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特別なものじゃなくなった小説を作家はどのように書けばよいのか

小説は特別じゃない。
昔からずっと書いてきたので、僕にとって小説は特別なものですが、多くの人にとっては、小説は特別なものではないと思います。
小説を読む人も昔よりも少なくなったし、読む人も小説を多くの趣味やエンタメのひとつと捉えている人が多いと思います。

小説を書く身としては、たくさんの人に小説を読んで楽しんでもらいたいですが、一方で、現代は健全な状況だとも思っています。
三宅香帆さん著「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」 にあるように、明治から昭和にかけて、本は教養や他人と話すために不可欠なものという側面があり、「本を読まないといけない」という同調圧力に押されて読んでいた人もいたと思います。

その時代と比べて現代は誰に強制されることもなく、好きな人が自由に小説を読んでいます。エンタメ小説の読者にとっては、過ごしやすい時代なんじゃないかなと思います(本が売れずに困っている書店さんや出版業界の人にとっては辛いかもしれませんが)。

小説が特別なものではなくなった時代に、作家はどのような小説を書けば良いのでしょう。
今後は小説の二極化が進むように思います。二極化とは、純文学と呼ばれる芸術性が高い小説と、エンタメに特化した小説です。
今までも、芥川賞と直木賞に代表されるように純文学と大衆文学の区分はありました。その区分けが強くなり、純文学はさらに芸術性を高める方向に特化していく気がします。
例えるなら、純文学は美術館に飾られる絵画みたいなものでしょうか。
純文学は使う言葉にこだわり、技巧を磨いた小説です。そういった小説を楽しむには、多方面の知識と読書体験が必要です。知識がなくても感覚的に楽しむこともできますが、十全に著者の意図を理解するには、それなりの素養が不可欠です。
初めて抽象画を観て、絵の意味を理解できないのと同じことです。
もちろん、知識がなくても絵も小説も楽しめることはできます。それこそが鑑賞の本質だという人もいるかもしれません。
昔の上流階級のようにスノッブ的精神が必要だと言いたいわけではありません。ただ、野球観戦するのにルールを知っていた方が楽しいのと同じで、一定の知識があるとより楽しめるものがこの世にはあると思います。

小説が二極化することで、メリットがあります。初めて小説を体験する人が、いきなり純文学の小説を読んで、「これは難しい」と小説そのものを敬遠する危険性が減ることです。
今は、純文学もエンタメ小説も同じ書店で販売しています。小説の書棚が減ったことで、純文学とエンタメ小説が混ざって並んでいる店も少なくありません。
「純文学コーナー」を設けている書店を最近は見かけません。
ふたつのジャンルが明確に分かれることで、読者も好みの本が選べやすくなるのではないでしょうか。

一方でエンタメ小説は、映画やコミックと並んでエンターテイメントとして生きていくことになります。
楽しみたい人が、媒体に関係なく面白いものを選ぶ過酷な競争に、エンタメ小説は参加することになります。そこには、読むのが大変、他の媒体よりも時間がかかるなどの小説のハンディは考慮されません。純粋に面白いものを求める競争に勝たないと、小説を選んでもらえません。
これはこれで結構きついと思いますが、特別じゃなくなった小説が生き残るには避けては通れない気がします。

純文学よりのエンタメ小説もあれば、エンタメ成分を含んだ純文学もあります。純文学とエンタメ小説を分けることに意味はなく、一緒に扱えという意見もあります。
ただ、他のエンタメ媒体と競っていくのであれば、分けた方が読者に選ばれやすいと思いますが、いかがでしょうか。

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