僕がエンジニアをやる理由
こんにちは。Satoshi Nitawaki です。
今年は自身のキャリアについて考える機会が多くなりました。その中で、あらためて自分がエンジニアをやる理由について整理をした上で今年を締めくくりたいと思います。
ポエムを書こうと思いますので、キレイな文章ではないと思いますが、思いのまま(記憶のまま)を書きますのであらかじめご了承をばよろしくおねがいします🙏
なぜ、エンジニアを始めたのか?
僕がエンジニアという仕事を初めて知ったのは、今振り返ると高校生で「13歳のハローワーク」を呼んだときだったかもしれません。(黄色い本を呼んだ記憶があります)
本を読んだ当時は、高校時代に大学進学を目指す中で先生方との人間関係で悩んでいて、不登校から抜け出した時期でした。
人間関係に悩む高校時代
僕は高校では工業高校に通っていて、建築を専攻していました。ものづくりが昔から好きだったんですね。
大学進学も、建築系の学科を目指し、まずはAO入試を受験予定でした。
この、AO入試がトラブルのきっかけとなってしまいました。
工業高校だったので、建築系の専門的な知識を持った先生方と、普通科にいらっしゃるような基礎科目担当の先生方がおられました。
AO入試では自己推薦文が一次試験です。「専門的な知識」を「国語力のある文章」でアピールすることが求められました。
"国語の先生"は文章の構成をインプットしてくださり、"建築の先生"と僕はその構成を踏まえた文章を、夏休みを使って練り上げました。
1ヶ月かけて作った文章を持って"国語の先生"の元へ、「これで提出しますよ」の確認に見せにいったのですが、文章を見せたとたん、笑顔の顔から一変、失望と怒りの表情を浮かべました。
「これじゃ、到底試験受からないよ。」
このときの先生の表情と言葉は今でも鮮明に残っています。お褒めの言葉をもらうと思ってたらそんな顔をされるのでびっくりしました。
「今すぐ、書き直しなさい。」
青天の霹靂です。何を言っているのだろう、これ、今日ポストに投函しないと、期限に間に合わないんですよ。しかも、僕らが1ヶ月かけて書いた文章を捨てて今書き直せというのです。
その先生からは、
「君はこの一ヶ月十分がんばった。これで受かっても受からなくても、胸を張っていい。僕の自慢の生徒だよ。」
という、温かい言葉を僕に投げてくれた恩師です。
裏切りのような行為はしたくありませんでした。
ですが、この先生は一歩も引かず、僕には国語の先生の言葉(命令)を否定することができませんでした。
その日は、夜遅くまでコテンパンにレビューされながら書き直し、見放され、最終的にはほとんどは国語の先生の考えた文章を自己推薦文に書くことになりました。
投函するとき、"受かっても受からなくても悲しい"と思いながら封筒を入れた記憶があります。これは一次試験なので、通過するとその内容を前提に二次試験で面接されるのです。
残念なことに、この「国語先生ver」の自己推薦文は合格してしまいます。
そして、この ”国語の先生” は、
「建築の先生には、書き直したことは伏せなさい」
と僕に伝えました。
地獄の一ヶ月の始まりです。
「建築の先生ver」の推薦文を前提に面接対策を午前中に行い、
「国語の先生ver」の面接対策を午後に行う、二重生活を過ごしていました。
この生活は苦しかったです。
精神的に耐えきれず、僕は部屋に閉じこもって不登校になりました。
不登校になって3ヶ月の間、いろんな先生方・友達が家に訪問してくれました。でもそこからも逃げ続ける日々。その"建築の先生"も訪れてくれましたが、僕の心は擦り切れてしまい、もう学校に行くことができませんでした。
こんな中、仲の良かったクラスメイトが大きな決断をします。
どうにか部屋に入って、4人がかりで僕を担いで車で強制登校する、というものです。
これは最終的に成功して、学校へ登校するきっかけになりました。
別室で登校をしていく中、いくつかの本を読むようになりました。
そのうちの一つが、「13歳のハローワーク」です。
エンジニアは、あくまで仕事
この時のエンジニアの印象は、
給料が高い
高いニーズ、将来性
でした。
僕は新しいモノ好きだったこともあり、IT関係との相性が良さそうにみえました。
「平日に給料を稼いで、土日に好きなことやって生活しよう」
と考え、エンジニアになるための専門学校へ進学します。
この仕事への考え方は、最終的に僕にとって辛い生活を送る一要因だったかもしれません。
エンジニアことはじめ
新卒で入った会社では、半年に渡る長い研修の後、現場配属となりました。
この現場は中々苦しかったです。
痛みを感じる日々
この現場では、常に緊張をしていて、笑顔になることが少なかったように感じます。
その現場では時折重大なインシデントが発生していたのですが、その運用フローに自分が関わっていると、「僕のところで予防できたのではないか」などと考え込んでしまうこともありました。
慣れない環境で、慣れない仕事を、自分らしく振る舞えない状態で行うことは僕にとっては苦痛だったようです。
同期は活躍し、そんな同期に比べてうまく動けない自分に対して、より劣等感を感じるようになりました。
そんな中、同期との研修がありました。
「自分は◯◯になるんだ、するんだ」と決意表明するタイミングがあったのですが、心とは全く違う建前だけの言葉を宣言した瞬間、何かが自分の中でおかしく、心と行動のズレに摩耗して痛みを感じはじめました。
休職
元々、「仕事として好きでもない仕事をする=好きでもないプログラミングをする」意識だったので、平日は常に苦痛でした。
だんだん精神的に参ってくると、今度は土日にも仕事のことで頭がいっぱいになってしまいました。
カラオケで歌っている瞬間でさえ、「あの仕事はどうなっているか」と頭をよぎるようになったとき、「これはやばいな」と認識しました。
この後は自殺をしたくなるほど自分を責め、嫌いになっていきました。会社に行くこともできなくなり、休職することになりました。
ここでも事件になるのですが、親に一つの電話が入ります。
「警察です。おたくの息子さんのお家に穴を開けてもよいですか」
これは親もびっくりしたようで、なにかの詐欺かと思ったようですが、ガチの警察からこんな電話が来たようです。
当時、連絡も取れなくなった僕は、事件のあった地域に住んでいたので、事件性を疑われていたようです。
警察は、チャイムには反応しないが、中に人がいることを感じたようで、誘拐事件を有力として(なぜ?)、管理人不在だったので鍵もなく、壁に穴を開けて突入計画を立てていたようです。(全く謎。)
まぁ、そんなこんなで、親が僕の部屋に訪れて、涙の親子再開になったあとは、休職することになりました。
ニート生活
休職してからは、約1年ほど、何もしない生活をしていました。ニート同様ですね。
それはそれは堪能しました。日中は僕より優れた社会人様が活動しているので、皆が寝静まったあとが僕の生活時間だと言わんばかりに夜間徘徊を行います。
いやー、深夜の立体駐車場ではしゃぐのはすごい楽しかったですね。
深夜は徒歩で遠くのネットカフェまで歩き、朝の無料モーニングを食べて、母親に迎えに来てもらうのが最高のルーティンでした。
(またやりたいくらい楽しい。笑)
次第にアクティブになるころ
さて、高校時代と同じく、気持ちが快方に向かうと本を読んだり、行動がアクティブになってきます。
うつになった時の自分の体験が苦しすぎたので、なにかしらの予防策を考えました。でも抜本的な何かは思い浮かびませんし、見つかりませんでした。
「ないなら、つくってしまえ」
そんな気持ちで、1年ぶりにmacbookを開きました。
これまでは「あくまで仕事」と割り切っていたプログラミングでしたが、
このときのマインドは「自分がつくりたいものをつくる」でした。
「つくりたいものをつくる」ためのプログラミング、それはそれは楽しかったですね。
同じことをやっているのに、目的が違うだけでこんなにも感じ方が変わるのだと気付かされました。
このときから、僕はプログラミングを好きになりました。
この時つくろうと思ったのは、「話を聞いてほしい人」と「話を聞いてくれる人」のサービスでした。
うつでメンタルがやられていたとき、つらすぎて誰かに救ってもらいたくて、「いのちの電話」に電話をしたことがあるのですが、このとき30分近く電話中で、繋がらなかった経験が辛すぎて余計に絶望感が深くなったものです。
そんな現状を変えるべく、個人開発でつくったろうと思って走り始めたのですが、直後、「ケアする」というサービスを知り、「あ、このサービス使ったらそれでいいじゃん」とこのサービス利用者になって予防しようと決めました。
ただ、その ケアする も数ヶ月でサービスをクローズ。「企業でもサービスのマネタイズって大変なんだな」と感じたことを記憶しています。
目的のためのプログラミング
その後、いくつかの会社を経て現在の 株式会社エアークローゼット にジョインしました。
僕は、「うつになった過去の自分、同じような気持ちを抱えている人たちになにかできればいいな」という想いで働いています。
過去、僕が休職直前あたりは笑顔になることが少なくて辛かったので、みんなが少しでも笑顔になる時間が増えたらいいな、と願っています。
そんな活動をするために、今の僕が最もコミットできることはエンジニアリングだった、今もエンジニアとして働いているのはただそれだけなのかなぁと想います。
※いや、エンジニアリングが普通に楽しいので、まだ当分はエンジニアしたいですけどね!
エンジニアのキャリア選択
今年、キャリアを考えさせられたきっかけは、
「マネジメント」に進むのか、「スペシャリスト」に進むか
のキャリア選択でした。
僕にとっての結論は「これは手段の一つであって、これ自体は目的じゃないよね」という自己理解でした。
「やりたいこと」のための方法論としてマネジメントも、スペシャリストもあるだけで、「やりたいことをやる」というのが自身にとって最も自分らしく生きられるのだろうなと思います。
器用貧乏タイプだから、「あんまりスペシャリストに向いてない」と思っていたのですが、尊敬する先輩エンジニアたちが「スペシャリストに向いてる」と言ってくれたのも新たな気付きでした。
今年はスペシャリストとして頑張るか、という整理がついた一年でした。
まとめ
「やりたいことをやる」ということを、この一年はキャリア選択のためにあらためて考えさせられました。
これまでの人生を通しても、この「感情を大事にする」が健康でいるために必要なことなのだと思います。
なので、「感情優先」を自分にも、他者にもやっていこうと思います!
今年も元気にエンジニアできてよかったです。
来年も皆さまよろしくおねがいします!
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