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獣姫

3-1

 先刻の夕立が嘘の様に、夕陽が美しく街を照らしている。眼を細めてその光景を眺めていると、とある既視感に囚われる。ガキの頃から散々見てきたど田舎の夕暮れ、夕焼け。夕陽にまつわるノスタルジーは数え上げれば切りがなかった。定期的に鈍痛に襲われる右顔面を摩りながら、俺は物思いに耽る。奴らは何処ぞに消えてしまったのか。お前と難波。そして獅子王。消えてしまった俺の子供達に対し、噎せ返る程の憎しみと哀しみが交互に現れては俺の心を蝕んでいく。奴らを何の為に造ったのか。俺は何の為に合成生物学にこの身を捧げ続けて来たのか。その全てが虚しく静かに俺の内面で崩壊していく予感。初めはただ好きだっただけだ。ただただ楽しかった。ただ研究と、新しい生命が産まれ落ち、その生物が紡いでいく筈の未来を夢想する。それは全ての人間が喜びに溢れた世界だ。俺がそれを創造する筈だったのだ。だがその全ては瓦解した。愛する娘がその身を持たずにこの世から零れ落ちた時、俺の人生は究極的に違えてしまったのだ。愛していた妻はこの数年で急激に老いた。その責任は全て俺にある。彼女自身、哀しみの置き所が見つからなかったろうに、俺の為に懸命に尽くしてくれた。それは逆に俺達を蝕み続ける楔となっただけだったのに。家族を喪い、弟子すら消えた。
何より、最も唾棄する最悪の人間の手を借りて今を生きている俺自身こそが一番の驚きであり、失望であり、悲劇だった。目の前に浮かぶ夕陽はあまりに鮮烈に俺をあざ笑うかの様に煌煌と紅く部屋を照らしている。小さな書斎にはガラクタ同然に積まれた剥製達が恨めしそうに俺を眺めている。出来損ない共がと悪態をつくと、俺は重い腰を上げ邸内を練り歩いた。蜩の鳴き声が耳を劈く。縁側に出ると、庭で地面を眺めている夏子が見えた。何をしているのかここからでは見えないが、下を向き何かを呟いていた。東条への恨み節か、それとも俺への恨み節か。夏子は十は老けたかの様に見える。一年前、俺達の子供を身籠っていた夏子には既に母性が溢れ、その横顔は聖母マリアの様だった。端から見ればお笑いかもしれないが、一時期の俺は本当にそう思っていた。彼女は慈悲の天使の様に美しく、気高い横顔に毎日恋に落ちた。今ではその面影も無い。俺達の間に産まれる筈だった命が消えたその時、砂時計をひっくり返したかの様に彼女の時間が急激に進み始めたのだ。
 我が子が死に、再びその命を経てから暫くの間、寒々とした灰色の空を俺は一人で歩き続けた。嵯峨嵐山界隈を、只管に歩いた。家から一㎞程歩いた頃だろうか。点在する土産物屋に並んで、小さな寺へと続く石段が姿を現す。化野念仏寺には無縁仏が山とある。今まで幾千の水子が供養されてきた場所で、俺は祈り続けた。科学を志し、神仏に唾を吐いた時からあの日まで寺に足を運ぶ事等有り得なかった。だがあの時の俺は猛烈な寂しさと喪失感で心に穴が空いたかの様な、まさに出来たばかりの空洞に参っていた。神仏に縋りたい一心だった。何故健康に産まれて来てくれなかったのかと俺は子供に悪態をつき、神仏に呪詛を吐いた。そしてさめざめと泣いた。それは、今まさに夏子に抱かれる娘の未来を思ってからの涙だった。
 明くる日から俺は夏子とお前を置いて毎日欠かさず化野へ足を運んだ。俺が自ら産み出した命に対しての罪悪感から逃げる為の逃避だったのかもしれない。眼前に映る無限にも続くかのような石仏と石塔の山は、俺が今まで殺して来た全ての生き物への供養と同時に、責め苦を具現化したかのように俺の眼に映る。木枯らしが吹きすさび、俺の頬を撫でては去っていく。土と、石と、俺とだけが静かに此所に立ち尽くす。俺は自分の罪が浄化され、お前が成仏して極楽浄土へと旅立てているか祈り、尋ねる。どこか、千と水子のお前が重ならない。
 
 俺の中に渦巻く違和感は、まだ数ヶ月のお前が歩いた時に崩壊した。身体の弱いお前が懸命に小さな足で立ち上がろうとし、こける。四回は繰り返されただろうかその光景を、気付くと俺は夢中になって見つめていた。お前が漸く自分の力のみで立ち上がり、俺を見て笑った時、俺の中で凝り固まっていたお前への蟠りが氷塊した。愛らしいお前を抱きしめ、水子とお前が重なったのだ。お前は俺の子だと俺は涙を流して抱きしめた。
 夏子が徐々に衰えていくのに比例し、俺の中の狂気の萌芽が育ち始めたのを心の奥底で感じ始める。狂気同時に、焦燥感とも呼べた。俺は、お前の命が儚く散り得る事への恐怖が日に日に肥大化していくのを実感していた。早急に対策が必要だった。お前の命を長らえさせる手段を何としても手に入れなければならない。見る見るうちに大人へと成長し、日に日に大きく成長していくお前の姿は俺には眩しく、また恐怖でもあった。手から零れ落ちていく砂の様に、お前の命が俺の掌から零れ落ちていく悪夢に毎晩魘される。学術的に自身の行った偉業の余韻に浸る間等露程も無く、ただお前の老化を止める術を模索する。不老不死ですら一時真剣に考えた。不老の命。不老の肉体。そんな物はこの世の中に存在し得ない。万物は流転する。それは命を造り出した今でも変わらぬ真理だと俺は理解していた。時だけが無情に過ぎていく。暫く続く研究の後、その他の合成生物から人の肉体を産み出す細胞を造り出す事に俺は着目した。以前難波が揃えたデータその一式を洗う。今まで造り出して来た、デザインし続けて来たDNAを生きた検体に注入する。切り取った細胞を培養し、それに移植する。全て失敗作を産むだけの徒労に終わった。数年前に袂を分かった東条を思い出す。奴の顔に張り付いた不気味な笑みが俺を幻惑し、誘惑する。奴の配下に身を捧げ、目的を達成する為の資金を得る。それは一番現実的な策に思えたが、同時に一番俺の自尊心を傷つけ、同時にお前の存在を奴に気取られる可能性を孕んでいた。それは嫌悪感で到底受け入れられる考えではなかった。
 延々と続く研究は俺を心底失望させ、絶望させた。俺に出来る事等何もないのだと、自分の無力さを思い知らされるだけだった。徒労と混沌に埋め尽くされた日々の果て、俺は一つの違和感を感じ取る。いつものように蔵への階段を降りていく。今日も生き物に成る事が出来なかった出来損ないの死骸の山を見るのだ。だがその日の蔵の様子は違っていた。獣の腐臭がした。が、同時にそれが生きている獣の放つ呼吸からなる息の匂いだと気付く。俺はケージの中で俺を見つめる生き物と遭遇する。その瞳は震え、怯えていた。初めて見たお前の瞳を思い出す。罪悪感がビッグバンの如く俺の心で破裂し、たちどころに宇宙を形成する。その中には当然好奇心の惑星が山と浮かんでいた。自分が哀れだと感じた。どうしようもなく罪深い俺を地獄行きだとその時、心の底から思った。俺は獣の観察を続けた。獣は怯え、震え、弱っていた。俺に出来る事はこの獣のデータを採取し、次の獣を造り出す為の情報収集、そして幾分かの延命措置だった。細胞から取れるデータはお前の器を造る上で必要な情報が豊富に込められていた。この時俺は、確信犯的にお前の器が出来るのは目前だと感じていた。だが、そうは問屋は卸すまい。俺はデータ採取において幾つもの壁にぶち当たる。俺には中々解く事の出来ない問題がそれこそ山とあった。俺はデザイナーだ。だが、それは分析された素材を基に組み立てていくことを得意とするということだ。時間がない。だが時間がかかりすぎる。難波。思い出した名前は俺に懐いてきた学生。頭の回転が早く、賢しい勇ましい男だった。ゲノム工学。染色体工学。核酸化学。それら全ての分野で奴は目覚ましい研究をしている。俺を補うのは奴だと、半ば神の声が聞こえたかのように、まさに天啓かのように俺の頭の中でその考えは爆発した。気付けば俺は奴に手紙を書いていた。俺はフランケンシュタインの怪物を造った。それは本心からお前ではなく、あの獣の事を差していた。難波は妙な男だった。俺の研究にあそこまで興味を示したのは後にも先にも奴くらいだろう。
 その難波がお前に惚れたのは俺には些かの問題もなかった。お前が通常の女性として成長し、大人になり、恋に落ちる。その流れを問題なくまっとうするのであれば、俺にとってこれほど嬉しい事はない。だが、事実は違う。お前は人間よりも早く老い、早く死ぬのだ。お前が恋をしてもその思いが成就する事はない。誰よりも美しく成長しようとも、お前が愛する者の腕の中で恍惚とした時間を過ごそうとも、それは一時の甘美な夢に過ぎない。お前は他者の何倍もの早さで幸福を消費する。それはあまりにも悲惨で哀しいことだった。だからこそ、難波がお前に与えた喜びは俺の中の不安を増幅する加速装置以外の何物でもなかった。難波がお前に対して本気だと端から見てもわかるからこそ、より居たたまれなくなる。お前の辛さ苦しさを分かってやれるのは俺に一人なのだと自分では本気で信じていた。いつかは難波はお前の元を離れていくよと言ってやりたかったが、お前の気持ちも痛い程に伝わっていたから、俺は何も言う事は出来なかった。器を造り、お前を移す。それが砂上の楼閣に等しい行為だという事に気付いていたのかもしれない。俺は泣き言を打ちまけたくなる衝動を抑え、一人肩を震わせていた。
「どう責任を取るんだ?」
東条とその私設兵団。俺を囲んでにやついた笑みを浮かべている。東条だけは違った。冷徹な瞳で俺を見据えている。奴にとって何物にも代え難い快楽の道具が消えた。それは奴を激怒させることに等しい。何度も俺は東条の要求を反古にして来た。奴の堪忍袋の緒が切れるのは容易に想像ができた。鈍い音と共に目の前に閃光が走る。凄まじい激痛は後から来た。顔面を張られ、俺の傷ついた右顔面は悲鳴を上げていた。出来立ての瘡蓋を一気に剥がされたかの様な痛み。口の中がズタズタなのだろう。血が溢れ喉の奥に詰まる。鼻腔が鉄の匂いで満たされる。
「どう責任を取るつもりだと聞いている?」
東条は俺の髪を掴み顔を持ち上げる。奴の薄い緑色の瞳がキラキラと光を放つ。
「獅子猿は殺す。千は取り戻す。難波は生け捕りだ」
俺は溢れ出る血を飲み干しながら応える。東条は俺の髪を放すと冷徹な目つきで俺を見下ろした。
「君に出来るのか?失敗ばかりだろう?」
奴の侮蔑の言葉等耳を素通りだ。俺は頷き、奴を睨みつけた。
「千は俺の娘だ。俺の命に代えても守るさ」
俺の言葉に東条は沈黙を決め込む。俺の言葉の真意を測りかねているが、偽りの無い真実には何の曇りもない。
「この際誰だっていいんだ。お前を玩具にしても然程問題ないんだぜ」
東条の言葉はヤクザそのものだったが、俺はその言葉に口角を上げる。下らない挑発。この変態が力を持つのは事実だが、かと言って今の俺にその脅し文句は何の価値もなかった。
「何を笑ってる?」
「いやね、てめぇは糞野郎だと思ってね。糞外道だと。難波の言う通りだが…だが俺は約束は守るさ」
俺は立ち上がり、奴の顔面に唾を吐いた。奴は面を喰らう事も無く、顔面に受けた俺の血を舌で舐めとる。
「娘の命が何よりも大事か」
「当たり前だ。もう出発する。俺は誰よりも奴らを知ってる。奴らの癖も。奴らの行動パターンも。全てを。必ず奴らを捕らえるさ」
俺は奴に啖呵を切り、血塗れの唾を床に吐き出す。東条は笑みを漏らすと、取り巻き連中を連れて部屋から出て行った。夏子が俺の後ろでさめざめと泣いている。俺は夏子を泣かす様なことばかりしている。俺は生きているだけで大量の罪を産み出している。そんな自分に嫌気ばかり差す。俺は手を伸ばし、夏子の背中を摩る。夏子は俺を恐れているのか、微かに震えていた。それでも俺は手を止める事は無く、いつまでもいつまでも夏子の背を摩り続けていた。

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