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「さようなら」は たくさんのことを知らない

「1993 恋をした Oh 君に夢中 普通の女と思っていたけど Love 人違い oh そうじゃないよ いきなり恋してしまったよ 夏の日の君に」

 頭、というか髪? ちょっときてるのにねえ…。気持ちよさそうに歌ってさ、昔はこんな時代があったんだろうねえ…。

 先輩の、いつも喋る声からして割と想像通りなダミ声で歌われるclassの「夏の日の1993」で少ししんみりして、曲のタイトルの西暦が自分がまだ生まれる前の年なことにちょっと笑ってしまう。
 薄い麦焼酎の水割りがさらに溶けた氷で薄まり、ほぼ水の液体で唇を湿らすくらいちびりと飲んだ。御得意とラウンジに行く時は、いつもからは信じられないくらい遅いペースで酒を飲むようにしている。というか飲まざるを得ない。

 東京支社が受け持つ、胡椒や山椒といった香辛料が有名な食品メーカーの接待だった。明日イベントがあるので、その運営に向けた前夜祭だった。
 イベントというのは今の専務が東京支社長だった時代から脈々と続けられてきた、御得意の自社製品を使った100人規模のバーベキュー大会だ。先輩の担当する会社だったが、イベント運営のために支社で一番の若手である自分も駆り出された。自局エリアで開くため、出張できるのは東京で忙殺される日々の気分転換として嬉しかった。
 しかし去年、俺の直属の女の先輩が出動させられ、猛暑日に一日中こき使われた挙句、熱中症で1週間もダウンした。普通に労災である。
 今年、その役回りが自分に回ってきた。東京営業に配属された初日から「地方ローカル局の営業は何でもするんだ」と叩き込まれていた。「電通鬼十則」ならぬ「地方局鬼一則」だ。拒否権はなく、行くしかなかったのだった。

 キャバクラやラウンジはどこへ行っても女の子が脚の上にハンカチを広げてその上に小さいポーチを置く。地元の場末の小さなラウンジでもそうなら、どこでもそうなのだろう。女の子の名刺って必要か? 氷の入った黒いバケツがアイスペールとかいう大層な名前なのは可笑しい。水商売の扉はなんでシルバーの重々しい金庫扉みたいな素材でできているのか。弾でも撃ち込まれるのか?

 ああ、早く帰って明日に備えたい。

 半ば無気力気味に、一瞬気を抜いているといつの間にか隣に女の子がついていた。肩にかからないくらい髪の、おそらく背の低い、華奢な子だった。上唇の形がとても綺麗で化粧映えしていた。店の雰囲気からして少し意外な黒のシックなドレスで、レースになっている長袖から透ける肌が驚くほど白かった。首元にはチョーカーまで短くないが決して長くはないネックレス。チェーンから一体となって幾つも連なっているリボンのモチーフが、ちょうど鎖骨の窪みに向かって垂れていた。

「ねえ私さ、ここ入りたての時なんにもすることわかんなくてさ。話すこと思い浮かばないし。でね、そこにかかってるヨットの絵あるでしょう? そのヨットの数をただひたすら数えてたの」

 思わず笑ってしまった。すごいな、お店の女の子の話術は。切り口から面白い。まさに今無気力状態だった自分と重なった。

「わかります。俺もさっきまでずっとこの店にあるマドラーとグラスの数ってどっちが多いのかなって考えてました」
「あは。退屈だねえ」
「まあ。でも絶対、御得意さんと先輩に言わないでくださいね」

 御得意のカラオケに合いの手を入れていた先輩にちらりと見られた気がして、逃げるようにトイレに立った。戻ってくると違う子がおしぼりを渡してきたので、空いているその子の隣に座った。ヨットの数ってなんだよと思い、絵を見ながら数えようとしたけど、ヨットの助数詞が台なのか隻なのか艇なのかわからないなと思いやめた。


 入店時間が遅かったため先客がちらほら帰り始め、店内も大分落ち着いた頃、ママが「マスカットジュースが切れた」とキッチンでやいのやいの言っていた。

「ママ、私買ってくるよ~。ローソンのだよね?」

 さっきの黒いドレスのヨットの子が声をかけている。

「いい? ごめんね、その坊や連れてっていいからさ」

 坊やって俺かよ。さすが先輩、本社出張の時は必ずこの店に御得意を連れていくって聞いてたけど、こんなにフランクな感じなのか?

「はい! 俺行ってきます! ていうか俺だけで」
「いいよ私も行くよ、坊やを連れてね」

 軽く鼻を啜ってから、調子を整えるように笑っている。「だいぶみんな出来上がってるから、ちょっと抜けてもわかんないでしょ。ほら行くよ」と続けられた言葉に、はいと返事をする間もなく、足早に店の外に出ようとする細いピンヒールを追いかけた。

 買い物の道中、店を出てすぐの古い蛍光灯が照らす雑居ビルの階段でも、車のライトと馬鹿みたいに明るい繁華街の雑踏でも、コンビニの無機質なLED電球が灯る店内でも、彼女の華がある空気感は薄れなかった。小さくて線が細いのに指先まで存在感があった。何歳なんだろう? その指で、棚に並べてあるジュースを指す。白い肌によく馴染む柔らかいゴールドのリングが逆に彼女の指を冷たく見せた。

「ローソン、変えたパッケージめっちゃ不評だよね? パッと見めっちゃ分かりにくい! マスカットジュースってこれ?」
「え? ギャグ? それ牛乳ですよ。しかもそれ、ローソンのとかじゃなくて明治のおいしい牛乳ですよ」
「ギャグですが。ですよ? ですけど!」

 ああはいはい…さいですか。なんだこの酔っぱらいの会話は。さっと商品を取り、彼女がレジで会計を済ませた。
 待ってる間、店のガラスが気温差で結露しているのを見ていたら、背中から「おまたせ」の声が聞こえて、俺を追い越して彼女が自動ドアをくぐり抜けた。熱帯夜の金沢の空気がむわっとまとわりついた。

 また、来た道を引き返す。新月の暗い夜で、大通りから路地に入って街灯だけの頼りない道を彼女は黒い服を揺らしながら歩く。黒猫みたいだ。

「さっき、ヨット数えようとしたんですよ。あの絵の。でもヨットって1台2台…って数えるんでしたっけ? それ気になってやめました」
「ええ…。真面目かよ~。何でもいい、なんなら『個』でもいいよ!」
「『個』は違う感じする! さすがに違和感ある」
「何でもいいんだけどな。…てか何歳? 年下だったらこんなに可愛いお姉さんにタメ口は許しませんよ」

 意外と厳しい。体育会系か?

「あ、ごめんなさい。今年25の歳です。早いもので」
「あ、同じかあ。絶対下かと」
「なら俺タメ口でいい?」
「待って、何月生まれ? 私4月」
「待って待って、タメに対して厳密すぎん?」

 「ふふ、冗談冗談」とけらけら笑う。
 次の角を曲がれば店に着くなと思っていたら彼女がすっとマンションの敷地の駐輪場に入っていった。振り返って後ろ向きに歩きながらちょいちょいと手を振って首を傾げるので、ついていく。視界の端でマンホールの上にいた雨蛙がぴょんと跳ねたのが見えた。

「そこ座って?」

 止めてあるママチャリの荷台を指差して、彼女も並べてある自転車に同じようにして座った。そしてコンビニの袋をなにやらゴソゴソしている。

「へっへっへ。さっき入手しました」

 そう言って煙草のパッケージを開け、一本俺に差し出してくる。レモンクリーム色のワンカラーのネイルが縦長の綺麗な爪によく映えている。

「ねえフィルターにカプセル入ってるやつだから、噛んでプチってしてみ?」
「なんでまた」
「いいからしてみ」

 なんじゃそりゃ。右手で受け取って煙草のフィルターを人差し指と親指でつまみ、残った指で軽く握って煙草一本を包み込んだ。左手の甲を右肘に当て、支えながら噛んだ。ちょうど爪を噛みながら考え込んでいる人のポーズみたいになる。噛むと煙草の葉とメンソールの香りが鼻を抜けた。

「それ、それそれそれ! 男の人の煙草のカプセルを噛む一連の、何て言うの…所作! 大好きなんだよね。潰す瞬間ちょっと左を見る目線も好き。一瞬真顔になるんだよね。そうそう上手」

 顎を上げて空を見上げるくらい爆笑している。小さい口の奥歯が見えた。それを見て何故かめちゃくちゃ恥ずかしくて、照れ笑いになって俺は下を向く。
 しかも、その所作を見たかっただけで火は持っていないという。どういう癖(へき)なんだよ。この子の元彼みんな確定でメンソだな。呆れていると彼女が急に立ち上がって、顔を近づける。汗ひとつかいていない瞼のアイメイクが綺麗だと瞬間的に脳が捉えたところで、そっと耳打ちされた。鳴いていた鈴虫の音が凪ぐ。

「来週、東京行くのね、日曜日。お昼の1時に、新橋のSL広場にいて」

 近くて小さい声の、言葉の息の切り方まで耳に残る。彼女が顔を離すと、百合の香水の匂いが遅れて香り、それから「わかった?」と聞くようにピアスが揺れた。
 店までの残りの短い距離で、何を聞いてもにこにこと微笑み返されるだけで、結局無言で歩いた。かと思えば店の前で「投げキッスってこの世に何種類あると思う?」とだけ聞かれ「そんなの片手でちゅってするやつだけなんじゃないの?」と返した。

 ようやくイベントの前夜祭も締まり、タクシーの手配で忙しかった帰り際、さっきのは冗談だと思っていたら「それじゃあね。さようなら。来週はよろしく」と声をかけられた。


* *


 来た。本当に次の週、彼女は新橋に現れた。
 コバルトブルーのノースリーブのワンピースが悔しいけど妙に似合っていた。そして「今日はお台場に行きます」と一言俺に告げて歩き出した。ゆりかもめならこっちじゃない?と汐留方面に歩く俺を止めて「ゆりかもめって新橋から出てるじゃん」と言われた。え、そうなの? 恥ずかしいんだけど。「大江戸線で汐留勤務だから、俺!」と理由にならない言い訳をしようとするが、やめておいた。

 駅のコンコースに向かうエスカレーターで彼女を先に乗せてから後から自分が乗ると、ふざけて後ろの俺方向に寄りかかってくる。「ねえ、エスカレーターに女の子を先に乗せるのってどこで履修するの?」とにやにやしながら聞かれた。そんなこと男なら赤ちゃんのときから知ってるよ。

 日曜日なのにゆりかもめの車内はガラガラだった。「ゆりかもめはなんだか普通の電車と違って無機質な感じがするのはなんでかな?」「ゆりかもめって途中でぐるーって曲がるところ楽しいよね」といった彼女の言葉に「自動運転だからじゃない?」「わかる。でもシート硬いのが少し嫌い」と反応する。彼女が饒舌になる事柄はいつも、何か特別な思い出がありそうな感じがする。

 線路が道路と並行するところで見えたバイクの二人乗り。後部座席で男の背中にしっかりとしがみつく女が結構おばちゃんだった。

「私、将来あんな夫婦になりたいな」
「そうだねえ。夫婦じゃないかもしれないけどね、あの人たちは。彼氏はいるの?」

 「ん~?」と、またにこにことはぐらかされると、会話をつなげることができずに駅に着いてしまった。それから会話はホームにあったSEVENTEENアイスの自動販売機の話題になり、ちゃんと17種類売られてることを教えてもらった。

 駅を出ると、お台場海浜公園は五輪の準備工事でついたての柵が張り巡らされていた。遠目から閉鎖されてるとすぐわかるのに、前を歩いてた高校生たちが柵まであと5メートルの至近距離で「あれ?閉鎖されてるくない?」と気づいていた。間髪入れず2人で同時につっこみを入れた。心の中で。

 日差しが強いので彼女の陶器みたいな肌の日焼けを心配しながらしばらく歩く。途中、大学の部活のスウェットを着たいかにも授業の単位を落としそうな見た目の女の子が明るい顔で「やばい、普通に単位落としそう」と友達と電話していた。

 散歩の合間合間に繰り返される他人の日常がドラマを見ているようで面白いなと思っていると、さすがはお台場、行く宛てもなく歩いていても図らずして海にたどり着く。
 メトロポリス東京のドス黒い海の景色を一望できる芝生に座った。遠くの方にはヘッドホンで音楽を聴く外国人と天サロをしている肉付きのいいオヤジ。こんな汚い海で何を釣ろうとしているのか目的のわからない釣り人。

 今日会うのが2回目なのに、俺たちは波長が合っていた気がする。
 芝生にシロツメクサが生えていたのでラスカルの主題歌を歌ったり、四葉のクローバーを探そうとして、見た目はそっくりな癖に六つくらい葉っぱのあるクローバーではない思わせぶりな植物に文句を言ったり、何故か臭そうな海を嬉々として写真に収めるサイクリング途中の老夫婦のアテレコをしたりした。

 しばらく二人で海を眺めていると、ゆっくりと彼女の口が動いた。

「私ね、彼氏いたんだ東京に。昨日別れた」

 「別れ話をしに東京まできたの?」と聞くとそうだと頷いた。俺が店に行ったあの日決めていたらしい。

「そっか、なるほどね。なんか要所要所でいろいろとそうだろうなとは思ってたよ。ちょっと傷心チックじゃなかった?」
「うん…そうだねえ。わかった? まあ振ったんだけどね、私が。まださ、好きなところ、たくさんあってさ。この人しかいないって思ってたんだけどね。遠距離しててね、結局ずっとすれ違いだったんだな。したことある? 遠距離辛いよ、普通に。軌道修正の仕方が難しくてさ、一回喧嘩すると。まあよくある話だよ」

 確かによくある話だ。

「うん。わかるよ、俺もしたことある。遠距離」
「かつての同志か。それで色々考えてた時に、なんか君の煙草を噛む仕草を見たら『あ、別に今の彼氏だけじゃないのかもな』って思っちゃって。同じように噛むんだもんな。参っちゃうよ。そんなもんなんだなって」
「え、あれで? あれで決心つかせちゃったの?」
「まあそうかな? そうなるかな。君、責任重大だよ〜。あ、そういえば最後は幸運を祈って片手でちゅってしてきたよ、投げキッス。幸あれって感じでさ」

 俺の答えたド定番の投げキッスそのまんましたんだね。もっとしっかり考えたやつ言えばよかったよ。

「海、見たかったの? 千里浜とか地元の方が綺麗なのに。ちょっと黒すぎるね」
「違う違う。この海がいいの、JRとかメトロとかと違うゆりかもめに乗って来るお台場で、ちょっと古ぼけてきたショッピングモールを抜けて、潮の匂いが強すぎる道を歩いて見る、この海がよかったの」
「…そんなもんですかねえ。でも偉いよ今日日さ、しっかり胸の内を東京まできて伝えてさ。それで海を見て黄昏れるなんて。なかなかできないよ。俺も一緒に見れてよかった、しかも楽しかったし」

 少し間が空いて、拳一個分彼女の方に寄るように芝生に座り直してから、ちょんちょんと肩を叩いて、振り向く彼女にキスをした。もちろん爽やかなやつ。すると一瞬「おっ」と驚いた顔をした後、そのまんま「爽やかじゃん」と言いたげな顔で俺を見つめて涼しげに目尻を下げてから、まるで犬にするかのように鼻先を俺の耳に擦った。

 坂になっている芝生の上の方に座っていたせいで、通りかかったおっさんにパンツを見られた疑惑もあり、「そろそろ帰りますか」と一言。

 首都高湾岸線の高架下の交差点で信号待ちをしていた時に「今日、お店の時と違うの、わかる?」と聞かれたので、大抵こういう時はメイク関係のことだと思ってじっと顔を見た。改めて見つめると「本当にこの子きれいな顔してるな」と、不意に見蕩れたことを今でも覚えている。一瞬そのせいで言葉に詰まった。違ったのはマスカラの色で、それも当てることができた。

 青海駅まで歩いてお台場の散歩を終えた。改札に上がる途中の陸橋で小さい体で一生懸命階段を上る彼女を見て「階段上るの上手だね」と俺が褒めた。

「あら。何でも褒めてくれるのね。ありがとう」

 ゆりかもめに揺られ、JR新橋駅に着く。途中で、もうあの店も辞めてしまうことを聞いた。彼女は改札を通り抜けてからこちらに向き直り「今日は本当にありがとう」と改めてお礼を言い深々と頭を下げた。「うん、こちらこそ。それじゃあ」と俺も答えて、大きく手を振った後、上げた両手でそのまま空中にハートを描く。それから掌を上に向けて少し窄めて口の前に持っていき、ひと吹きする。手に集めた紙吹雪を吹く感じで。ちょうど空中に描いたハートが彼女の方に飛んでいくように見えるように。
 するとその意図を汲んでか、ぱくりと一口、口を動かし彼女はハートを食べた。口を閉じると空気で頰が膨らむ。鼻から抜ける息がこちらに聞こえるくらいにっこり微笑んでから、ゆっくり瞬きをして最後に「さようなら」と言った。そして、ひらりと片手を上げ、階段を上がっていく。

 「さようなら」
 その発音が確かにくっきりとした輪郭を持った耳触りで、金沢の店を出る時に聞いた「さようなら」とは全く違う別物の単語のような気がして、もう会うことはないんだろうなと、不思議だけれどそう思った。


* *


 週明けの月曜日、通勤で汐留の地下歩道からゆりかもめの線路を見上げて暫く立ち止まってしまう。そしてタイミングよく現れた車両に昨日の自分たちが何故だかまだ乗っているような錯覚に陥り、最後の車両がビルに隠れるまでいつまでもその場から目で追い続けた。

 多分これから先、新橋と汐留でちょうど湾曲して走るゆりかもめを見るたびに、彼女と彼女の「さようなら」を思い出してしまう。その時にはきっと思い出した最後に、記憶と結び付いたあの百合の香りが鼻腔に残るのだろうか。

 どんな彼氏で、どんな別れ際だったんだろう。何でお店辞めちゃって、次何をするんだろう。そもそも彼女の苗字って何だったんだろう。
 なんだ、彼女に心臓食べられちゃったのか。確かに投げキッスでハート飛ばしたけど。

 一息ついて、また歩き出す。
 今はまだ、たくさんのことを知らない夏の日の彼女のさようならを、何度もなぞることしかできなかった。






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