「ロシア」「ウクライナ」に関係する内容の可能性がある記事です。
極端な内容・真偽不明の情報でないかご注意ください。ひとつの情報だけで判断せずに、さまざまな媒体のさまざまな情報とあわせて総合的に判断することをおすすめします。 また、この危機に直面した人々をサポートするために、支援団体へのリンクを以下に設置します。 ※非常時のため、すべての関連記事に注意書きを一時的に表示しています。
見出し画像

街のライフスタイル

泉利治

前回、“メーカーズシャツ鎌倉”だったので、今回も鎌倉に関することを書いてみたい。鎌倉はご承知のように「富士山」とともに世界文化遺産をユネスコに申請している。ただし、かなり苦戦を強いられそうである。そこに住んでいる人から見るとすでに認証された他の世界文化遺産に比べるとどうもインパクトにかけるのである。確かに見慣れてしまったということもあるが、たとえばモンサンミッシェルやヴェネツィアは鎌倉とくらべると、これは凄い!という、言わずもがなのようなところがある。つまり、一瞬で納得できるインパクトがあるのである。知や理で判るのではなく、肉で判るような何かがある。
 
残念ながら鎌倉にはそんなところがないのだ。「武家の都」で申請をしているが分かりやすい事例で言えば鎌倉時代の遺構などは皆無なのだ。3年位前に倒れてしまった鶴岡八幡宮の銀杏ぐらいが当時の人とかかわりを持ったものか?(公暁の隠れ銀杏と言われ、三代将軍実朝を暗殺するためにその銀杏の陰に隠れて待ち伏せたといわれている。)また、切り通しや和賀江島のような自然物もあるがそれと武家のかかわりを理解するにはかなりの努力が必要だ。先週、最終回を迎えたNHK大河ドラマの「平清盛」で若き頼朝が鎌倉の町の基本プランを絵地図で指しながら説明するシーンがあったが、そこに載っている建物が一つでも残っていれば話は変わると思われる。残っているのは海から鶴岡八幡宮に一直線につながる若宮大路だけである。自然城砦都市と言えばそれは間違いないが、そこに武士が創り上げた何かが残っていればよかったのだろう。
 
ただ、世界遺産にならなくとも鎌倉は大変魅力的な街である。古都鎌倉がその魅力の源泉なのかというとそうではないというのが私の意見だ。そもそも古都であることはたまたま教科書か旅行パンフレットに書いてあるだけでその魅力の源泉にはなっていないと思っている。では海か?たしかに「海に光る古都」というのも魅力的なフレーズだが、先にも書いたとおり古都というのは観念的なもので現実としてみる何もない。イタリアの海辺の町ならすべて海に光る本当の古都だ。あえて、言うならばもう一つの世界遺産に申請している富士山が見えることぐらいだ。
 
鎌倉の摩訶不思議な魅力とは何なのだろうかと考えたときに徐々に分かってきたことはその地域と人が織り成すライフスタイルなのではないかと思うようになってきた。
 
現在の鎌倉には2種類の人が住んでいる。一つは何代にもわたって住み続けている人たち、それともう一つは鎌倉に住みたくて他の土地から越してきた人たちである。その中で鎌倉の魅力の鍵を握っているのは後者である。考えて見れば鎌倉に幕府を開いた源頼朝でさえよその人なのだから、とはいえそうだが…?鎌倉とはよそから来た一群の人たちがつくりあげたライフスタイルが何層にも積み重なって出来上がった独特なライフスタイルを持った街というのが私の考えなのである。その微妙なミックスが説明のできない魅力の源泉なのではないかと思っている。
 
鎌倉は鎌倉幕府が倒れてから歴史の表舞台から何百年間も消えてしまったといえる。正確にいうと少なくとも1333年に新田義貞の鎌倉攻めにあって北條高時が自刃したことによって終わってしまった。その後、鎌倉が歴史上クローズアップされたのは明治維新以降である。明治元年とは1868年なので500年以上もの間、埋もれていたということになる。その間江ノ島とともに観光地としてクローズアップされはするがそれは日本中にある名所旧跡のひとつとしての意味しかもたないものだ。
 
明治以降日本が欧化するがその影響を直接的、間接的に受けて鎌倉は甦ってきた。日本はさまざまな形で欧化していったのだが、鎌倉ほどさまざまな形で欧化した街はない。それは欧化しようとした異なる日本人と、本物の西洋人によって欧化したのである。欧化しようとした異なる日本人たちとは、まず、鎌倉を別荘地としてとらえて別荘を構えて、そこで西洋のライフスタイルを具現化した人たち。この中には政治家、財閥、華族などがおり、実際に欧米に行って西洋を体験した人たちである。この人たちが現代鎌倉のイメージの原型をつくったことは間違いない。かれらは明治のもつ楽天的な、気分の中で西洋に一種のユートピアを見たのであった。そこにある衣・食・住。そこで織り成すさまざまなライフスタイル…そこに憧れと夢と、未来をみたのである。つまり、日本の新しい形を。運良く、富裕なかれらはそれを日本で具現化できたのである。 
 
次は海軍の軍人たちである。当時の鎌倉の別荘のリストを見ても海軍の高級将校たちの名前を多く見かける。横須賀に海軍基地を持っていた日本海軍の将校たちは英国式の海軍生活を自分の家庭に持ち込んだ。それを実現するインフラは当時の鎌倉にはそこそこに整っていた。横須賀線で通うことは可能であったので、鎌倉に借家をした海軍武官は相当いたのではないか?あの芥川龍之介も海軍の英語教師として採用されたとき鎌倉から通ったくらいである。
 
次はいわゆる文化人たちである。有島武・生馬、黒田清輝、津田梅子、新渡戸稲造…。時の文化人とはまずほとんどが欧化したライフスタイルをめざしていたといえる。ともかく新しい文化とは海の向こうから来るものと思っていたからだ。その延長線上に川端康成や大仏次郎などの鎌倉文士がいる。
 
変わったところでは少しばかり時代は下がるが大船撮影所に通うために有名な映画俳優やその関係者たちも鎌倉に居を構えた。いまでもそうだがいわゆる芸能人は一般大衆のライフスタイルのベンチマークであることは変わらない。かの有名なみのもんた氏の鎌倉山の住まいは女優の田中絹代の住まいがあった後に建てられたものである。
 
あとは本物の西洋人たちである。鎌倉は横浜から至近距離にある。その横浜には外国人居留地があり多くの外国人が住んでいた。いまでも山手地区に残っている西洋屋敷はそこに住んでいた西洋人たちの住まいであった。したがって、山手地区やそこから根岸の旧競馬場にいたるまでの広い地域にわたって西洋人が多く暮らしていた。その中でもよりぬきの人たちが鎌倉にも別荘地を構え、週末には海辺の別荘ライフを楽しんでいた。当時、外国人には行動制限があり、住むところや出かけて行って良い範囲が決まっており、それ以外のところに行くには政府の許可が必要であった。鎌倉は横浜の居留地に住む外国人が自由に出かけられるぎりぎりのところにあった。そのような外国人のなかで著名な人物はスコットランド商人のジェームス・ペンダー・モリソンだ。60年にわたり日本でビジネスを行い、日本の発展に寄与している。また、居留地外国人の生活環境の向上にも大きな功績を残している。かれが起こした在日外国人のためのスポーツクラブ「横浜カントリー&アスレチッククラブ」は145年経った現在でも外国人、日本人を問わずに門を開いている。かれは鎌倉の材木座に3000坪に及ぶ土地を所有しており、そこの屋敷で行われるパーティーはヨーロッパの社交界とはこのようなものか、と思わせるものだったらしい。
もう一団の西洋人とはロシアから亡命して来た人たちである。明治の鎌倉には帝国ホテルに匹敵するホテル「海浜ホテル」があった。ここはサナトリウム「海浜院」として出発し、ニコライ堂を設計したコンドルの設計により西洋的なホテルとしてリニューアル、内外の貴顕が利用するようになった。とくに大正6年(1917年)に起きたロシア革命で祖国に見切りをつけた多くのロシア人が日本に亡命し、鎌倉に滞在した。かれらが馴染んでいたライフスタイルを可能にしてくれる場として鎌倉はそれなりのインフラが整っていたのだろう。海浜ホテルの別棟の長期滞在者のほとんどが亡命ロシア人であった。日本のバレーの発展に寄与した草分けとも言えるエリアナ・パブロバもその中の一人であった。
また、その後大きな影響を与えたのが菅原通済が進めた「鎌倉山住宅地」計画である。昭和3年に一回目の分譲が始まったそこを購入できる人たちはまさに各界の名士のみであった。女優の田中絹代、声楽家の藤原義江、公爵近衛文麿、横綱常の花、歌舞伎の市村羽左衛門、尾上梅幸、作家永井路子、他にはわかもと製薬社長の長尾欽弥、国務大臣の松本烝治などである。当時のセレブたちが買い求めたのが鎌倉山住宅地であり、当時の庶民に耳目を惹いたことは間違いない。
 
鎌倉のもつ独特なイメージは、当時の選ばれた人たちがその憧れを具現化しようとした、若々しい想いがベースにある。それが海と小高い山々の緑のなかで今でも息づいている。
 
したがって、同じ古都といっても京都などとはまったく異なっている。京都も鎌倉と同じように様々な異なった人たちのライフスタイルが重層的に積みあがっているが鎌倉との違いは基本的にすべてMade in Japanなので基本的に一貫性がある。それゆえか鎌倉などにくらべて深みがあるライフスタイルをつくりあげている。
 
京都くらべると鎌倉の特異性は一貫性がないことと、そのベースになったとも言える武士階級が当時、文化といえるものを持てなかったからである。あえていうならば禅宗との結びつきからそこに至ったかもしれないが、源家から政権を奪った北条家にはそれを創れる能力のある人はいなかったようだ。結局殺し合いに始終したという印象しか残っていない。
 
たしかに世界に名だたる「サムライ」を創出した原点が鎌倉にあり、その発祥の地であることは間違いないのだがそこにいたサムライたちに世界の人々が惚れ惚れするようなサムライの美学も哲学も思想体系もないのが真実である。鎌倉のサムライで一番見事なサムライと思われる源義経も鎌倉と言うより京都の人だ。鎌倉との関連では義経の妻であった静御前が請われて頼朝の前で舞った「静かの舞い」くらいで白拍子であったといわれている静かの舞がどのような舞であったか定かではないが唯一、鎌倉で文化の香りがするエピソードをもっている。
 
世界遺産でもいろいろあるが鎌倉は「世界文化遺産」として申請をしているのだが残念ながら文化の要素もかなり薄弱のような気がする。ただ、禅宗と結びつくとそこに少しは厚みが出そうだが、そこのところは分からない。せめて禅宗のシンボル鎌倉五山のいくつかの寺が鎌倉時代のものでもあったらと思うのは私だけではあるまい。一番古いとされる円覚寺の舎利殿も1563年に円覚寺が全焼したあとに移築した室町前期のもので、厳密な意味で鎌倉時代のものではない。しかし、それゆえと思うのだが鎌倉はその後さまざまな文化を育み、重層的なライフスタイルを創りあげてきたともいえる。

2013/1/28 投稿記事

この記事が参加している募集

マーケティングの仕事

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!