論35.最近のヴォイトレの状況と、ここまでの歩み

○私と声の研究

 私は、音声、表現、舞台のための声の専門の研究所をつくり、ずっと指導と研究をしてきました。いつしれず、声がライフワークとなったわけで、医者や声楽家のように、それを専門にしたかったわけではありません。声、歌、芸能の世界についても、業界を客観視しうる立場にいるように努めてきました。声について知るには、文化、風土、歴史だけでなく、国際社会も日本のビジネス社会も学ぶ必要があります。それゆえ、早くから声を生涯賭けてのライフワークにしたともいえます。
出版やレクチャーなど、外向きの活動が多かった分、養成所をつくってからは、矢面に立たたされ、業界の内外を問わず、いや、むしろ、それ以外の分野の専門家や勘のよい人たちに、多くを指摘され、学ばせてもらってきました。今も、業界ではなく社会に目を向けて動いています。

未だ、日本人の音声の弱さは、「ヴォイトレの失敗」ということさえ問えない状況で、これは声の力が現実の社会に関わり切れていないことを表します。歌や芝居においては、スポーツ、芸能ほか、多分野のめざましい世界進出に比べると、もはや、ガラパゴス化してしまいました。
有能な人材は、歌よりお笑いを選び、音楽プロダクションまでお笑いタレントで支えられています。今、声の力を活かせているのは、お笑いタレントと日本各地のお祭りか、と思うのです。声の力でみれば、です。
私は、カラオケからヴォーカルスクール、ヴォイストレーニングまで、普及に努めたものの、その線上に活路を見出せないままにいます(カラオケも、自分のキィやテンポで自分の歌を歌うように使えば、すばらしいツールなのに、この日本では活かしきれず、です)。そうして、自らが先頭に立って立ち上げてきた“ヴォイトレ市場”と距離はとりつつ、研究所は、声楽家を中心としたトレーナーと共に、声の基礎レッスンや音声表現・舞台への研究を必要とする人にオープンしています。

○時流の変化と声楽のメリット

プロへのヴォイトレのあと、一般向けの養成所をつくって、ある時期からは声楽家のトレーナーを中心とした体制にしていったのも、ニーズに合わせたためです。それは、私自身が、目指したものと世の中とのズレの修正です。2000年前後に、ダメ押しのように、なおも変わっていった日本の業界への対応をせまられたためでした。ヴォイトレの対象は、歌手や役者だけでなく、声優、ミュージカル俳優、邦楽家、噺家、お笑い芸人、そして、講師、各界のリーダー、一般のビジネスマンと広がりました。
一方、平成で、歌とともに歌の中の声の力も、社会的影響を失っていったのです。それは、ここでいう“ヴォイトレ市場”とあまり関係のないことです。ヴォイトレは、実質、トレーニングでなく、ケア一色になっていったからです。その背景には、過保護な日本で育ったメンタルの弱い人、そして高齢者(ベテランのリバイバルも含め)の増加があります。
 歌い手は、声の力でなく、ヴィジュアライズされた魅力に存在基盤を移しました。演劇もミュージカル化して、ミュージカル(日本のミュージカル)に合う歌い手が求められるようになりました。つまり、強烈な個性派のアーティストではなくエンターテイメント化し、つぶしのきくタイプが実力派とみられるようになったわけです。Jポップやカラオケと連動し、音響技術に支えられた歌は、ハイテンポ化、ハイトーン化していきました(多くは、本人の生身の体や心と離れていったともいえるわけです。声とは、本来、体と心の表れ、象徴でした)。

そのトレーニングに“日本の声楽”という日本人のソプラノ、テナー中心に、西欧の模倣でそれなりに実績をあげてきたものがピッタリとはまったのは当然のことでしょう。その延長上に何があるかはともかく、10年を発声中心に磨き上げるメニュとしては、声楽には、世界の人々が長く継承してきた実績と基準があります。何よりも、全世界の人にも日本人に対しても、声が出せるようにすることに長らく貢献しているプログラムです。
その点、邦楽は、実績はあっても、発声において一般化するには、いくつもの複雑な課題があります。一方、私は、声楽を邦楽家、役者、声優のヴォイトレに使うことで、大きな効果を実感してきたのです。
声楽家は、2オクターブ近くのオリジナルキィ(原調)での歌唱発声、特に共鳴についての専門家です。今の日本のミュージカルなら、そのレベルを必修の基礎と考えるとよいと思います。
もちろん、声楽にも声楽家にもいろいろと問題はあります。声楽のノウハウも人それぞれ似て非なるものです。しかし、声そのものの力をていねいに10年がかりで養成していく点では、研究所の指針と一致していたのです。

○私と声楽と役者声

 私が、アンチ声楽から入ったのは、私の公にしているものを読んでいる人や90年代に接した人には、よく知られていると思います。日本のオペラ歌手育成の実績は、決して世界に誇れるものではありません。
私が目指したのは、「一声でプロとわかる声」でした。十代での声は、素人並みより弱かったので、徹底して変える必要を感じ、10年、鍛え続けました。その後、トレーナーとして、毎日10時間のレッスンをして、結果として鍛えられました。
当初、劇団などで、声楽家が教えている役者の方が2、3年で声が大きく変わるのをみてきました。そのうちに、日本人にとっては、発声練習以前に、役者の声をベースにすることの必要性を実感しました。そして、ともかくも本質的なものへの勘と実践からの実感でスタートしたのです。今、思うとこれこそが開発すべき能力です(個人史は省略します)。

○目的の変容とレベルの低下

 研究所では、当初、プロの声の鍛錬中心でしたが、それだけでは、当然、偏りかねないので、感覚を育てるため、一流のアーティストの声や歌を徹底して聞かせることになりました(研究所史も省略します)。
そのころまでの私のやり方では、感覚として音楽などで磨いた耳から発声へ結びつけられない人と、元より、声の器質として鍛錬して開発できる余地(伸びしろ)の少ない人が課題として残りました。
これは、今では、その人の喉にふさわしい複数の声の見本と特定のトレーナーを個別に設定することで、ほぼ解決しています。その人の喉の可能性に合った見本と複数のトレーナー指導に委ねるのです(「自分の見本をどう選ぶか」ということです)。
この体制づくりの途上には、他の声楽家や外国人のトレーナー、プロデューサー、師匠など、他の専門家のフォローも随分と協力していただきました。つまり、研究所という組織でこそ、この弱点の克服も可能であったのです。

○低迷するヴォイトレ

 こうしたプロセスを、身をもって知ってくると、個人で教えているトレーナーのように自分以外の考え方ややり方を間違っていると感じ、自らは正しいなどとは言えなくなります。本当にそう思い込んでいる人が多いゆえに、ヴォイトレの全体のレベルが向上しないといえます。
問題は、どのレベルに目標をとるかということです。かつては世界を目指していたのに、その人の満足するところまでとなれば、それはトレーニングではなくケアです。そのくらいのことがヴォイトレであるなら、リスクも失敗も、あり得ません。
そうしたレベルで、生理的とか科学的ということでの理論や用語をもって批判や説得することには、現場にいる私は何ら意味を見出せないのです。
ヴォイトレに研究や科学、医学、生理学的知識が不要というのではありません。それを裏付けとして理解することで、よりよい考え方や方法が生み出せるし、何よりも、致命的な誤りを避けることができます。
しかし、その多くは、欧米のものや論文の引き写しのままで、そこからの実証はなく、いつまでも個別の体験評価、あるいは、権威の借用だけだからです。
医者というのは、ケア第一ですから、安全第一でリスクゼロをとり、リターンは考えません。そして、ヴォイトレという分野、ここに関わる人や関わりたい人もまた、メンタル面やフィジカル面に弱い人が増えているのがその傾向に拍車をかけているのです。
トレーナーも、克服したのはメンタル面だけで、フィジカルでは変わっていない、本人自身、変えてきていない、つまり、声も人並みか、それよりも弱い人がほとんどです。なのに、いや、それゆえ、理論とか方法に振り回されているようにみえます。そういうところで学んでも、足らないと思えば、研究所に来ていただければよいので、今は、それも役割分担と思っています。

○お坊さんの読経に学べ

私は、日本では、「ヴォイトレは失敗している」と言ってきました。世界に名だたる歌手も役者も出せていない。声楽でもそうでしょう。かつては、「日本では、お坊さんだけが日々の読経ヴォイトレで結果を出している、そこに学べ」と言っていましたが、最近は、お坊さんも喉を痛めるようです(とはいえ、お経を毎日、読んでいることで10年も経たずに声ができてきます。その声に、強さもひびきも説得力も敵わないとしたら、ヴォイトレとは、一体、何なのでしょう)。
つまり、日本人の心身が弱っているというところに嵌め込まれたのが、“ヴォイトレ市場”で、同様のことは、最近のフィットネスジムなどにも通じます。
そこでは、生理学や科学や知識での正確さが競われます。用語や言語の問題、喉頭周辺や声帯周辺の仕組みは、無視してよいものではありませんが、現場のヴォイトレで扱うのは、生身の人間の喉から出た声とその作品です。
 私は、現在も、国立障害者リハビリセンター学院のST(言語聴覚士)科の講師を続けています。ケアや知識、研究については、各専門家から最新のことを学んでいます。しかし、実用としては、分けています。ケアとして求められるなら、その対応をせまられるのは、仕事だから当然です。その点で、いつも両面から考え、アドバイスしています。

○メンタルの克服

 初期の私のメニュのいくつかは、喉の弱い人、声をあまり使ってきていない人、状態が悪くなった人などに確かにリスクがありました。しかし、当時は、20代半ばの健康優良児がメインだったので、トレーニングで喉を壊す人などいなかったのです。体づくりから始める余裕もありませんでした。
それが一般化していくと、本を読んで判断力のないまま思い込みで行う人が出てきました。そこで改訂してはトレーニング上の注意を増やし、トレーニングの分量も減らしていかざるをえなかったのです。
スポーツや武道の経験があれば、「応用と基本は違うこと」「基本は2、3年も経たないで身につかないこと」「それでも、まだ充分な基本ではないこと」「基本の力がなくて無茶をするとケガをすること」などは、わかるのです。そういう人の中では、真面目すぎてやり過ぎてしまう人に注意しなくてはなりません。頭で考えたり体だけを酷使しようとして、勘と実感を遠ざけてしまうからです。スポーツや武道をたしなんだといってもそこで一流のプロだった人は少数ですし、そうでない人は、その違いにこそ学べるものが大きいはずなのです。
こうしてみると、フィジカルでのトレーニングで、一つのことを長年かけて身につけていくプロセスを経験していない人がたくさん出てきたことも低迷の要因の一つでしょう。それが変革の理由です。
ヴォイトレそのものの目的は、日常のレベルへといくらでも下げていけます(私も、ときどき口腔ケアの仕事で呼ばれます)。
仕事や芸なら、その他の方法でも総合的に補えます。むしろ、声よりも他の能力を磨く方が早道です。そういうことで、発声専門のトレーナー、声そのものを養成していく、といえるだけの人は、そうはいないのです。むしろ、少なくなってきたと思うのです。

○パワーをつける~器づくり

 私は、10年以上、しっかりと声の研鑽を積めるように研究所をセットしてきました。そこは変わりありません。
2、3年でうまくなって、そこから先、頭打ちになるのは、声のパワー、インパクトがないからです。それは、後からつけにくいから、最初が肝心なのです。
昔は、「大きな声が出なくては歌手や役者になれない、声の職につけない」と言われていました。生の声の力で問われていたからです。今は、そうではなくなりました。 しかし、長く仕事を続けるうえで大切なのは、「タフさ、声の強さ、喉の強さ」です。そういうことでは、今も同じです。そういう基礎がないから、30代、40代でも声に変調をきたすのです。人生100年時代、それでは通じません。

本当に大切なのは、声量や声を強くすることではありません。そうして「自分の器を大きくするトレーニングで自分の限界を知り、個性を知り、さらに、自ら、声を管理できるようになること」です。
 初期のトレーニングの大切さは、どの分野でも基礎の徹底です。肉体を使うものなら体づくりです。それを、メンタルトレーニングばかりやフィジカルトレーニングばかり、あるいは、応用ばかりとか、基礎と応用のどちらも中途半端に行っているのが現在のヴォイトレのように思えます。
海外も似てきていますが、正しいとか間違いを超えて、ソフトなものとハードなものなど、その人の個性重視でいろんなものが共存できているところもあって、そこは、さすがだと思います。
たとえば、セス・リグスは、すばらしい声をもつ世界一著名なカリスマトレーナーの一人ですが、それゆえ、偏ってもいます。特に日本人に対しては。だから、彼が教えても彼のような声にはなりません。しかし、彼の周辺には、全く逆のタイプの方法のトレーナーもいるということです。

○美空ひばりにみる話し声と歌声の一致

 美空ひばりは、現在でも、日本の歌い手の女王で、その声は天才と言われるほどすぐれた使い方をしていました。彼女のベースは、大正期の一流の歌手、役者です。そして、子役として男の子を演じてきました。日本人の歌手には少ない太い声は、役者としての喉声がベースだったと考えられます。
昭和40年代のスランプのときは、太い声に偏り過ぎていましたが、かつて、作曲家、船村徹が見出した裏声の復活によってオールラウンドな歌手となりました。端唄、小唄からビートルズのコピーまで完璧にこなせたのです。30曲くらいは、途中で水も飲まずに一気に歌っていたようです(まねてはなりません。念のため)。
日本の声楽家は、歌のためにしゃべるのをセーブし、しゃべる声は普通の人が多いのですが、海外のオペラ歌手では、しゃべる声もすばらしく、そのまま歌います。一般の人のレベルで、日本人とは大きな差があるのです。本当は、歌い手はしゃべるところでも鍛えることが必要です。しかし、それは歌唱に入り、ハイトーンなどの調整期には両立しえないのです。
できるだけ、早めに声量、大きな声を意識して伸ばしたいものです。十代までの合唱団の歌唱、発声法のようなものしか知らないようでは伸びにくいようです。スポーツクラブでも複数の種目を経験した人の方が伸びると言われています。

○毎日、歩くように声を使う

 「毎日1時間、声を出していない人が、1時間、せりふを演じたり歌えるわけがないでしょう」。しかも、歌は、高低強弱で、まさに“階段”です。すると、そういう人は、声を小さくして、つまり、段差をなくして凌ぐのです。マイクに頼るのです。これでは、「歌になっても声のトレーニングにはなりません」。
鍛錬ということばが、嫌われているようでもありますが、それをスポーツのように「全力で精根尽きるまでやると力が抜けて身につく」ように思ってはなりません。喉はそこまで耐えられないからです。いや、耐えられる喉をもつ人もいますが、かなり少なくなっています。そこでは徹底して合理的に鍛錬していかなくては変わらないでしょう。

メンタルの問題が大きくなってきましたが、これもフィジカルからメンタルを鍛えるのです。いえ、勘と実感を磨いていくと言った方がよいでしょう。
このフィジカルにおける総括的な発声の問題は、結局のところ、解剖生理学やケアの医学で「神経系などのコントロール」というように説明されています。筋トレ・呼吸トレ害悪論の根拠になったようなものです。
しかし、そうした正論と思われる批判を受け入れたところで、トレーナーや本人は、よりローリスクローリターン傾向になるだけです。
ハイリターンが目的であれば、期限や成果などのリスクとどう兼ね合わせていくのかです。そこは、全くスタンスが違うのです。そこを逃げずに、前向きに挑戦させられるのが、トレーナーという存在でありたいと思っています。

 喉を酷使しない、充分休める、声を無理に使わない、風邪のときは出さない云々は、当然ふまえておくことです。しかし、現場での仕事は、そういうリスクのオンパレードです。
 下手なヴォイトレをするよりは、「海外へ行って生活する」「出家する」ことをお勧めしてきました。あるいは、当初からずっと提唱してきましたが、「腹から笑い転げる」方がましです。全ては、結果をみて声がどうなのかです。ここではヴォイスのトレーニングですから、声の結果をみてということです。
最後に、日本人はコピー好き、原調好きですが、ファンはともかく、業界の関係者には、アーティストの喉への手厚い配慮をお願いしたく存じます。楽器のように弦を張り替えたら済むものではない、本当に貴重なものなのですから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?