かくも凄まじきロシアのトイレ 『ヌマヌマ』と米原万里のこと
『ヌマヌマ はまったら抜け出せない現代ロシア小説傑作選』沼野充義、沼野恭子、河出書房新社、2021を読了。
どの短編もキレッキレで、読み終わったあとの印象が様々で大変楽しかった。その中で特に印象に残ったのが下記に引用したアサール・エッペリの「赤いキャビアのサンドイッチ」にあるトイレ事情についてである。この短編、別にトイレの話でもないし、大学生の主人公が西側から来た美女とちょっとよろしくしようというものなのだが、その合間に挟まれる描写の中であまりにこの下りが強烈なので備忘録も兼ねて下記に引用。
なんで引用したかというと、以前米原万里のエッセイに、エルミタージュ美術館のトイレがまさにこの描写を地で行くように凄まじく、鑑賞した美術品の美しさを何も覚えてないとあったからである。(確か『ロシアは今日も荒れ模様』だったはず。)
その下りをはっきり覚えていないが、とにかくトイレの床に排泄物があるというような内容があり、なんでそんな事になるのか?と疑問に思ったものだ。流石にこの時代であれば上記のようなトイレ事情も変化しているのかもしれないが、この短編がロシアのトイレ事情についてかなり具体的に解説してくれた感がある。引用の部分を読むと、なるほど意図的な不潔さが必要な不潔さを生み出すスパイラルなわけだと腑に落ちた。長年の疑問が一つ解消されて小躍り。
『ヌマヌマ〜』には他にソ連時代に生き抜いた母との記憶を巡る「バックベルトの付いたコート」ミハイル・シーシキンや、はっとする人生の豊かさというか美しさをさらっと描いた「庭の経験」マリーナ・ヴィシネヴェツカヤや、これロシアで書いたらマジでやばいだろうなという「馬鹿と暮らして」ヴィクトル・エロフェーエフなどが印象的だった。
しかし、ロシア小説なんて遠い世界かと思いきや瑞々しい描写の下りなんて、日本の情緒にも似た湿度を含んだ世界観が垣間見えてじんわり来た。差異と共感という外国の作品を読む醍醐味を感じた。
米原万里
さて米原万里氏のこと、押しも押されもせぬロシア語通訳の大御所。ソ連崩壊のときからロシアになったときまで通訳を行い、場合によっては指名が来るほどの傑出した御方。
文筆業でも言語を操るくことに焦点を当てた『不実な美女か、誠実な醜女か』や、エッセイ『魔女の一ダース』『ロシアは今日も荒れ模様』や、書評集『打ちのめされるようなすごい本』など多岐にわたる業績がある。
エッセイを読むと流石、通訳の第一線で活躍してきたシビアな目線で当世のことを書いており、エリツィンや当時の小泉政権時代の空気が思い出される。今のウクライナ侵攻を行うプーチンのロシアを見て彼女が生きていたら何を書くのか、発言するのかとつい考えてしまう。
この時代だからこそ彼女のエッセイをもう一回さらって見ようかなと思う。真剣にシビアに強烈にでも本気に遊ぶことを知ってるとにかく格好いい人である。
ちなみに下着について調べあげ、その集大成として纏めた『パンツの面目、ふんどしの沽券』という本もあるので、そちらもお勧めとしてこの記事をしめてみる。