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追憶と逃避行 20年ぶりの 越前旅行記青年期の躓き。

 9月19日に今年4回目の旅行に出かけた。福井(嶺北)福井市へ訪れた。
 現在、今まで携えてきた、清掃の仕事量を抑えて、かわりに、パソコンを使用してなんとか、生き残れないかと考え、物販のスクールに入学した。
その間、肩こり、痛風、軽い鬱、など軽い停滞期に突入していた。

京都駅から乗車したサンダーバードは、敦賀が最終到着駅であった。
斜め前の指定席には、西洋人の若いカップルが座っていた、男性はノートブックに何かしら、文字を書き綴っていた。女性は通路側に座り、コンビニで購入した、スナック菓子を頬張っていた。

車両から右手に琵琶湖を眺めながら、kindleで坂口安吾の「私は海を抱きしめていたい」を読む。読書前に想像していた内容とは、全く違っていた。
琵琶湖の遥か遠い水面に、魚船が陽の光で揺らいでいた。
20年ぶりに訪れた、敦賀駅は北陸新幹線の開通で記憶とは違った、敦賀駅に生まれ変わっていた。

従来、自宅でパソコンを使って仕事をすることに、憧れがあった。
例えば、FMラジオを聴きながら工場内作業をこなす。定まった結果が報酬として自分に戻ってくる。
けれども、結果というものが、得られる事もなく、自分自身の無力感と無能感と疲労感のみが増大している。物販の仕事自体が社会に対して存在意義があるのであろうか? 果ては、自分自身の存在意義とは?


元々は、一乗谷朝倉氏遺跡を尋ねる事を目的としていた。10年程度、継続している城巡りも一段落して、系統の異なった古跡を探してのことであった。
福井駅から一乗谷へのバスは、25人程度の大学生が乗り込んで旅情とはかけ離れたものであった。
この日は,すさましい湿気で一乗谷はしっぽりと濡れそぼっていた。


一乗谷をインターネットで検索をかけると、278ヘクタール、日本のポンペイ遺跡、武家屋敷、等々いくつかの言葉が浮上してくる。
私が子どもの頃、夏休みの間過ごした、母親の故郷の村落ににて、人の生活が及ばない土地であるかのようであった。
ただ、遺跡の後には、至る所に井戸があり、これ程のインフラの優れた土地がこれまでに、どういった理由で放擲されたのであろうか?との興味が湧いた。


地方の旅に出かけた際に時間が余た折に、郷土資料館と図書館に立ち寄ることにしている。案外とその旅行の骨子を掴めることが、往々にして多い。
えちぜん鉄道に乗り、西別院駅で下車した。googolマップで歴史博物館を目指していたのだが、余りにも湿度が高い気温と痛風発作の足の痛みのために、福井県立美術館に立ち寄ることにした。
入館料金は1400円そして、菱田春草という私が60歳を迎えるまでに私にとっての無知の画家の特集が組まれていた。(今まで何故か知る由もなく)
結果、この記念展に立ち寄ったことが、この旅の最大の収穫であった。
菱田春草のとりわけ、「落ち葉」について語る筆力も美術を語る知識も持ち合わせていないが、凄い作品に向かい合ったという、単純感動が残っている。

宿は、片町にあるアパホテルであった。天然温泉に使って、疲れていたのであろうか、20時半くらいに睡眠を取った。
朝方朝食のサンドウィッチをコンビニへ買いに出かけると、朝まで酒を飲んでいたであろう、若者たちが奇声をあげていた。


翌日、午前中を福井で過ごすことにした。足羽山公園へ向かい北ノ庄城址を過ぎて、橘曙覧記念文学館へと歩みを進める。20年前に訪れた時にも北ノ庄城址は立ち寄っていたので、柴田勝家像とは再会に当たる。但し、私が20年年を重ねていて、彼に2歳差まで年齢が迫っている。当時は勝家を年寄りだなと思ったが、何とも妙なものだ、生きてゆくという事は。
橘曙覧記念文学館は入館料が100円と拍子抜けする料金で郷土の偉人橘曙覧の人となりが良くわかる優れた記念館であった。橘曙覧というひとは幕末の恵まれた商家に生まれ、家業と創作(学問)との狭間に揺れて出家して隠遁の道に生涯を閉じた。鴨長明などに通じる慣習と自由に引き裂かれた人であった、ようだ。資料には書かれていなかったが、21歳の時に17歳の遊女と駆け落ちをして、連れ戻されたと記念館のビデオが紹介していた。

ここまで、パソコンの画面に数日前の思い出を書き並べいるが、一人旅の中年男性(高齢)が如何にも多い、橘曙覧の作品は簡潔明瞭であるが、21歳の躓きが作品や、その後の生き方に影を落としているのではないか?
いい年をして、歌を作ったり一人旅へ出かけるのも、過去の自分自身との再会であるような気がしてならない。
歌にあるように、そして、時々振り返ってみる、あの女(ひと)は誰だった
のだろうか・・・


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