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裏町の大衆中華[新大蓮]のチーフ  第1章 その①

 まだバブル前の1980年頃。人と人が擦れあうようにして生きていたあの頃。その頃の僕の目には、大阪の中心街が途轍もなく眩しく見えていた。街には嘘や憎しみ、別れなどの溢れんばかりの悲劇もあったが、それに負けないだけの喜びもまたあった。
 それに比べて、大阪郊外の北摂、茨木市の町外れに佇む[北京料理 新大蓮]は、そんな都心の華やかさとは全く無縁だった。
これは、そんな町外れの小さな大衆中華店で繰り広げられた、いつもロンピーを燻らせたニヤケ顔のチーフとの、垢ぬけなく泥臭い想い出話である。

第1幕 メインストリート「イナイチ」
その① ロンピーと魔のバス停


「うわぁ、カワムラ君、見てみぃ。白いシャツ着た、あのおねぇちゃん、えろうスタイルがええわぁ。髪の毛も長くて、先っちょがくるっとカールしとる。今日一番の可愛さやなぁ」

 今日もまたチーフは、気持ち悪いほどニヤニヤとしている。鼻の下がまさしく長い。勝手口にもたれるようにして腕を組んで、好物のロングピース(ロンピー)を燻らせている。
 そんなチーフの戯れ言に聞き流しつつ、僕は大きな中華包丁を片手にほたすらキャベツをみじん切り。

「なぁカワムラ君も見てみって。どの子がええ?」
「ん、どの子も興味ないって? それはあかんで、若いんやからもっと元気出さな」

「チーフ」とは料理長という意味であるが、本来この方はこの店[北京料理 新大蓮]の店主である。この店で一番偉いはずなのになぜチーフなのかというと、若い女性を見ればすぐにオラウータンのようにフニャフニャのエロ顔になるのと、奥さんの尻に敷かれまくっているからである。よって奥さんのあだ名が「社長」。チーフは奥さんとは真逆で愛想が良くて人懐っこい性格だから、親しみを込めて「チーフ」と呼ばれていた。

「あっそうか、カワムラ君は彼女ができたんやったな。あの子の太ももムッチムチやん。えろう可愛い子見つけたもんやな。どこで見つけたんやったっけ?」
「僕が体育祭の応援団長やらされてた時に、彼女が僕のことをずっと見てたそうなんです。僕の親友の一人、留年したんでまだ2年生なんですけど、そいつの彼女の親友なんです。それで、その友達伝いに知り合いました」
「同じ高校の一級下か。わしは中卒やから高校なんて想像もつかんわ。ほんま羨ましいなぁ。もうやったんか、え? ムフフフフフ」

 昭和40年生まれの僕はこの時、高校3年になったばかり。仲良しの同級生たちはみんな早熟だったが、僕はウブもいいところで、そんなチーフの戯れ言に対してどう応えていいのかもわからず、とりあえず照れながら勝手口に背中を向けてキャベツを切り続けていた。
 チーフが眩しそうに眺めているのは、勝手口から十メートルほど先にあるバス停の前に立っていた5、6人の女性たち。それを見つめるチーフの目じりは垂れ下がって、ドスケベ満開の表情だ。

 わずか5坪の狭苦しい新大蓮の店内から見える勝手口の向う側は、とても開放的な世界に思えた。白昼の午後2時半頃。初夏の生暖かい風にチーフが燻らすロンピーの香りが入り交ざる。
 そして数秒の沈黙が続いた後、チーフが何かを思い出したかのように、いきなり野原のウサギのように首を立てて、こう発した。

「あれっ! あの子よう見たら、この前も立ってた子やわ。絶対そうや。ほぅ、やっぱり縁があるのかもしれん。よっしゃ、ワシ、ちょっと行ってくるわ」

 やっぱり始まった。まっすぐに伸ばした人差し指と中指の間にロンピーを挟みなおし、ゴリラのように体を横に揺らしてゴム長をかっぽかっぽさせながら前進する。
 店の前を走るのは片側2車線の国道171号線、通称「イナイチ」だ。すぐ近くの名神高速の茨木インターチェンジを上り下りするトレーラーや大型のトラックが時間を問わずに多く行き交い、今日も煙たい排気ガスを撒き散らしながら通り過ぎる。

 チーフはバス停でバスを待っていた老若の女性たちの中で最も若そうな女性に近づいていく。車の走る音で時折掻き消されながらも、チーフの声がかすかに聞こえてくる。

「なぁ、この前もここのバス停におったんちゃう? あ、変なもんとちゃうよ。わし、そこで店やってんねん。ほら、あの中華、中華。今からどこへ行くのん?」

 恥ずかしい限りだ。こんなんで本当に引っかかるとでも思っているのだろうか。チーフは一体、何を信じて声をかけているのか。瞬間的に恋愛に発展するとでも思っているのか。僕には何度見ても理解できない。
 軋む心を抑えながら、なんとか手元のキャベツを刻むのに専念していたら、トラックの唸る騒音の隙間から耳を疑うような言葉が聞こえてきた。

「時間あんねんやろ? よかったら餃子でも食べて行かへん?」

 僕は思わず背面飛びのようにぐいっとのけぞって、勝手口からバス停の方を覗いてしまった。
 するとチーフに声を掛けられた女性は、一歩後ずさって下を向きつつ、チーフが吐くロンピーの煙を手で払うように、「いえ、結構です」と言ったかどうかはわからないが、そんな風に聞こえた気がした。

 ロンピーの煙にまみれたチーフは、オラウータンのような満面の笑み。「えぇって、心配せんでも奢るでぇ。いやほんま。うちの餃子はうまい言うて評判やねんけどぉ。ムフフフフ」

「嫌です、もう勘弁してください」と、再び女性の心の叫びが聞こえた気がした。

 白昼のバス停での出来事。それ以上絡むと本当の変態おっさんになってしまうことくらいはチーフでもわかっているようで、照れ臭そうな顔で「忙しいとこゴメンなぁ。すんませ~ん」と軽く会釈してから、ゆらゆらと退却してきた。

「くっー! あかんわ。きっとお腹すいてなかったんやな」
「いや、そうじゃないでしょ! いきなり見知らぬおっさんが『餃子食べへん?』では、絶対に無理やと思いますわ。もう完全に変態中華です!」
「なんや、ほな何て言うたらええねん? そんなふうに言うんやったら、次はカワムラ君が行ってみ!」
「いやいや、ゴム長に襟なし白衣の中華の格好してること自体もうアカンでしょ。こんな真昼間から、白衣姿の男にひっかかる女がいるとは思えません」
「ほんまカワムラ君は真面目やなぁ。女心を全然わかってない。嫌よ嫌よも好きのうち言うてな。女っちゅうもんは時として、絶対にアカンことがごっつぅエエちゅう時があるんやで」

 出た!お得意の「嫌よ嫌よも好きのうち理論」。そう言っては、いつも社長から嘲笑されてるくせに。チーフは流しの横に置いてある一斗缶のごみ箱にロンピーを弾き捨てて、あっけらかんとした表情で客席に座ってスポーツ新聞をめくりだした。
 僕は終わることのないキャベツのみじん切りを続けながら心の中で思う。鈍感な上に、しばしば見当外れなことをやってしまうところがチーフの魅力でもあるのだが、それにしても白昼のバス停に立つおねぇさんをいきなりナンパするなんて。白衣にゴム長姿の男がいきなり近づいてきて、ロンピー吸いながら「餃子食べへん?」なのだから、コワいに決まってる。

 そもそもチーフはちょっと見、そのスジの人みたいに見た目がイカつい。背は170センチくらいだろうか。(当時)歳は僕より13歳上で30歳くらい。中肉中背で、髪型は北島三郎のようなショートアイパー。昭和中頃、強面の男たちには定番のヘアースタイルである。顔は近くで見ると日本猿か鶏にそっくりで、遠くからは痩せたゴリラに見える。この面構えでもって、夏場は下着をつけずにVネックの白衣を着ている。やめときゃいいのに、たまにイケてる気分で金のネックレスをつけていることもある。

 そんなチーフの店で僕は自ら好んで働いているわけだが、なぜ僕が新大蓮で働くようになったのか。
 僕が最初に新大蓮で働き出したのは、高校1年の後半から2年の半ば頃だった。別に料理人を目指して働き始めたというわけではない。一言で言うと、たまたまだ。いろんなことが重なって、いつのまにかそうなったのである。

                              (続く)

●カワムラケンジ
スパイス料理研究家、物書き。1980年から様々な飲食業の現場を経験し、スパイス&ハーブの研究を始める。1997年に100%独自配合・自家製粉によるスパイスのカレー専門店を開業。1998年には日替わりインド定食の店[THALI]開業。2010年に『スパイスジャーナル』を創刊(全18巻)。これまでの著書に『絶対おいしいスパイスレシピ』(2015年・木楽舎)、『おいしい&ヘルシー!はじめてのスパイスブック』(2018年・幻冬舎)がある。現在、BE-PAL.netで連載中。
◎ 大阪府吹田市藤白台1-1-8-204 090-3864-9281
thali@nifty.com www.kawamurakenji.net


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