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総括ー慎慮と洞察

泉利治

本稿は本日の分で丁度一年間書き続けたことになる。毎年、一年間は同じテーマで書き続けてみようと思い今回はその2回目に当たる。今回は原稿用紙で約500枚くらい書いたことになる。毎回10枚で納めることを目標に書いてきた。塵も積もれば山となるである。中編小説くらいの分量である。もう少し書き続けようとも思ったが、ブランディングを中核に置いた内容で続けることが困難になってきたというのが正直なところである。ただ、本当のところこのテーマで書けることはこの10倍はあるような気がしないではない。というのは私のブランディング経験が全て実際のプロジェクト体験から得たものなので、プロジェクトの守秘義務と一種の職業倫理の観点から書きたい内容がかなり制限され,書きたいことが書けなかったのである。したがって、この一年間書いてきたものは隔靴掻痒の感があったような気がしている、また肝腎なところを抜きに書いた結果、無味乾燥な内容になってしまったとしたならばすべて私の責任である。正直なところ、書いている本人も面白くはないものである。文才を補うあの事実としての臨場感とタイムリー性がないものはどうみても価値が半減してしまうものだ。
 
今回の「慎慮と洞察」は2012年のテーマということでまず今回の分で一区切りである。一年間、読んでいただいた読者には心から感謝をしたい。
 
前年の2011年は「さきつおや」というテーマで書いた。これは私自身のルーツや家族を精査することにより自身のアイデンティティの起源のようなものを理解することだった。なので今回の慎慮と洞察はそのような点からみると私の職業経験から私のアイデンティティのようなものを理解するような作業であったといえるだろう。2011年の「さきつおや」は私がもう少し有名であれば価値があるであろうし、公開する意味もあったろうが、残念ながら無名なものなのでほとんど価値がない、したがってUSBに静かに収まっている。
 
本稿は「総括」ということなので総括をしてみよう。そもそも、この慎慮と洞察はブランディングやマーケティングのエッセイのようなものを意図して始めたのであるが、それはこの分野に肩ひじの張らない読み流せるような読み物があったら良いだろう、というような意図から始めた。その根底には全体を包括する哲学のようなものが必要と思った。
 
本稿の主眼は「慎慮」にある。英語のprudenceに当たる和訳であるが、あくまで発想は英語のprudenceの方にある。この論考で何回かふれてはいる。アダム・スミスから聞き知ったワードである。意味はー幸福を最大限に確保するための長期的な計画と計算の能力ーということで人間の幸福を人間自身で獲得するための能力というような意味である。
 
神に頼らず人の知恵で人が幸せになる社会組織の仕組みをつくり、安定的に人間が幸せに生きるためのプランが「慎慮」である。したがって、この慎慮の中には「洞察」という意味合いも含んでいるがタイトルとして納まりが悪いので洞察という語を付け加えた。
 
慎慮の本質は人の命にたいする確実な保障である。その基本となるのが経済である、多分スミスはそう考えたのだろう。経済とは何のことはない、命を長らえるための衣・食・住を保障するための物理的な方法である。狩猟採集の人たちにとっての経済活動は木の実がなる木を覚えて、その時期になったら拾いにいくこと、落とし穴を作って獣を捕まえること、釣針で魚を取ることなどであり、その中から保存のために貯蔵できる何らかの手段を講じて、命の安定に努めることなどである。そうすればもし木の実の収穫が不調な時や猟で獣が捕まえられなくとも家族は飢えることはない。いつもたらふく食べられることは最も幸福なことである。この場合、食物を十分に貯蔵できることがprudenceのエッセンスになる。経済学の基本原理とはこんなことである。なので富とはそこの余剰の部分にあたる。余剰をたくさん持っているということが豊かさのことである。スミスの国富論はここから出発している。
 
それから何万年か何十万年後、獣を飼い慣らしたり、木の実に匹敵する穀物を育てることを考え出し、毎年安定的に命の糧を得ること知り、そのいくらかを貯蔵することを覚えたのである。貯蔵したものを交換するようになって、人々は生活を加速度的に発達させた。それをさらに発達させたのは貨幣の発明だ。その発展を支えていた哲学がprudenceである。
 
経済活動は誰にも教えられなくとも世界中に人が暮らすところで生み出され発展していった。しかし、その活動を実践から切り離し、抽象化し、一般化し、論理的に考えたことで経済学が生まれた。その基本原理を知り、実業に応用した国や、組織、人が豊かさを獲得した。それは将来の姿を見通し、計画し、現在の行動を方向づけ、制御することにより可能になったからだ。
 
本来、あらゆる生命は自身の生を全うするために生まれたときに自らの命の中にprudenceをプログラミングされている。人間とほかの生命体の違いは他の生命体のそれは書き換え不可能なハードディスクの中にprudenceが組み込まれているが人間のそれは書き換えが可能なprudenceだ、というところが大きな違いである。したがって人間のそれは初めに他者が教育として書き込まなければただの箱になってしまうということである。
 
この原稿はウィンドウズ8が入った新しいパソコンで書いているが、以前のそれはXPで書いていたので三世代新しくなったということだが、正直に言うと8もXPも私にとってその差は違わない、基本的にワープロ機能しか求めていないからだ、したがって今は死滅したワープロでも十分事足りるような気がしないではない。
 
人間以外の生命体は基本的にワープロのように一つの作業だけができる、固定した機械ということがいえるだろう。つまり、生きていって種を残すための書き換え不用な生命体ということだ。だが、使いやすく故障が少ない。それにくらべ人間は使いにくく、動かすには時間がかかり、操作を少しでも誤ると全く機能しない。それどころか他人や社会に害を及ぼす働きが当然の機械になってしまったりする。

この論考を価値あるものにするためにブランディングというところに立ち位置をおいて書いてきた。また、ブランディングを一過性の便宜的なマーケティング手法にしないために、その裾野を広げるような活動にしたいという意図をもって書いてきた。それはブランディングがどうも一過性の流行では終われない根源的なものを持っているような気がしたからである。また、考えを深めていくには人間や社会について先人が残してくれた無限の知識を手懸りにすることによって多くの示唆を得ることができることが判ったからだ。というのはブランディングをステップアップするにはそのような方法論を取らない限りすぐに壁にぶつかってしまうだろうからだ、ブランディングは他の経営手法とは異なる部類に属している。ブランディングを極めるということは人間や社会の仕組みを極めることの他ならないと思っている。
 
この一年間、毎週月曜日に新しい論考を掲載することを目標としてきたが、今度からはもう少し余裕をもって書いていきたいと思う。ただ、書くべきテーマはブランディングやマーケティングやデザイン、戦略にという分野を中心にして書いていこうと思う。これから日本が向かう未来は、今テーマドメインとして挙げた分野がことのほか重要になると思われるからだ。たとえば民主党が国家戦略室をつくったがそれはまったく機能せずに終わってしまった。というのは国家戦略とは何かという?少々青臭い議論をしなかったからだ。だから誰の理解も得られなかった。わかったようでわからないのが戦略ということなのだ、したがって、やろうとした民主党の人たちも何人がその本質的意味やその使命を分かっていたろうか疑問である。
 
どうも日本ではこのような本質論のような議論をしにくい風潮がある。マスコミ主導のコミュニケーション構造の中ではそうなってしまうのだろうか?その反動でサンデル教授の哲学教室は流行っているようだが、そこまでソクラテス議論はする必要はない。その中間が日本の社会には必要なのである。そのあたりを狙いたいというのが本論のめざすところである。

2013/2/11 投稿記事

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