1 サカヌキ村に到達、保護される

晴れた早春の日の朝だった。

万年雪がかかる高い標高の山岳地帯を北へと突っ切るように、長く緩やかに下ってゆく広大なジンメ渓谷。
その豊かな幅をもつ谷間は、夜明け前からかかった雲に覆われて、まだ薄暗かった。

谷間から山の稜線へ緩く這い上る道を辿れば、尾根の上には濠で守られた城門。
暗い奥行きのある城門の前に、兵士が一人。
煤けた黒革鎧と硬革兜に身を固めて、門番の当直に立っている。

兵士はゆっくり歩きまわって、霧の冷たさに耐えている。
もう少し濃い霧ならば、奇襲のリスクがあるので城門は閉ざされるが、今朝は少し見通せる。
霧が無ければ、城壁の上の見張りが先に見つけてくれるのだが、この霧ではあまり期待できない。
兵士は、欠伸を噛み殺して見張りを続ける。

そこに、霧の中から、幽鬼のようにゆらゆら、ふわふわと頼りなげにふらつきながら、ゆっくり近寄ってくる小さな人影が現れた。
子供だ。
その後から、また現れる、二人、三人と。

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兵士の背後、谷間を見下ろす山の稜線上には、城にも見紛う頑強な城壁が築かれている。
この要塞は、その周辺の谷間の農村と一括りにされて、サカヌキ村と呼ばれていた。

本来は区別の為にサカヌキ要塞とかサカヌキ城と呼ばれるべきなのだろう。
しかし歴史的に、元々尾根の上に村があったのが、次第に谷間へ生活域を拡げていき、谷間の農村部の方がずっと広くなった後になってから、元々の山稜上の村域が要塞化した、という経緯(いきさつ)がある。
その為に、行政上も、村人の意識としても、未だに相変わらず全域ひっくるめて同じ『サカヌキ村』と呼ばれ続けていた。
村人が敢えて区別する時にだけ、『上村(うわむら)』『下村(したむら)』と呼んでいた。

眼下の谷間には、柵で区切られた農場や牧場が幾つも広がっている。
ここら辺の農家は主に牧畜で暮していた。
点々と道具小屋が、牧場脇の樹下に隠れるように置かれている。
幾つかの畜舎の中には、豚が眠っている。

要塞のある山稜の下の斜面にも、樹木や灌木、草むらの間が広く牧場用に空けられて、放たれた羊や山羊の小さな群れが見える。
そこでは稚い獣たちが草を食んだり、悪戯っぽく跳んだり駆けたりしている。

だがそれらは、よろめきながら城門へ近づこうとする者たちの目には入っていなかった。
或は、目には入っていたのかもしれないが、意識の外にあった。

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ぼくたちはもうボロ雑巾のようだったが、遂に辿り着いた。
この危険な辺境の地で唯一、安全を保障してくれる筈の城塞、サカヌキ村に。

ぼくはろくにものを考えることもできず、ハアハア、ハアハアと涎を垂らしたまま口で息をしていた。
手をあげて口の端を拭う余裕もなく、握りしめた木の枝で痛む身体を支え続ける。

ぼくたちは、まっしぐらにサカヌキ村の門を目指して進んでいる筈。
しかし、足が勝手にふらつき、よろめく。
それを、手にした枝でどうにか持ち堪えて、ふらふら、ふらふらとサカヌキ村の門へと近づいていく。

意識が朦朧としている。
寒さ、眠気、痛み、空腹、疲労、恐怖、そうしたものは総て、意識の外へ締め出されて、ひたすら前へ、前へと進むことだけしか考えられなかった。

門から走り出てきた大人たちに声をかけられても、誰もが「んん……」と意味をなさぬ唸り声を搾り出すか、ただひゅーひゅーと喉を鳴らすばかりで、喋ることができなかった。

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