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偶には音読してみたり



私はバカなので、小説を読み始めても、物語や描写がなかなか頭に入ってこない。
目が滑り、先程まで読んでいた文章の意味を忘れてしまって、あれ、なんて書いてあったっけと頁を戻ること屡々である。
そういう時には、音読してみるに限る。
声に出して読み進めていくのだが、そうすると驚くほどに頭に入る。
私は案外音読が得意なので、読み進めるときに噛むことはまずない。ダイアローグでは、演技をしてみたりする。なかなか楽しい。

谷崎潤一郎も言っていたが、音読は文章を書くにおいても非常に有効な勉強法である。声に出して読み上げると、リズム感や、文章の突っかかる箇所などが驚くほどに可視化される。耳で聞き、頭の中のそれが描かれる。
文字は静謐だが、言葉を閉じ込めたものであるから、読み上げると途端に生きだしてくる。囁いてくる。
楽譜と同様、言葉の連なりもまた、音楽である。耳に心地よい文章は、
目にも心地よいし、美しい。

そして、読めない漢字が現われると、それはその場で調べるようにしている。そうして、付け焼き刃でも良いので、小説に使ってみて、自分の血肉へと変えていく。よく、難しい漢字を使わないのが文章の上手い人だと言うが、まぁ、意図的ならばそれもありだが、それは書いている人が言うことであって、読み手が言うことではないなぁと思う。自分の勉強不足、読解力を棚に上げるわけである。

よく出来た文章は、その言葉が口からこぼれ出たときにこそ、
輝きを増すように仕上げられている。文豪はそれを得意としていて、一つのものに対しても幅広い選択肢を持っている。
私は小説は文章芸術だと思っているので、目で見て美しく、音で聞いても美しく、そうして、美しい一瞬、或いは驚嘆すべき一瞬をそれによって再現されていたら、それはもう勝ちだと思っている。

音読は、目で追うよりも、何倍も時間もかかるが、なかなか物語に入り込めない時にはおすすめだ。

ちなみに、私は谷崎潤一郎はそんなに好きではない。

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