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破壊の先にみえたもの!

YamaFamily

今日は楽しい、今日は何もする気になれない。
そんな気持ちの波がものすごい極端にでる。
いわゆる適応障害と軽度の鬱に私はこの1年かかってしまっている。

仕事をバリバリこなしていたときは、周りに鬱の子がいると、弱い奴、考える暇があるやつ。と、勝手にレッテルをはっていた。
ところがある日突然、自分の中でプツっと何かが切れた。
頑張るのもう無理!って。
そしたら見事に何もする気にならなくて、自分の世界に引きこもってしまった。営業ウーマンバリバリで、なんならうるさいくらいよくしゃべるタイプだったそれまでの私とは反対で、人と会話をするたびに手が震え、動機が激しくなり、話したことすべてに言わなきゃよかったとか、なんであんなこと言われたんだろう。。。となにかしら自分を責めて、結局眠ることが出来ない日を繰り返した。
自分が何をしたいのかさえ分からない、自分がこの先どうすればいいのか、自分ってなんなんだ!自問自答する日はまだちょいちょい続いている。

治療には少なくとも休みが必要ということでしばらく仕事を休むことにして、メンタルクリニックに通うことにした。
当初、両親に相談すると、
「仕事を休んでまで治療に専念しないといけないのは弱い人間で、あなたは親としての責任感が無さすぎる!」
と、一方的にダメ出しが始まり、どうするの?攻撃の嵐の末、私たち親子はもう互いに家を行き来することも、連絡を取り合うことも一切やめようということになった。

思い返してみればある程度の年齢からは親の思う通りに生きてこなかった私が、いまさら親に甘える方法などわからないわけでして、親からしたら困ったときだけ頼ってくる都合のいい子に見えたわけだろうな。

でもさ、内心は仕事を休むことになり、タイミング的に娘も同時期に不登校。もはや私の精神はボロボロでなにからどうすればいいのか日々パニック。2人が落ち着くまで家にいればいいよ!とか、話したいことがあればいつでもおいで!なーんて優しい言葉をまんまと親に期待したのだ。

なんで同じ親子なのにこうも違うのかな?
お互いに話し合いがこじれた一番の原因は何なんだろう。
きっとそれは幸せとは何かの定義が違う。
この答えが見事に違うことで結果的に関係性がこじれてしまったのだ。そこで私は、これまでの両親と私の関係性を振り返ってみることにした。

買い物は高校を卒業するまで親意外とほぼしたことがない。
お小遣い制ではなく、欲しいものは都度都度申告制だった。
門限は高校を卒業するまで17時。遅くても申告すれば19時。
そのためまともにバイトもしたことがない。
塾は遊ぶ奴がいくところ、学びたいなら家庭教師で十分!と、塾には行けず、家庭教師には納得せず、常に家庭教師が辞めるようにしむけて、嫌がらせをする子だった。(家庭教師に悪気はない)もっぱら成績は平均点6点とか普通にあったな。

うけるのは花火大会のデートに初めて行った18歳のとき。
かわいいからと母が浴衣の帯に鈴をつけてくれた。
たまたま立ち寄ったコンビニで、ばったり母と姉に会った。
「あの時はびっくりしたわー!」
と大人になって思い出し話をしたら、母と姉が真っ新な目で
「本当は後をつけていたのよ。鈴は見失わないようにつけたことに気づいてなかったの?」
といわれたときはさすがにゾッとした笑
どんだけ信用度ひくいねーん!笑

そういうちょっと過保護な家で育ったのが私だ。

高校3年生になると修学旅行でアメリカにホームステイに行ける。姉も行っていい経験をしたということで私もいかせてもらえることに。
だが、姉の行ったステイ先と私のステイ先はまさに別ものだった。
そこで私の人生は変わった!
飲酒運転万歳!化粧万歳!恋万歳!!みたいな、絵にかいたような青春万歳生活。とくに親に向かって言いたいことをはっきり言うなんて、私からしたらとても衝撃的だった。でも毎日親子はハグをしてすごく仲がいい家庭だった。
たった2週間の出来事だったけど、私には衝撃的過ぎて。
帰国後、私は元々ブラックミュージックがすきなこともあって(夜な夜なこっそりウォークマンで聞いている子だったな)、絶対に自分でまた海外に行く!と、決めた。そして自分がやりたいことは親に何を言われてもやる!
そこから怒涛の変化を遂げていくのだった。

年に1回程度だったけど、海外に行くことで自分の見える世界が少しづつ変わっていった。そうして日々私の求める幸せは、大切な人と笑って暮らすこと。それが私の望む幸せだと確信をつくようになった。
たくさん恋をして、たくさん遊んで、欲しいものも自分で働いて手に入れて、たくさんの友達や仲間が出来た。

そして私は結婚をした。2年後子供が生まれた。
だけど子供が生まれて間もなく、
「君とは金のために結婚した。君にお金を借りていたから。結婚すれば返さなくていいと思ったし、お祝い金ももらえる。君と結婚したら一生ヒモ暮らしもできると思っていたけど、子供が出来た。僕は子供はおろしてほしかった。子供がいたら好きなことが出来なくなるから。でも勝手に産んだのはあなたで僕が望んだわけではない。それでも親になったのは事実なので他人同士この子のために家族でいましょう」
そういわれたときに、一機に何かが崩れた。涙すら出なかった。
人間ショックすぎると、悲しいとか怒りとかの感情がわかないものですね!
きっとその時から何かしら精神の破壊は起きていたんだろうけど、それでもそんな奴と家族として同じ屋根の下、子供のためにやり直す方法はないものかと互いに3年間冷戦が続いたが、愛がない人とは暮らせない。
これがやっぱり答えとなり。離婚に至った。

離婚を告げに親のところに行った際、
「離婚すると思った。結婚は始めから反対だった。でも母子家庭は経済的に厳しいでしょうに、何とか我慢して謝って離婚を取り消してきなさい」
そういわれたのを覚えている。

両親からしたら、子供には両親がそろっていることが幸せで、経済的に女は食わしてもらう立場なんだから我慢はつきもので、結婚生活とは愛とかそんな次元で決めるものではない。そういった考えなんだろう。
求めるものはわかる。でも自分にうそをついて暮らすことの切なさを私はこの結婚生活の中で知った。自分への自信すら、もはや皆無だった。

それから一生懸命働いた。
子どもが欲しいと願うもの、食べたいと願うものを我慢させることのないように!他の家庭からも母子だから!と馬鹿にされないように必死だった。
けど、必死のあまりまた自分を見失った、気づけば我が子の精神にも限界がきていることにも気づけなかったのだ。
ものすごく後悔した。自分を追い込んだ。
自分が目指した愛のある暮らしは、稼がなければ!という概念に侵されて、結局自分がいつの間にか幸せを不幸せに変えてしまっていたのだから。

精神が破壊したことによって、時間とおいう贈り物をもらえて、ようやく目を覚ますことが出来た自分。
この気持ちを分かって!と願ったところで、幸せ=お金とか、見えるものだけで判断を下したがる概念の相手とは話が合うわけがない。
心がないもの。わたしにとったらそれこそが何よりも不幸せと感じてしまう生き物なのだ。

いま、我が家は生活がギリギリできる状態の収入を保険で賄っている。
それでも、仕事に追われて生きていた時期に比べたら子供との時間がゆっくり取れて、言い争いをするときもあるけど、互いに言いたいことを言い合えていて、日々幸せを感じている。
今日はこれが安い!とか、これにこの値段を使ったらこれが出来なくなるからこれにしよっか!とか、子供と話しながらなんでも決めていく。
小さな事がものすごく幸せに感じているのだ。
この小さな幸せの大きな大切さを日々教えてくれているのは紛れもなく我が子だと思う。

私が求めていたこと。人生の心のリセットがここにきてようやくできてきている。自分の周りが求める幸せの在り方に憧れて、そんな周りに認めてもらいたくて、無理をしたからこそ起こしてしまった精神疾患。
人が考える幸せは自分にとっての幸せとは限らない!

胸を張って生きていこう。
自分らしく生きていこう。
自分の人生は自分で決めるしかないのだ。
親や周りの求める私!に、なれなくても、私は私が幸せだなと思えることが大切。

お互いに元気に長生き。結局求めることはだれしも同じ。
求める細かい部分がいくつか違うだけの話。
求めあわなくても、互いに互いを認め合えばいいだけの話。

そんな愛の形がしっくりくる我が家です。
拝啓;両親様 今日も私と娘は元気です。

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