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高村光太郎のこと 木彫『柘榴』

それはつややかに光る、掌に納まるほどの小さな木彫だった。十和田湖畔の『乙女の像』を身近に知っていたから高村光太郎は馴染みのある彫刻家だったが、それらの木彫作品は自分が見知っていたブロンズ彫刻とは全く別物だった。作品の表面につけられた鑿跡の美しさに息をのんだ。およそ40年前、大学の彫塑の授業での記憶である。

O教授が持参した大きな作品集に、『文鳥』や『柘榴』、『桃』、『セミ』などの、どれも掌に納まる程の寸法の小さな愛すべきモチーフたちが頁に並んでいた。それらはうっすらと着色されていてどれも瑞々しく、もし眼の前にあったなら思わず指先で触れていただろう。特に『柘榴』大正13年(1924年)の印象は忘れがたい。

後に、この木彫小品群は高村光太郎の木彫の代表作で、モデル代の支払いにも事欠くようになった困窮の生活を救うための策として、光太郎が企画した頒布会のための作品であることを知った。光太郎41歳の作。なかでも『柘榴』は光太郎自身が愛着を持っていた作品だったとみえ、『回想録』(昭和20年)のなかで以下のように語っている。

此などは後で一寸借りたい思って面倒な思いをした。手放して了えば、自分が作ったものでも自由にはならないから、愛着のある作品を人でに渡すのは厭になる。貧乏の最中だから仕方がなかったけれども、智恵子はそれを惜しがった。

『柘榴』のぱっくりと割れた中身には、鉱石ルビーのような紅色の種が柱状節理のように並んでいて、触れば破れそうな薄皮がそっと種を包む。うっとりと眺めていると、柘榴の外側の表皮の側面に一匹の小さな蜘蛛を見つけるのである。

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「高村光太郎彫刻全作品」(株)六曜社 1979年 より複写

はじめは蜘蛛とわからない傷跡のような突起物があるにしか見えなかった。なぜここに?その違和感は今も消えない。柘榴と蜘蛛という、まったく異種のモチーフの取り合わせを楽しむ感覚。俳諧や浮世絵を楽しんだ江戸庶民の感覚、江戸趣味というものの名残が、彼の感覚のなかにもあったということだろうか。

画像を掲載するにあたり高村光太郎の作品集を借りようと、近所の図書館を訪ねて驚いた。光太郎に関する著作や作品集は開架式の書棚にはなく、すべて資料請求しなければ手に取ることができない書庫に納められていた。彫刻家高村光太郎はもはや過去の人なのだろうかと、時の流れを感じずにはいられず、我がことのように落胆した。

ところがその数日後に、あの木彫たちとまた出会ったのである。

新しく改定される高校美術の教科書に、『栄螺』『柘榴』などの木彫作品が掲載されていた。光太郎が「貝の中に軸」を発見し、それをきっかけに「動静(ムウヴマン)を悟ったという、あの有名なエピソードも添えられていた。彫られてからおおよそ百年もの月日が経とうとしているあの木彫作品が、時の波に消されてしまってもおかしくない小さな愛玩の対象が、今また若い人たちの眼に触れようとしている。

この作品にまつわるきわめて個人的な思い出話を綴っているに過ぎないのだが、この優れた作品を、その記憶を次に繋いだようで、私はなぜかしら妙に誇らしい気持ちになったのである。








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