RE_PRAYにおける「僕は媒体」を語る その1
RE_PRAYが告知された時、ゲームの世界観が入ってると聞いてゲームを予習しなきゃと思ったんです。羽生くんの日頃の言動からFFⅨ〜Ⅹ、エストポリス伝記Ⅱあたりが出ると予想し、使用楽曲やストーリーなんかを予習しました。(10/28〜29のnote参照) ストーリーを把握して、楽曲がどんな場面で使われているのかを知れば単純にRE_PRAYの解像度は上がります。そーゆう意味で予習はしておいて良かったと思ってます。(ただしアンダーテールは予想できなかった) が、物語の世界観に浸れるかと言われたらそれはない。
Youtubeでエストポリス〜をチェックしてた時、実際にゲームをされてた方の「泣きながらボタンを押した」とゆーコメントを見つけたんです。おそらく最後の戦い、主人公のマキシムが皆んなを守るために戦わなきゃいけない、けど自分の命を犠牲にしなきゃいけない、みたいな場面だったと思うんです。主人公に感情移入して戦ってきた人にはもの凄く逡巡する場面だったと思います。でもゲームをやった事がない私は感情移入できない。だって逡巡するよーな経験をしてないのだから。
で、今回のRE_PRAYですが、羽生くんファンとゲーマーさんでは刺さるものが違うと思ったんです。私はやはり2幕の「いつか終わる夢 RE」〜「春よ、来い」が刺さるんです。プログラムが羽生くんの辛い体験、それを昇華させてきた過程を思い出させるから泣けるんです。でも羽生くんファンではないゲーマーさんにはその感覚は分からないと思う。
前回のnoteでゲーマーさんの呟きを紹介しましたが、その方の呟きの続きにはこれがあります。↓↓
RE_PRAYの最後、アイスリンク仙台で羽生くんが滑る場面はエストポリス〜の最後の戦闘シーンの楽曲を使ってますよね。逡巡しながらボタンを押しただろうゲーマーさんには泣ける場面のよーです。この感覚はゲーマーじゃない羽生くんファン、つまり私には分からない。
で、何が言いたいかって、RE_PRAYを観て何が刺さるかは観た人のそれまでの経験でこんなにも変わるってこと。同じものを観てるはずなのに「そこで泣く?」ってくらい刺さるポイントが違う。何処に刺さるか?何に感動するか?そこにその人の経験、歩んできた人生が表れるんだなーと思ったら「僕は媒体」って言葉がすごく腑に落ちた。
素晴らしい芸術に触れて感動する。それって、自分の心が揺さぶられた経験が呼び覚まされる事なんだと思う。つまり、そーゆう経験がない人は感動に至らない。羽生くんのパフォーマンスに感動するのは、羽生くんが素晴らしいだけじゃなく、観る側にそーゆう経験、心があるから。「僕は観る方々の感情の鏡とか媒体」と羽生くんも語ってくれてます。↓↓
羽生くんに感動する私達はそれだけで素晴らしい存在なのだ。羽生くんに感動できる、それだけで胸を張って良い。ちなみに、スイッチインタビューの時はこのよーに語ってます。↓↓
媒体とゆー言葉よりも詩的な表現ですね。月が綺麗って愛の告白ですよw
羽生くんが媒体とゆー言葉を使うようになったのはプロ転向してからですよね。アマチュア選手の時代、表現を語る時はスケーティングスキル(正しい技術) を語る事が多かった気がする。これについても語りたいのですが、長文すぎるので一旦切ります。お読み頂きありがとうございました!
おまけ①
アンダーテールのヒントになる呟きです↓↓
おまけ②
トップ画は会場写真。鑑賞した人それぞれのRE_PRAYがあると思うと感慨深い。もちろんライビュー、配信、CS放送で鑑賞された方も含んでます。