛けた真田はジロリと俺達を睥睨する。動画で見た姿より、実際にはいくらか若々しく見える。あれから五年も経っているというのに。
「よく来たね。まぁそこにかけてくれよ。下村。お客さんにお茶を。珈琲の方がいいかね?」
「お茶で構いません」
下村は頷き、部屋の横に設置されている簡易キッチンでお湯を沸かし始めた。
「この度は取材を引き受けてくださってありがとうございました」
真田は何も言わずに頷いた。その瞳は俺達を試しているかのような挑発的な眼差しだった。
「最近は来客も減ってな。漸く落ち着いたかと喜んでいた矢先に君たちからの依頼だ」
皮肉か、嫌みか。噂通り、真田は偏屈の塊のようだ。
「あんた方が聞きたい話は今の俺か、昔の俺、どっちだ?」
「ロエンを読まれた事は?」
「ない。興味ないからな」
「様々な芸術に関しての特集を行う季刊誌です。規模の少し大きな同人誌と言っていいかな。芸術と言ってもサブカルチャーのような軽い物から前衛的なものまで広義で取り扱っています。とくにうちは読者層が非常に特殊でして」
「ほう?どんな風に特殊だ?」
「強いて言うならば尖ってる。猟奇や特殊性癖、何でもござれです」
「下衆の極みだな。そんなゴシップ誌で俺の特集か」
下村が俺と的場にお茶を、真田に珈琲を手渡す。湯気の立っている珈琲を真田は冷ますことなく一気に飲み干す。
「先生の人形には好事家が多いと聞いています。だからこそ特集を組みたい。先生の活動目録、先生のロングインタヴュー、先生の生い立ち、先生の作品群。充実した紙面にしたいんです」
「なるほど。まぁ好きにすればいいさ。校正に関しての責任は満月にとらせる。俺は出来上がりを見せてもらえばいいよ」
「ありがとうございます。今日は宜しくお願い致します」
的場が頭を下げる。俺はゆっくりとカップに口をつけた。
「あんたは編集者。それじゃあ、あんたは?」
俺を試すかのような視線を真田が向けて来る。
「申し遅れました。彼は弊社と契約しているフリーデザイナーの四谷です」
「四谷です。宜しくお願い致します」
頭を下げた俺に対し、真田は微かに鼻を鳴らしただけだった。
「デザイナーか。大層な肩書きだが、何をするのかね?」
「主に紙面の割り付けです。写真や文章、コピー。それらを使用して一つの紙面をレイアウトする」
「四谷君は実に才能のある若手でして。うちの紙面も彼が担当する頁は好評だ」
「なるほど。紙面の割り付けね」
仕事内容を聞いた真田は興味を失ったかの様にぽつりとそう零した。俺は微かにプライドが傷つけられる音を聞いた。チリチリと、微かな怒りの様なものが俺の中でわき起こる。
「デザインという言葉が軽んじられているのは今に始まった事ではないが」
厭世観に満ち満ちた憎々しげで辛辣な言葉が真田から吐き出される。自身でも微かに自覚していた事だったかもしれないが、他者に言われると殊更に腹が立つ。
「お言葉ですが」
的場の顔が引きつる。俺自身、無意識に口をついて出た言葉に唖然すると同時、ええい、ままよと言葉を引き継ぐ。的場の顔を潰す覚悟だった。
「デザインという仕事が安く見積もられている事は私自身感じていますし、同意します。それでも紙面の割り付け作業は繊細なバランス感覚が必要な仕事です」
「繊細なバランス感覚ね。今その本は手元にあるか?」
的場が慌てて鞄の中からロエン夏号を引っ張り出す。画家の杉田白秋の特集号だった。筆文字で杉田白秋と書かれたタイトルが積み重なったカンバスの上に佇んでいる。真田は的場から本を受け取り、眠たげな眼でパラパラと頁を捲って行く。特集分、トータルで四十頁近くを俺がレイアウトした。白秋が出すいつ終わるともわからない修正に悩まされた。芸術家は大概の連中が寛容だが、白秋は自身のイメージに固執するタイプだった。自身がどう見られているのかを執拗に気にする。真田はどのタイプだろう?日頃仕事で向き合うクライアント達は素人故の我侭で俺を振り回すが、執拗に支配したがる芸術家もまた恐ろしい取引相手だ。
「俺が言いたいのは」
開いていたロエンを勢い良く閉じると、真田は俺を睨んだ。
「まさにこういうことさ。この程度でデザインだと胸を張れる」
「この程度とは?」
「怒るなよ。何もあんたを馬鹿にしてるわけじゃない。だが所詮は誰でも出来る仕事だろう?」
「誰でも?先程も言った様に紙面の割り付けにはバランスー」
真田は顔の前で手を振る。
「あんたの言うバランスってのは少しの色彩感覚と経験があれば誰でも出来ると言ってるんだ。いいか?俺の言うデザインは器に魂を乗せる作業さ」
「魂?」
俺の問いに真田は頷いた。手元の珈琲カップを持ち上げ、言外で下村に二杯目を所望する。
「そうだ、魂。仕事に矜持を持つのは一向に構わんが、その先に行くのが俺の考えるデザインだ」
「随分哲学的だ」
「多分にな。だから巷に溢れるアーティストやデザイナーの類いに何の関心もないんだよ。所詮は自己顕示と金だろう」
真田の言いたい事は理解できる。理解は出来るが、真田の語るデザイナーはもはや芸術家と同義だ。今の世の中にそのレベルのデザイナーは片手もいるかどうかだろう。
「要するに、先生の研究がそうだと」
俺は語気を強めて言った。真田の過去を蒸し返す。話は既にインタヴューの様相を呈し始める。だがとても挑発的なインタヴューだ。
「俺の研究。合成生物学か?」
俺は頷く。真田が顎髭を摩る。白い物が入り交じった顎髭は剣山の様に鋭く尖っている。
「あれもその類いだ。だったと言えるな。今も新しい生物作りに躍起になっている連中はごまんといるが、距離を置いていてね」
「別に合成生物学について聞きたい訳じゃありませんよ」
真田は静かに頷いた。的場はすっかり蚊屋の外だ。下村がなみなみと珈琲が注がれたカップを差し出す。真田はそれを受け取り静かに一口啜った。相変わらず冷ますつもりは微塵も無いようだ。
「もう一つの研究。研究と言っていいかわからないが。人形もその類いだと?」
真田は顔を顰めて中空を見据えた。その瞳はどこか座っている様に見える。
「人形作りは面白い。飽く事は無い」
「何故研究の土壌を変えたんです?僕には全く畑違いに思える。素人考えですが」
「畑違いと言えば畑違いだ。だが結局は同じ農作業さ。俺は命を産み出す事に興味があるらしい」
真田は膝に頬杖をつき応えた。その瞳は今度は確信に満ちていた。
「生命を産み出す。命に興味が?」
「俺が新しい命を作る。昔はDNA。今は人形。そこに器の違いがあっても行いには寸分の違いもない」
捕らえ所の無い話だった。真田は何か深い思慮を抱える様に、顎髭を摩りながら何もない空中を一心に見つめている。
「人形に命を与える。それは文字通りの意味ですか?」
「もしくは比喩か?それならば前者だ。生きているような人形を産み出す事は雑作も無い。生きている人形を作る事が困難なんだ」
誇大妄想を語り始める目の前の芸術家に、俺は引き込まれ始めていた。先程までの怒りは霧散していき、次第に彼に対する敬愛の念が浮かんでくるのが止められない。同時に、彼に対する嫉妬心も鎌首をもたげた。
「あんたは紙面をデザインしている。俺は人形をデザインしている。だがあんたがいくら紙面をこねくり回そうと、俺のしている事とは天と地の違いがあるんだ。目指すものにな」
「その命とやらを人形に吹き込む事は可能なんですか?」
俺の問いに真田は腕を組み悩み始める。
「三十年か。俺が人形を作り続けて来た時間。時折捕まえそうになるよ。寸での所で逃げられてしまう」

 一時間程の歓談と打ち合わせの後、次回に来訪する日取りを決める。話し疲れたのか、真田は顳顬を揉みながら、そのポーズを取ったまま眠ってしまった。どこからか下村が毛布を取り出し、真田にかけてやる。下村は俺と的場に一礼をし、そのまま玄関口まで送り届けてくれた。薄暗い廊下を玄関までいく途中、またあの女性とすれ違った。白いワンピースを纏い、首まで見える程にカットされたボブのヘアスタイル。女性は俺に一礼をし、的場は彼女の後ろ姿に見惚れている。美しい女性だった。玄関口でお礼の言葉を下村に述べる。下村は承りましたとまた一礼する。慇懃なのではなく、ただ下村の癖なのかもしれなかった。靴を履きながら、下村に先程の女性の事を訪ねる。
「先生のお弟子の一人です。名前は難波雛菊」
「難波ー真田さんの孫娘ではない?」
下村が頷く。
「狼人ですか?」
当然の様に浮かんだ問いを投げかける。下村は微笑んで廊下の奥を見た。
「おわかりになりますか?十四親等の娘です。今年三歳。人間年齢で二十二、二十三頃ですか」
廊下の奥へと消えて行った彼女の後ろ姿を思い出す。鮮明な程に瞼に焼き付いた彼女のうなじ。そこにはうっすらと白い体毛が生えていた。この日が、俺と彼女の初めての出会いの日だった。

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